玄徳道

道を語るブログです。

神に仕える道

2020-12-16 19:12:49 | 考察
私、鬼雷は、神に仕える人間である。

私は出口王仁聖師を尊敬しているが、決して、大本の神に仕えていない。

私は、ワールドメイトの道院における深見青山の師である、故根本誠乾老翁の薫陶を受けた。しかし、決して、道院の「至聖先天老祖」の宗教面を鵜呑みにしていない。

私が先天坐を通じて、妄想より、溶かれ、自己が現実にマジアった、至聖老祖に絶対の信頼をおく。

人は神を信ずる。しかし、それは、人からの情報により、踊らされているお方が殆どであります。

例えば、創価学会の人員による、教化により、昭和の時代は多くの信者を増やしましたが、御本尊とは、貧乏人を金持ちにさせる。信ずれば、幸せになると云う、妄想を信じ、自己の内に、真成る御本尊を感得出来ず、この世を終える方々殆どであるようです。

詰まるところ、宗教に神は、存在しない。

宗教を信ずる者に何故、神が織られないのであろうか。


盲信するからである。


絶対なる、神に、イエスキリストは、神は、愛なり。と端的に述べた。その当時の、ユダヤ教なる教えでは、神とは、戒律であった。


キリスト教では、カトリックの腐敗により、プロテスタントが、生まれ、日本では、昭和の神人、手島郁郎さんが、真に神に向かい逢うための無教会派がしめされた。その後継者の話は、また、別。


神に仕える者は、決して、金銭を受け取らない。伊勢白山道、リーマン氏のように、アフェイクリエイとによる金銭の受託は、しない。

ただ、木村藤子さんのように、御布施を戴くのみ。


神は万物普遍の霊であり、決して人間を偏愛せず、酌みしない。


なぜ、霊能力者が存在するのか。それに呼応する、相談者が生まれるのか。


世には、神の仲介役なる、眷族界が存在するからである。

それらは、決して、神の言葉を述べる事はない。眷族の意見であるだけ。一部の真実のを鵜呑みすれば、因果が訪れるのみ。


さて、主神から、すれば、人は同じ木の実。

別け隔てなく、皆、根源から派生した存在。


ゆえに、もし、貴方が神へ、内鳴る吾が神を覚神したならば、神に仕えるならば、自己成る、自分とは、人間の過ちを犯す存在でありながら、欲得を捨て、懸命に、自己の本気を顕さねばならない。


なんせ、宗教に支える人々は、教理に支配されているが、真成る神に仕えている人は、自由意識を持ち、新たな、創造力を持つ。

宗教に支配されている人。神を信じていない人。

真に零層が高いのは、神を信じていない人に軍配が上がるのだから。

鬼雷の独善的判断でございます。


あしからず。




コメント (3)
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