玄徳道

道を語るブログです。

合坐合霊道。

2023-06-15 18:40:00 | 私的考察
霊とは如何なるモノであり存在であろか。

「神は万物普遍のにして、人は天地経綸の主体であり、神人合一して、ここに無限の権力を発揮する。

普遍とは、宇宙創造の現象であり、ありのままと言うことでもあり、そして、そのありのままの自然とその現象には、霊が在ると言う事でございます。

坐とは如何なるモノでありましょうか。

一般的には瞑想と呼ばれ、自身の深奥に至り、また、自然と調和する事と成り得られる道でございます。

私は左足がモートン病になった時に、何とか足指を開きのアイテムを付ければ登れるかもと、六甲山剣座へ登りましたが、途中、激痛により、脂汗を流しながら、何とか到着致しました。

痛みの為、剣座の前の小岩に腰を下ろし、そのまま、坐をする事にしました。

季節は四月中旬にして、藪蚊さん等おいでにならない時期であり、痛みを鎮化する為でもありました。


さて、坐るという事は、実に継続あるのみでして、鎮魂法帰神術と同様に早期の効果は決して得られません。

例えば、ある宗教教祖が先天坐を初めて行った時に、神、仙、仏が降りて来られ、同時に、道院は本物であった等と書かれておられる宗教教主もおられますが、それは、全て妄想であり、坐の功験には、いっときの期間がかかります。

速功は不可でございます。

簡単に言うと、母の母胎にあったとき、胎息していた呼吸が、オギャーと生まれて肺呼吸となり、肺呼吸が自然の呼吸となった人が、直ぐに胎息の呼吸法に戻るには、ある程度の時間が必要である所以であります。

吾が先天坐は胎息をもって、歩む道と至します。


剣座の前に坐し、痛みも何もかも感じなくなり、ただ、自己の気の運(めぐ)りがあり、ふと気がつくと、剣座と一体化のような感覚を受け、また、周りの樹木とも繋がってまいりました。

坐の経典「太乙北極真経」には合坐の道が示されており、かつての老祖は、先天炁により、人、岩、樹等、霊在る存在を枢府に上乗させた事を思い浮かべました。

私達人間は、全てを差別致します。

太古では、人は草木と語り、動物や虫を差別すること無く、一体感をもっておりました。

全ての宿る霊を感知し、その働きは違えども、全ての生物や植物、岩石すら地球に於ける生成化育の役割としての存在意識なる普遍意識が根底にあったからでございます。

太古以降は、人の知恵が増すにつれ、人間は植物、動物、虫類の存在意義を無視し、それらをさげずむ、優越意識の思うがままに、自然を征圧し、また、同類である人間を望むままに、制圧し、奪い合い殺し合うようになってしまいました。


坐るという事は、その欲望、差別意識が薄くなってきます。

故に、坐をする者は、互いに繋がる事が可能となります。

坐のような事を自然体でする、樹木、磐座などは特に、感合し、合坐合霊をしやすくなるのは、当然であるのです。

故に、人よりも、天然の樹や、磐境、磐座と合化するは、易しい。

現実に、多様な思念あるニンゲンと交わるは難しい。


私の自我も人間に漏れず、魔王のように酷く、唯我独尊にして、誰に対しても従う事が出来ない暴れん坊であった時期もありました。

されど、先天坐の道は、本当にわたしを済度(すくっ)てくだされました。


坐の道は無限大であり、先天坐を基礎とする者へ、お願いです。

老祖の弟子である方々は事あるごとに神坐す斎庭に行って頂きたいです。

もし、あなた様が、神氣湧く神社に行けば、坐する者が来れば、その主催神は大変喜んでくだされます。

坐する者は、天地運行を体内で司るからであります。

一般の人間が、神坐す神社に行っても、自己の願いを述べるだけであり、神の生成化育に、関与されないからでございます。

私が面白いと思うブログ、「アメブロの神主が語る「神霊」と「霊術」と古き日本の心を伝へるブログで…」では、「神は人を救わない」と述べておられますが、然りでございます。この方、選別意識が凄過ぎて、中庸を得た人が、学びとして、見れば丁度善い真理を得られる事となると考えます。

ちなみにその方は、神社には、神は居ないとも仰っておられ、私はそのような神社も確かにあるので、その激しき 日本原来の鬼神界を現れを歓迎する、不徳を好む面がある、悪人、鬼雷でございます。


基本、神は人には、関与せず。

神は自然なり。運行なり。太極なり。

ただ、神の眷属による、人との因縁があるのみ。


つまるところ、人の思念が、神様が救ってくだされると妄想するだけなのでございます。

神は人を救わない。

是非あるかもですが、ここは重要でございます。

されど、救わぬ神は、人を扶ける。

神が自然ならば、人たる種も自然物だからでございます。

 

神坐す、神社で、坐する事が出来れば、それは、善き行法となります。

しかし、現実に、神坐す、神社で、先天坐は、出来ることもありますが、人がいれば、この人怪しいと、思われ、坐することは難しいですね。

そこで、鳥居を潜れば、心坐を成し、御神前に至れば、いのり、から、息坐へチェンジ(胎息となる)し、虚空の最中に神柱や、御神霊も交われば、合坐合霊による、清浄化合、天人合化、天地和合、自然安寧へと至り、世の平和の基礎を打ち込む杭となり、この世界を襲う劫業を弭化する事も可能であるのです。

息坐とはあくまでも、無相無念でございます。

磐座磐境が在る神域、聖域でも同様の結果が得られるのです。


扨て、世に云う、悟りを開く人、聖者、聖人、神人の霊種とは、過去世には、岩石と樹木の霊であった者が多く、黙然として、態度と言動に出さず、静黙をもって、人を導く聖者が多いようであります。

言わば目立たない、騒がない、自慢しない、敬虔な人。


人を導くに当たるには。

お金を取らない。

見返りを求めない。

親切に教える。

質問は大好きである。


真に神に使える者は、如何なる事があろうとも、金銭を要求しないのです。


救いに、命の次に大切なお金を払うことにより、悪劫を祓う事が出来る云々、それに連なって、カルマ、業、劫を述べられる人も多いのです。

しかし、結局、大金を払わなければならないのであれば、それは、商売であり、神の道では決してありません。

神にお金は無用であります。

それに携わる人が欲しいのであります。

ただし、神社仏閣による運営、維持にはお金が必要なことは、確かであり、納得して、玉串なり、賽銭なり、喜捨をする事は大切な事でもあります。


いずれにせよ、自分を救えなければ、他人を救えないのは、自明の理でございます。


われ自身を救えるのは、真我である、自分自身の深奥でございます。

もし、貴方が宗教や占いを欲する人であれば、永遠に、それに依存し、自己深奥の道は決して得られないのでございます。

坐すると占を欲しなくなりますよ。占に依存しなくなりますよ。


そして先天坐を為し、合坐する神人が一人でも増えれば、その貢献は計り知れません。

もし、あなたが、至聖より、道名を得た人であるなれば、一宗教に偏らず、吾が老祖の大道を歩むべきであると考えます。









コメント (2)
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