九月八日は、大事な日と申してあるぞよ。行くへも知らぬ、日本であるなれど、九月の八日一つの光が見えたぞよ。東京のオリンピック招致、裏には、龍宮の計りがあるぞよ。されど、浮いてはならぬぞ、国の頭(かしら)も国民も力を合わせて、しっかりと果たさねばならぬぞよ。それが為には、日本の浄め急がねばならぬ、安全を第一の国とせねば、後で、外国から笑われるような事となってはならんぞよ。
扨(さ)ても神は、菊の座、佛は蓮の座に乗りて居ると申してあるぞよ。菊の座は、光の座でもあるぞよ。神々や人の御魂の菊の座を司るのが、菊理姫(くくりひめ)であり、佛の蓮の座を司るのが、阿弥陀如来であるぞよ。神佛の世界には、鵲(かささぎ)の橋を掛けて結びてあるぞよ。是も菊理姫の括(くく)りのはたらきであるぞよ。菊座に神が乗るのは定めであれど、これまで、その事は封じられ、皇室の十六菊の紋のみ輝きて、日本の国を治めてまいりたが、真は、十六弁より弁の多い菊座もあるが、未だ明かされぬ事であるぞよ。神や佛は、菊座や蓮の座に、でんと、胡座(あぐら)をかいておるだけではないぞよ。神にも、喜び、悲しみ、怒りもあるぞよ。されど、人民の我が身中心の欲から出た、喜怒哀楽の感情で無く、神理に照らしての神の念(おも)いであり、神理(真理)に合いた行いは、喜び、神理に外れた行いは、悲しみ哀れみ、怒りもするぞよ。どんな時でも神の念いは、正しき道に返さんとするのであり、時の流れの如く止まる事は無く、常に弥栄であるぞよ。福島の原発の垂れ流しの汚染水も、海の潮
の力で浄化を早めるよう、神は苦心いたして居るぞよ。人民は神の事等、そっちのけで、山を崩し海を埋め、大氣を穢し、地球の生命をちぢしめておるが、是は神の悲しみであり、怒りともなるぞよ。人民は、神があろうと無かろうと、おかまいなしで、物金豊かに恵まれて、栄耀栄華の暮らしを求めて日々送りておるが、天地の神の恵みあっての人の世である事を忘れては、必ず人の世も行き詰まりてしまうぞよ。人が現(こ)の世に生きるには、金も物もいるなれど、生命あっての物種と言う事を忘れず神理に照らして、精神を豊かに育てねばならぬぞよ。
扨ても、この年は、伊勢も出雲も遷宮の重なる奇しき年であり、世界が変わる節目の年であるぞよ。登る日の伊勢、沈む日の出雲と異なる四九三(しぐみ)を結んで居るのが、白山菊理姫の神業であり、菊理姫の神の働きによりて、今日迄、隠されて封じられていた裏の四九三も日が差して表に出るのであるぞよ。菊理姫(九九理秘)の神力を現す為、去る八月三十一日、東近江の真澄人十一名、暴風の中を、十一面観世音、白龍と化しての導き無事、神との誓約(うけひ)を果たしたぞよ。神の導きと、それぞれの御魂の因縁による御用であったぞよ。伊勢と出雲の結びは、天地、日月の氣の結びであり、日月、そろいて世の守護をいたす時節のめぐりとなりたぞよ。括(くく)り結びの裏には、必ず菊理姫の神の働きある事を忘れてはならぬぞよ。五弁の菊座に乗る人の御魂も、始めの神との誓約を忘れ、利己主義(われよし)の道に走れば五弁の菊座も失う事となるぞよ。人(霊止)と現の世に生まれたからは、只、我が身の生活に明け暮れるだけで無く、縁(ゆか)りある神に仕へ、仁義礼智信(五常)の道を守り、義務と責任を忘れぬよう細かく氣配りをして、身魂を磨き、末に御魂の親神の元へ帰り、天晴れ人としての使命を果たした事となるなれど、今のままでは、親神の元へ帰れる者は少ないぞ。それ故、初志を忘れな、初めの神との誓約をわすれなと、くどい程申してあるぞよ。もう少しのところまでまいり、慢心して落ちてゆく者、哀れじゃぞ。慢心いたして居るものは、自我の岩戸閉めて居るから、守護神守護霊の言う事も、人の注告も耳に入らず、自ら道を外れてしまうぞよ。良く良く心いたされよ。恩義忘れぬ事が、道から外れぬ要(かなめ)であるぞよ。人にばかり好い顔して、もてはやされても現の世だけの事であるぞよ。常に見ておる神を忘れてはならんぞよ。人の世に於いても、人との約束守れぬ者は、誠無く、人の信用も失いてしまうぞよ。本ありて末ある道と言う事を、軽く思いてはならんぞよ。常に我は慢心して居らぬか、我が身を返り見て、人を逆恨みしておらぬか、常に氣をつけておらねば、肉の身には、すぐ魔がさすぞよ。我が身は正しい間違いないと思う時すでに慢心であるぞよ。慢心取り違へは、神の道、第一の禁物であるぞよ。今ぞ、大きな時代の替わり目、この時道を外れては、もう帰る道も無くなるぞよ。さあ、この日本から世界に向けて大和(大輪)の道を興さねばならぬ時となりたぞよ。
一點素心
言霊神也 ン
平成二十五年九月十日 天橋道士 龍華斎 修聖拝写
扨(さ)ても神は、菊の座、佛は蓮の座に乗りて居ると申してあるぞよ。菊の座は、光の座でもあるぞよ。神々や人の御魂の菊の座を司るのが、菊理姫(くくりひめ)であり、佛の蓮の座を司るのが、阿弥陀如来であるぞよ。神佛の世界には、鵲(かささぎ)の橋を掛けて結びてあるぞよ。是も菊理姫の括(くく)りのはたらきであるぞよ。菊座に神が乗るのは定めであれど、これまで、その事は封じられ、皇室の十六菊の紋のみ輝きて、日本の国を治めてまいりたが、真は、十六弁より弁の多い菊座もあるが、未だ明かされぬ事であるぞよ。神や佛は、菊座や蓮の座に、でんと、胡座(あぐら)をかいておるだけではないぞよ。神にも、喜び、悲しみ、怒りもあるぞよ。されど、人民の我が身中心の欲から出た、喜怒哀楽の感情で無く、神理に照らしての神の念(おも)いであり、神理(真理)に合いた行いは、喜び、神理に外れた行いは、悲しみ哀れみ、怒りもするぞよ。どんな時でも神の念いは、正しき道に返さんとするのであり、時の流れの如く止まる事は無く、常に弥栄であるぞよ。福島の原発の垂れ流しの汚染水も、海の潮
の力で浄化を早めるよう、神は苦心いたして居るぞよ。人民は神の事等、そっちのけで、山を崩し海を埋め、大氣を穢し、地球の生命をちぢしめておるが、是は神の悲しみであり、怒りともなるぞよ。人民は、神があろうと無かろうと、おかまいなしで、物金豊かに恵まれて、栄耀栄華の暮らしを求めて日々送りておるが、天地の神の恵みあっての人の世である事を忘れては、必ず人の世も行き詰まりてしまうぞよ。人が現(こ)の世に生きるには、金も物もいるなれど、生命あっての物種と言う事を忘れず神理に照らして、精神を豊かに育てねばならぬぞよ。
扨ても、この年は、伊勢も出雲も遷宮の重なる奇しき年であり、世界が変わる節目の年であるぞよ。登る日の伊勢、沈む日の出雲と異なる四九三(しぐみ)を結んで居るのが、白山菊理姫の神業であり、菊理姫の神の働きによりて、今日迄、隠されて封じられていた裏の四九三も日が差して表に出るのであるぞよ。菊理姫(九九理秘)の神力を現す為、去る八月三十一日、東近江の真澄人十一名、暴風の中を、十一面観世音、白龍と化しての導き無事、神との誓約(うけひ)を果たしたぞよ。神の導きと、それぞれの御魂の因縁による御用であったぞよ。伊勢と出雲の結びは、天地、日月の氣の結びであり、日月、そろいて世の守護をいたす時節のめぐりとなりたぞよ。括(くく)り結びの裏には、必ず菊理姫の神の働きある事を忘れてはならぬぞよ。五弁の菊座に乗る人の御魂も、始めの神との誓約を忘れ、利己主義(われよし)の道に走れば五弁の菊座も失う事となるぞよ。人(霊止)と現の世に生まれたからは、只、我が身の生活に明け暮れるだけで無く、縁(ゆか)りある神に仕へ、仁義礼智信(五常)の道を守り、義務と責任を忘れぬよう細かく氣配りをして、身魂を磨き、末に御魂の親神の元へ帰り、天晴れ人としての使命を果たした事となるなれど、今のままでは、親神の元へ帰れる者は少ないぞ。それ故、初志を忘れな、初めの神との誓約をわすれなと、くどい程申してあるぞよ。もう少しのところまでまいり、慢心して落ちてゆく者、哀れじゃぞ。慢心いたして居るものは、自我の岩戸閉めて居るから、守護神守護霊の言う事も、人の注告も耳に入らず、自ら道を外れてしまうぞよ。良く良く心いたされよ。恩義忘れぬ事が、道から外れぬ要(かなめ)であるぞよ。人にばかり好い顔して、もてはやされても現の世だけの事であるぞよ。常に見ておる神を忘れてはならんぞよ。人の世に於いても、人との約束守れぬ者は、誠無く、人の信用も失いてしまうぞよ。本ありて末ある道と言う事を、軽く思いてはならんぞよ。常に我は慢心して居らぬか、我が身を返り見て、人を逆恨みしておらぬか、常に氣をつけておらねば、肉の身には、すぐ魔がさすぞよ。我が身は正しい間違いないと思う時すでに慢心であるぞよ。慢心取り違へは、神の道、第一の禁物であるぞよ。今ぞ、大きな時代の替わり目、この時道を外れては、もう帰る道も無くなるぞよ。さあ、この日本から世界に向けて大和(大輪)の道を興さねばならぬ時となりたぞよ。
一點素心
言霊神也 ン
平成二十五年九月十日 天橋道士 龍華斎 修聖拝写