坐するとは、瞑想とは、ただ、黙って坐る。
損も、得もなく、ただ、坐る。
そこで、自発があっても、強制しては、ならない。
そこで、無理をしては、ならない。
自然に坐れるか、坐れないか。
もし、自然に坐る事が出来ないのであれば、坐は、辞めるべきである。
「自然にまかせていると、何時か早い人は早く、遅い人は遅く、何事も急ぐ事は無い。
坐とは急がないでやって下さい。
もし、それを、坐することを強調すると、今度は、枯寂になってしまう。
これは、どう言う事か。
丁度木が枯れたのと同じように、芽が出ない。
化しない。
変化上昇しない。
坐を強制し、何がなんでもしなければ、ならないと、坐すると、枯寂し、枯渇し、自己の神をも苦しめ、内鳴る神を削り、自らの御魂を滅ぼしてしまう。
瞑想とは、かつての、古の修道人でも、仏教でも、儒者墨者、耶蘇教、回教でも、坐する事は、修行に於いて、上乗の境地に至るためには、必然の道でありました。
その最中強制して、坐する者は、枯渇し、逆に道を失ってしまいました。
努める者は、報われる。
しかし、勉める者は、道を失う。
強制して、坐ると確かに静かになる。
しかし、気質は変化しない。
強制して、坐り続け、そこから、動かないで、髪の毛も髭も伸びて、百年もそこから動かない。
そうすると、とうとう、石になってしまう。いや、石なってしまった。」
吾が師、至聖先天老祖は、ここで述べる。
「そんな石のようなに、なるならば、いっそ、坐をやらない方が善い。」
こうなると、もはや、助からない。
今世に修道が出来なくても、まだ、来世がある。
強制して、坐すよりも、また、来世を待って修道した方が、石になるよりも、まし、である。
(注 鬼雷述べる。かつて、自然岩石から上乗なされて、天使になられた存在もありますが、人から岩石になるのは、自らの生成化育を辞めた証しであり、いずれ、親神から賜った御魂も塵となります。)
もし、あなたが、悟ろう、永遠の生命を得ようと、無理して、強制して、坐するのであれば、生命は全然無くなり、死にもしなければ、生きる事も無く、元神から頂いた、玉をも失い、塵に還るのみである。
しかし、坐さねば、道は開かれん。
坐とは、かんながらたまちはへませ、なり。
坐とは、自発、努める、克己復礼。
多少の強制により、矯正するのみ。