太上老君(老子)が沂水道院での扶乩に臨まれて曰く。
修道には必ず、"私"を治めなければならない。
私を祓いのけるには、先ず、戒律を守るのである。
戒律は、また多方面にわたっているが、吾が道では、三点に重きをおいている。
それは、"淫"と"殺"と"盗"である。
"淫"と言うのは、万悪のはじまりであり、そもそも、人として知っていながら、品行を傷つけ、名誉を汚し、家声を辱め、いろいろと素行が治らず、永久に好色漢という、不名誉な名声を頂く事になる、由縁になるのである。
いわんや、その精髓が内に枯れて、強健なる体格を害(そこな)う事になり、生命を先に断ち切り、強壮なる年齢や、歳月を維持しがたくなり、身の守るべき、本分を失うにおいては、なおさらの事である。
そうなれば、道(神)は一体何に身を寄せるのであろうか。
これを道を破壊するところの大賊となるのである。
どうして、戒めないでいられようか。
"殺“と言うのは、生に反するであり、天の心というものは、殺生を好まないのである。
そこで、人の心と言うのは、この天の心を体し、身を持って実践すべきところなのに、かえって、権利を争って、軍隊を動かし、権威を欲しいままにして、人民を虐げる。
これは元より、殺戮の大なるものである。
魚や、鳥獣を獲ることを楽しみとしているような者は、魚や兎が無実の罪を蒙っていることを、知らず、飲食の足しに、多く殺めて、鶏や豚の禍を顧みず、疾痛因苦の有り様を見て、悪因の当然の報いであると見なし、蠢いている虫の類(たぐい)に対しては、蟻など虫けらの生命など、どうして惜しい事があろうかと問題にせず、むやみに、あらゆる生き物の生を害し、かえって自分だけは、長生きを望んでいるのである。
この"殺"というのは、道を害するところの鋭利な刃物である。
どうして戒めないでいられようか。
"盗"と言う字は、その意味が広範にわたる。
ただ、金銭や物品を盗むと言う行為だけでなく、人の成果を横取りしたり、あるいは借りたものを返さなかったり、また、表面は仁者のように装ってはいるが、実際の行為はそれに反しているのに、その偽りの生活を良いと信じて疑いもしなかったり、また、その性は智を以ってあれこれ詮索し、取り繕い、その行いは、これを表面的にその功は、これを弁舌に託して言いふらしている等がある。
道は本来、至真であり、"盗"があれば、どこもかしこも偽りとなり、これは道に背く、大いなる惑いである。
どうして戒めないでいられようか。
全て、三つのものは、これを招くような業を為せば、これに感じて念を起こすのである。
内の念が清まってくれば、外の業によっても、それに左右されなくとも済むのである。
昔の賢人が道を求めるや、清潔にして、正道を固く守っておるのは、あたかも処女を守るようであり、その憐れみて情け深い事は、まるで慈母があたたかく、育てるようであり、その担白にして、磊落なることは、あたかも、田野の老人が率直で飾りけないようである。
内の念が純正であれば、功行に精勤する事が出来るのである。
君子には、以上三つの戒めがあり、道に志しある人は、誦してこれを習うのである。
ただ、これを知ることは、容易であるご、これを行うのは難しいのである。