蓋し、今の人は光る石が好きらしい。更に、輝く金の延べ棒が好きらしい。
ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルド、アメジスト。金銀、翡翠。
すみません。わたしは武骨な男にして、宝石に何の価値も見出せません。何の興味もありません。何が素晴らしいのかわかりません。
変人鬼雷でございます。
私は磐笛好きですが、翡翠の磐笛には、何の興味がありません。
そもそも、天の磐笛とは、自然石に穴が貫通したり、中途の穴が空いており、息を吹き込めば鳴る存在でございます。
その地域特色なる天然石の自然石の磐笛が大好きです。
故に、例え、翡翠なる石に、人工による穴を開けて、音が鳴る石となっても、それは、天の磐笛ではありません。
ただ、人の手により、穴を開けて、息を吹けば、音が鳴る笛なる石であり、天然自然の淘汰を受けて、いない、人工的な笛でございます。
真なる天の磐笛は、人の手に関わらず、自然の感化を受けて、故に、神々が授ける、神受の磐笛となります。
すみません。ごめんなさい。石笛を買われたお方。
されど、あなた方が買われた高額の石笛は、吹けば鳴る笛の石、それだけの存在です。
各地の自然の淘汰感化感合を経た自然の造作が加わったもののみが、神授の天の磐笛と成るのでございます。
私、鬼雷の偏見でもあります。重ねてご容赦を。
縄文時代の神人は、己が身魂が光る故に、宝石には興味がありませんでした。
出口王仁師が述べるには、ダイヤモンドの宝石を身体に装飾するのは、曲神のやり方を真似ておられると。
言わば神ご自身が光に坐(ま)しませば、ダイヤモンドの宝石を身にまとうのは、神のご自身の光の弱気を示す理由となられるようです。
例え、宝石が好きでもよい。身に付けるのも良し。
しかし、身魂への価値観は皆無でございます。
宝石を身につけた、人が光暉となる事は無く、人の価値観で高貴な身分と見える事もありましょうが。ただ、自己満足の世界でもありますね。
真に人を輝かせるのは、宝石では無理です。
人を真に輝かせるのは、笑顔で、愛善の徳に満ち、真信の光が備われば、身に宝石を附着せずとも、自らが輝いているのでございます。
あまてらす、神の誠を、悟るべし、文句を謂わず、万物光らす。
欲芯 、捨て去る、心を、持ちいなば、心に残るは、慈悲と微笑み。
成金の、成り果て見れば、悟るべし、争い多き、休息出来ず。
宝物で云えば、竜宮の乙姫の海に眠る財宝があるが、竜宮の乙姫は全ての宝を国祖に献じた。
物質的に光る石に、興味を持たれる方は、欲に溺れる御魂の持ち主でごさいます。
ダイアモンドで人が真に救われ、幸せを得ることは、あり得ません。
物はモノでごさいます。
ものとは、物の怪に繋がります。
大金持ち主に、けっして平穏なる絶対安全なる安心の日を送れる人間は、少なく、心は常に、苛立ちと、不平と、文句ばかりなり。
いにしえの 神は示す 宝石に 禍津に親しむ 曲がりの心を。
御魂とは、思いやりを 示す道 誠の道なり 意志光るなり。