全ての基礎は、自分の心にある。
今世及び、来世を救おうとすれば、先ず、自分の身を修めることから、始めるべきである。
万行は、一より.始まり、全ての行いの基礎は、一心が自ずから主体となる。
末は、本より始まり、彰(あきらか)なものは、微かなものは微かなものより始まる。
結果というものは、原因より、始まる。
そこで、原因のない結果はというものは、ありえないし、また、結果の無い原因というのは、ありえない。
このようにして、一切の因果というものは、この心から.離れる事は出来ないのである。
それは、例えて言えば、これがあれば、それに関連して、それが現れてくるし、これが生じてくれば、それに関連してそれが生じて来る。
そこでもし、これが無ければ、それは現れて来ないし、これが滅びてしまえば、それよ滅びてしまう。
心中の一念の僅かな、差がやがて、千里万里の大きな誤ちとなる。
初めに慎むことは比較的容易であるが、しかし、終わりになってその結果を挽回する事は難しいのである。
故に、よく、その始めを慎む者は、その終わりを全うすることが出来る。
又、よくその身近な事を慎む者は、それが、やがて、遠いところにまで、影響を与えて来るという事を知っているのである。
そこで始めに、その根本を重視し、これを慎むのである。
その寄って来る原因について言えば、霊(明)と昧(迷い)の分岐点、人間と禽獣の違いは、ほとんど微かな一点にある。
その心中の妄念に打ち克つことが出来れば、それは、聖賢となる、ところの始まりであり、屠刀(牛や豚を殺す鋭利な刃物であり、これが転じて人の物欲を指す)を放下するのは、仏となるところの始まりである。
これを最初の原因の段階で慎み、これを最初の微かな段階でその、兆しを審らかにして、見極め、この心を、昧ますことなく、これを始めに明らかにするのである。
己れ自身の誠を篤くするにも、これを始めに修めるのであり.吾の四顔(一乞い願わくば上乗に至らせ給え、一乞い願わくば、真諦を得さしめたまえ、一乞い願わくば、功候を得さしめたまえ、一乞い願わくば、衆生を済度なさしめたまえ。)を実践するのにも、この自己の欲望に打ち克つことに始まるのである。
能(よ)く、その為すところを押し広めていくにも、その行いに始まるのである。
たとえ、その夙根(前世でのその修行や基礎)や、智慧や境遇、功候造詣なとば、人によってそれぞれ、同じくでは無いが、ただ、その天性の善によって、その仁愛の徳を広め、人として道理を全うし、道慈によって己を救い、人を救うところの真実の功果を実証することが出来れば、皆同じように、道を覚ることが出来るのである。