功行のニ字は、各仙仏真人が多く発揮せられたところであり、修行の導師とするのに、過ぎるものである。
自分(黙真人)に一悟するところがあったので、未だ適当か、否かを詳らかにしないが、同修(道を修める者)も共にこれを研究することを希望する。
功の意義は、包含するところ、甚だ多く、行の候(情状)を証するに、また、いたるところに妙理がある。
ニ字について言えば、功行とは、行いに、功を得たものである。
その要(かなめ)は、もとより、行いにある。
すなわち、行いが「允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の中を得たものであり、「これ精これ一」を得たものである。
(注 鬼雷述べます。允に厥の中を執れ=道統の相伝。中庸の奥義)
(注 これ精これ一=道統の相伝であり、允に厥の中を執れを補助するものでもあり、一とは無欲を、精とは、太極を指すものと考えます。)
このようにして、言えば、行いに功を得るのは、なんと困難なことではないか。
それ故に、どうしても、切実に到るところ、何処でも、その、時々、何時でも、何事でも、事毎に、修悟をなさなければ、ならないのである。
発顔した以上は、堅固恒久に、怠ることのない、志をたてなければ、ならない。
そこで、求修願文の第一句に曰く「願わくば功候を修められますように」と謂うのである。
功行は、誠恒の修でなければ、得ることは出来ない。
そして、吾々は日々に修め、時々刻々に行い、何時でも、何処でも、みな言うところ、常に行うところが、
功行に合するものは、すぐに枢冊(魂の数)に記録される。
功行に合しないものは、これを何と謂うか、
過行である。
何を過行と謂うか、過ぎたることと、及ばない行いである。
修により、悟りにより、時により、事によって忽然と覚る者は、則ち、過行を整えて、功行とすることが、できるのである。
功行の記録があるように、同じく過行の記録もあるので、過行を功行に転換する事が出来れば、その記録は功行の方が超過する者となる。
修によって悟り、覚によって照らすことは、ただ、功行が記録されるということだけではなく、功候を養い、功候を増進させた事になる。
これを以て考えるならば、聖神仙仏の成功が、常に戒慎驚惧して、臨むが如く履むが如くして、決して少しの放恣の心があるように、しなかったのは、まことに、故あることなのである。
修人は、皆、よくこの理を明からにして、朝、夕努力すれば、過行があると雖も、これを化して、功行とする事が出来るのである。
凡人は、このようにせず、修行の正しい締まりを悟らず、我儘勝手な言葉を言い、気のむくままに、その行いを乱す。
それ故に、罪行があり、邪(よこしま)な行いがある。
同じように、狂って、道理に外れる者があり、その為に枚挙し難い、罪行も同じようにある。
だが、その因を植えたとしても、ひとたび、能(よ)く、懺悔する者は、直ちにその悪因を化、する事が出来るのに、ただ、知るだけで悔い改めることのない者は、悪因が善行を除去して、一たび、善功が尽きれば、災いの応報これに随って来る。
まことに、憐れむべき、憫(うれ)うべきことである。
これを以て、五教の教主、釈迦、イエス、老子、マホメット、項先師(歴史ではいないとされる、孔子の師であり、儒教の祖である)、は自らの身体を断ち切るのを、厭わず、地獄に入って、普(あまね)く、救済をなし、各仙仏は、苦言を以てねんごろに、繰り返し、教えを告げて、深く溺れ、迷う人や、それを聴いても、ぼんやりしている人を救って、挽回する事を希望しているのである。
幼児がまさに、井戸に堕ちようとしているのを見て、仁人君子に、痛み、悲しむ心を生じない、者は無く、それを挽き戻して、救おうと期望する者は、もとより、幼児の優劣によって、救おうか、否かを考えないのである。
天地は、大徳を以て、万物を生じ、仙仏は、慈悲を以て衆生を救うのである。
善を修め、善を悟る、各々の修人は、自ら、これを悟覚することが、出来るであろう。
修行に励み、努めなさい。
吾は、各同修の修悟の前途の為に、慶賀することを禁じることが、出来ない。
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