坐の真の意義は、ただ、静を凝らすことだけである。
どうして、静を凝らさなければ、ならないのであろうか。
それは、後天に生まれて來てから、すべて、一切の物質によって、誘惑されるからである。
これらの誘惑は、みな六根(目、耳、鼻、舌、身、意)によって、六塵(色、声、香、味、触、法。眼で見て色塵となり、耳で聞いて、声塵となり、鼻で嗅いで香塵となり、舌で嘗めて味塵となり、身に触れて触塵となり、意に着して法塵となる。)となる。
知らず、覚らずのうちに、心が外のものに、囚われて、常に妄念妄想をめぐらし、元気を損傷し、それによって、先天の炁は、日に日に、衰弱して、固有のエネルギーを消耗し、尽くすのである。
(鬼雷注 固有のエネルギーとは、人の魂力であります。今の人は、自己の根源なる親神を知らず、ただ、惰性に、世の習慣の中で、生きているのみであります。多くの聖人や哲人のように、何故自分が生まれたのか、何故、生かされているのか、疑問を持たれ、自己の生来の役割を知ろうとする方が非常に少ないのでございます。)
吾が道の坐功では、初歩の入門を形坐と云う。
どうして、形坐を以って入門とするのであろうか。
それは、形坐を以って入門としなければ、上乗に至ることが難しいからである。
坐椅子をもって徐々に習坐し、平々坦々として、損なうことが無いようにするのである。
坐功は悠久のものであり、その成就した者は、少なく無いのである。
坐功は先ず、形坐より始まり、心坐に入り、心坐より、息坐に進むのである。
息坐は、黙(一念不生)を悟り、これが坐の根本であり、先天の坐でもある。
それは、恰も、胎児が生まれてくる前に、氣海(母親の胎内)に平坐している状態であり、そこには、少しの雑念も意念なども、存在しないのであり、それは、なんと無為自然ではなかろうか。
息坐とは、先天の炁霊の坐である。
故に、形坐より、心坐。そして、心坐より、息坐に進むのである。
そこで、心坐の工夫には、何か守るべきところがあるのであろうか。
形坐と心坐の工夫を用いるところは、同じであろうか。
もし、心が外の物に囚われて、混乱している状態で、この心を集中して、安定させることは、非常に難しいのである。
例えば、芸術などを習練する場合に、素晴らしい演技や、スリルが多くあるが、当事者は至極平静無事であるが、観客は、これを素晴らしいと賞賛するのである。
ある者が言うには、この種の芸術は人々が
誰でも習練して体得出来るものでは無いのであると。
しかし、その実、決して人々が習練して、得られないものでは、ないのである。
ただ、その苦しみに耐えて、習練することが、出来るか否かにかかっているだけである。
この習練が成就した後には、心中に少しも苦痛が無く、ただ、快適を感じるのは、どうしてであろうか。
それは、内に充実して、定まるからである。
内に充実して、定が確立されれば、坐功において、すでに一度の功候に達したのである。
形坐は、心を練り、氣を練り、質を錬る所以である。
心坐は念を空とし、竅(穴交)を虚とし、自然の運行に任せ、以って先天の炁霊の自然の活力をのばし、適合される所以である。
息坐は、先天の炁霊の自然に坐し、ただ平黙だけである。
平黙を行う事が出来れば、息坐は自ずから、功を現すことが出来る。
形坐の工夫は、用いるには、反復くりかえし、しばらく困難があったとしても、竅を守り、また、念を清めることである。
守るということに固執することなく、また、息坐の工夫を用いてはいけない。
あまり、守ることに固執すれば、目眩がする。めまいがすれば、滞ることになる。
心坐で守る事は、心の本来の主宰(内在神)を守ることであり、端然として、位を正す(黄中通理=中和の位に居て、正を体得する事が.これ、位を正すなり。)だけで、自ずから、能(よ)く六通四闢(六通とは、陰陽風雨晦明に通じることであり、四闢とは、四方が開けること。)して、以って中和を致すが出来る。ただ、それだけである。
このようにして、和の光が充実してくれば、直晶(陽氣)は自ら昇り、曲汚は自ずから滅びてしまうのである。
坐は、必ず悟らなければならない。
坐の経訓を能く悟ることである。
悟れば必ず黙することが出来るのである。
念が無い時は、一たび感ずれば通じ、一たび通ずれば、即ち悟り、一たび悟れば、化し、一たび化せば、明らかとなる。
吾が師(老祖)は、平黙の二字を以って坐功の主旨と為しているが、それは、坐功の秘伝だけでなく、もし能く平黙を得ることが出来れば、一時の先天の炁霊の感通があり、前もって、予知することもでき、本性を見ることも出来るのである。
たとえ、それが一時的であっても、継続して、日に日にこれを発展させれば、成功することも出来るのである。
それには、必ず継続することが最も大切であり、一面では心氣を平にし、黙静を修めるのである。
静の一字は、形坐の時期においては、時間的な制約を受けるのである。
この、静は四度(一度=4分)より始まり、八度、十六度、三十二度などと、時間の制約を受けるのである。
坐らない時には、坐っている時の静には及ばないのである。
心坐の習練は、たとえ坐らない時においても、形坐の時と同じように錬るのである。
たとえ、暇で何にも無い時に、心を練ると言う事は、比較的容易である。
これは、暇で何にもないので、この心があまり、乱れていないからである。
一旦事ある時には、心坐を練ると言う事は難しい。
それは常にそのことのためにら心配するからである。
更に事が思うように行かず、意気消沈している時や、怒り心頭に発する時に、心坐を錬ることは、更に難しいのである。
されど、それを克服するには、修練することを知り、習練に志すことである。
最初は習練しても上手くいかないが、この志しを変えることなく、必ず再三再四錬るので、そこで成果があがるようになるのである。
最も心配するのは、一度習練しても上手く行かないので、中途に挫折してしまうことである。
それでは、効果を上げることは出来ないのである。
天下の事はみな、粗より、精に進み、錬ることによって得られる。
学んで時々刻々にこれを習うようにすれば、必ず最高の玄妙の境地に至るのである。
それには、必ず人知れず、苦労をして、一途に貫いて、習練に励み、これを学び、悟り、実行していけば、善いのである。
いかに高遠な理想をもっても、千里の道も一歩からであり、高い山に登るにも、低い処から、登り始めるのである。