玄徳道

道を語るブログです。

占道2

2012-07-06 22:05:07 | 宗教
思いだしました。20年前に私は人に占ってもらったことがあります。前の会社を辞める時でした。会社を辞めるのも悩むものです。辞めても本当に自分に合う仕事が有るのか、いろいろ不安でしたね。20代前半の時は東京に転勤で居ました。道院紅卍字会 東京総院も仕事場から近くにありましたのでたまたま、行った時です。その当時の道院の事務局の方に会社を辞める事情を話したところ、易占をしてもらえる事となりました。その当時は易経の事等知らなかったのですがお願いをしました。出た卦は「95の遯 天山遯」でした。意味は、悪が栄える中で一人善を表してもつぶされてしまうから、君子は逃げることも大事だという意味合いでしょうか。そのあと後日、浅草の観音様でおみくじを引いたら番号が95でした。「金鶏の鳴を聞くべし。」と有りました。この符号に勇気を受け、かなり慰留するように言われましたが断固として辞めました。数年後その事業部は廃止され、多くの方はリストラされました。

それと同じ時期です。占いではないのですが、台湾の道院にフーチが有りまして(このフーチは老祖の霊を受胎していない方がされていたので、正しいフーチではないようです。)そこに書画壇が有りまして、お金を払えば、神霊が道を示してくれたのです。私は最初申請した所、梅の木がある絵で、つぼみにあまり、花が開いていません。「花開幾時春」というようなことも書かれていました。総院の誠乾さんに意味を伺ったところ、修道により才能が開花される時を老祖さまが待っていると言われました。まあ台湾のフーチの書画なので、本音では正義をを認めていなかったと思います。
それが日本にやってこられると云うので書と画を申請しました。数ある中で私だけが何故か周りの人から褒められました。内容は、絵が朱字で「如」と描いており、書は言葉は忘れましたが、内容は「あなたの心は正しく、あなたが心に思う所、何をしてもよい」と云うような言葉でした。周りの道院の修方さんから、若いのに、たいしたもんだと褒められましたが、私は内心、やはり本物の神様ではないなあと思いました。私は申請した時、私が早く一人前になるように私を戒めて下さいと祈願していたからです。

いずれにしろ、奇なる事柄であり、人を褒めるところに神は無いと確信しました。何故ならば、褒めれば人は自らが誇り、驕れば滅びに進むからです。後日、その全ての書画は捨てました。

人は不思議が大好きです。霊能自慢の者ほど、自分の不思議を吹聴し、自分に優れた能力ある事を見せつけますよね。
世に不思議はありません。為すべくして成るのです。ここに不思議を表そうと云うのも欲心です。そして、それが不思議に観えるのも人間の観念であり、妄想なのです。不思議は不思議と観ずに宇宙の運行であると捉えれば正道に不思議なしと為るのです。

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占道

2012-07-05 21:41:15 | 宗教
人と云う存在はとても心配性です。過去で失敗したことがあれば、あの時こうしておけば良かった、ああしておけばよかったと悩みますよね。過去は、どの様な神様でも戻る事は出来ません。自然の定理だからです。
過去の失敗を今後に生かせばよいのですが、今度は未来が心配になります。未来に起きることなどは、人や神でも分かる事はありません。根源たる神は、天地の運行を為しております。人間のみが未来を知りたがるのです。人がもし、内なる神を覚神したのであれば、起きる現象をあるがままに受け入れるのみであり、吉凶、陰陽に囚われない自己を悟るからです。これを「天の命ずるをこれ性と謂い、性にしたがうこれ道謂う」です。自己の本性を顕わすのですね。神のお告げ、未来の霊視等の出所は幽界と感応する人の欲です。人間の欲心のみが、未来を知りたいと云う、占いに囚われてしまうのです。

私も、道を知らず、迷っていた時代は、占いに頼ろうとした自分がありました。ただし、私は臆病であったのとその占い師が本当に未来を予測出来るのか疑心暗鬼でありましたので、なかなかその門をたたこうとしませんでした。ある時、占いが多い神社に行ったことがあるのですが、その異様な雰囲気がどうも合わなくて、自分でしようと、図書館で四柱推命の本を借りました。結果は、さんざんで、「転職を繰り返し、最後は一人で死ぬと出ました。」まあこんなもんだろうとさらに今度は易経を買いました。易との出会いは私に自信を与えてくれましたね。筮竹を揃えて独学で学びましたが、頭が悪いため、最初も今もちんぷんかんぷんですが、いい方向い向かわさせてくれましたね。今は、易は学問であり、易占は封じました。

占いがすべて悪いとは思いません。ただし、自分自神がいないと、依存してしまう恐れがあります。

占いにより、不安を解消し、前向きな気持ちになる事も大事です。だからと言って占いはただのアドバイスであり、そこに本質はありません。本質とは自己の本当の自分であり、この心が、魂が主体と為らねば、占い如きで一喜一憂してしまう人生になりかねません。占いの神などは居ません。未来を述べる宣託はあくまでも欲望に感化された幽界の存在です

真の自分を知り、吉凶をありのままに受け入れ、心を乱す事を無くす道はやはり、坐道が最適かもしれません。他に方法があると言われる方は教えていただけたらありがたいです。


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私の坐道

2012-07-04 21:30:05 | 坐道
私が初めて道院で坐した時、退屈だな~と云う感じでしたね。私は最初から愚か者なのです。
道院の先天坐は時間制限があります。最初の百日間は16分(四度)の決まりがあります。長い間、瞑想をされていた、ダンテス ダイジのお弟子さんはあまりの短さにびっくりしたとおっしゃっていましたね。私の場合は初めての体験であり、なかなか長く感じました。2・3週間が過ぎ、坐している時、普通に坐っているにもかかわらず、何故か逆立ちをしている感覚になりました。目を開けると、決して逆立ちはしていないのです。閉じると逆立ちしている感覚で、「変な感じ」と思っていました。道院の坐は、坐中に異変があれば、即座に坐を中断しなければならないのですが、私はあまり、深く考えずに坐り続けていました。是は悪い見本ですね。
ある時、天頂、頭のてっぺんに何か渦が勝手に回り出しました。この当時は私はまだ20代で、坐をしたりしなかったりいい加減にしていた時です。仕事中にも天頂に渦が回っていることがあったので、もしかしたら、私に神が宿ったのではないか、とか、特別な能力を手に入れたのではないかと思ったりしましたが、日常生活ではアホで愚か者の私に何も不思議な事が起こるわけでもなく、ただの妄想に過ぎませんでしたね。
ある時、坐中に、手足の感覚が無くなり、体が何倍にも膨れる経験がありました。その時は何とも言えない気持のよさでした。そしてその感覚は、時折、たまに得られる感覚でした。

現、紅卍字会の会長の正備さんとの出会いは20代後半です。この当時は坐は、ほとんどしておらず、天頂の渦も消えていました。自分の穢れを祓う時のみに、道院の神呪、経を誦し、坐をしていた程度です。ある時に正備さんに坐の境地を尋ねると、「坐中に於ける、体感は素晴らしいものがありますが、それを追い続ける事は欲であります。坐中は、あくまでも、体感を追うのではなく、自然に坐り続けるものです」と教えられました。私は、その言葉、至言であると感じました。気持ちのよさ、経験を追うのは決して先天坐ではないと肝に銘じました。

私が真剣に坐に打ちこみだしたのは30代からです。正備さんからの英訳太乙北極真経演技・日訳バージョンの応援があったからこそです。これは無償の愛であり、正備さんは、自分が得た真理を自分のみに隠すことなく、他者に分け与えた心は、老祖の親切なる御心と同じであります。ちなみに、修方さんのブログ、「永遠の生命、安心」に出てくる、真人(神人)林木先生(台湾出身)も大変親切なお方であった様で、自分が得た道、真理を他人に余すことなく与えたい厚い真心が有ったようです。生きていればぜひお会いしたかったですね。興味のある方は修方さんのブログを参考にして下さい。

私は、坐道を歩む者です。まだ半端モノですが、道を語ったら笑われる時代の中でそれでも、道を皆さまに知って欲しいのです。道は多種多様です。それでも行きつく頂上は同じであります。例え、人に笑われようとも、馬鹿にされようとも、道を歩み、道を語り、道を歩む人の応援者になりたいのです。

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克己復礼への道

2012-07-03 21:06:47 | 人倫
修道とは自己を戒め、また学び、真実なる自分の道心(内在神)を顕わす道です。

その道を貫こうとすれば、最大の敵と対面せねばなりません。是は私への訓戒でもあります。

最大の敵とは、自分の中にいる、怠けようとしたり、ズルをしようとしたり、人へ悪口を言おうとする、もう一人の自分です。この心は常に自分中心のエゴであり、物事を自分の欲するままに妄想して捉えます。常に私を悪道へ誘い、誘惑します。

道を修める者は常にこのエゴと対面せなばなりません。異性に弱ければ様々な情報を得ようとし、快楽が真実であるように妄想させます。食べ物が好きな人は、常に美味しいもので誘惑します。娯楽が好きな人には道を修めることの愚かさを表します。

エゴであるもう一人の自分の欲しいままに行動すれば、欲望は自分の中で業火となり、自分自身を焼き尽くすまで消えることはありません。現代の人の大半は、快楽、娯楽が道であると勘違いして、本能や性欲のままに行動するのです。かっこいいとか、面白いとかでしか判断が出来ません。そして今、自分を焼き尽くされている事も気が付かないのです。

私達は、普通に生活するだけでも様々な知識と情報が入ります。この中で真なる自分自神、内在神を発露させるのは険しき道です。しかし、道を志す人は、エゴである自分と向かい立ち向かい、己に勝たねばなりません。人は、自分に優しく他人に厳しい存在です。是を逆にし、自分に厳しく、他人に優しくすることが道を歩む事なるのです。

己自身に打ち克ってこそ、真の自神を覚神することにもなり、自己救済の神霊の守護の始まりでもあるのです。復礼とは、真の内在神に回復し他人にたいして思いやりある形容を為すことが出来るということなのです。

自分の弱さ(エゴ)を克服する道で最適であるのは坐道であります。坐とは常に自分の内なる神に、心を合わせる為、エゴに意識が偏るのを防ぐ働きがあるからです。


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伊勢白山道と瞑想批判

2012-07-02 22:06:23 | 宗教
私の考察では伊勢白山道とは先祖供養、神社参拝に於いて感謝のみを示す教えです。当然名前にあるように、伊勢神宮、白山を信仰の拠点に於いてあり、人の内にある、内在神こそを大事にする道です。有料宗教、占い師などは魔物扱いで、お金を取る全ての宗教団体、霊能力者を否定します。伊勢白山道リーマン氏はこれらの人々を地獄に送る役目もあると自称されております。宗教にお金をだまし取られた多くの方の駆け込み寺なようにも見えます。

伊勢白山道では確かにお金はあまりかからないようにも見えます。先祖供養は短冊と線香であります。神棚にも高額にはかかりません。書籍は、当初一冊しか出さないと言われていたようですが、かなりの数を出されております。健康補助食品を善くお勧めされます。蒸水器もお勧めされています。だからと言って買うのは本人の都合なのでお金はあまりかかりません。
オリジナル磁気こと自分教が大切と言われていますが、言葉の節々に、伊勢白山道が最高であるように言います。彼のコメント欄では伊勢白山道を褒め称える人を集めています。否定的、他の道を貴ぶ事はあまり気に召しません。

伊勢白山道は瞑想を否定されています。そこに必ずお金が取られたり、憑依があることを絶対的に示唆しています。

今日のブログでは、悟りを求める人は真の悟りから離れ、絶対に悟れないように書かれておられます。その理由は目的があるからだそうです。悟りと言う求道に目的を求めることは真理から離れると言うことのようであります。ゆえに、人の為に働き、動いている中にこそ真の瞑想があると述べられます。これを、「動の瞑想」とリーマン氏は述べられております。そして、自分がすでに神仏であるのに何を求めるのだと述べています。この考えは、人は本来、神や仏であると言うことにつきます。考え方は誤りではありませんが、修練、求道、己を磨いてからこそ輝くのです。怠けても神や仏になれる道理はありません。自己に神仏がおりますが、修養なくして内なる自神を輝かせ、見出せることは天地開闢以来ありません。

脅したり、説教したり、誉めたり、伊勢白山道リーマン氏のブログは忙しいのです。
生きとし生きる全ての存在を救済すべく、悟りを求めた釈尊は、苦行に真がない事を悟りました。ありとあらゆる試練と苦難を乗り越え、菩提樹の下で、真の実相世界、涅槃の世界に目覚めました。これは真実なのですよ。悟りを開きたいという目的、発願が釈尊の第一歩の道であります。しかし、悟りを開きたいと云う目的により、悟りが開かれないと言うのであれば釈尊は永遠に、悟りを開いていない事になってしまいます。(笑)
伊勢白山道氏の場合は全て自己の自称の霊能力による釈尊を捉えているだけのようです。釈尊が太陽信仰であったり、感謝で悟りを開いた等と述べています。何の根拠も実はありません。リーマン氏の個人のリーディングという霊的世界のみのお話なのです。
悟りの為に坐禅の道に入った白隠禅師さんを伊勢白山道氏は、リーディング出来ないほど悟った人と言われていました。何でやねん。悟りを求めたら悟りを得られないのとちゃうん。ご存知の方もおられるでしょうが、白隠禅師は、坐禅を真剣に成し、悟りを求め、日々精進されてこられたお方です。悟りを求め、坐禅をし、何万回も悟られたのです。

他者の為に働く事で、真の瞑想をしているのであれば、殆どの人が家族の為に働いています。まして、伊勢白山道は世に広まり、感謝想起、五%運動に至っては成功しておられているとリーマン氏が述べられています。そして感謝により、悟り人続出するのであれば、世の中が良くなっている筈なのです。そして、真に5%運動が成功しておれば、東北大震災等も起こる事は無かった筈です。しかし、今尚人の心は乱れております。長い間、伊勢白山道を信仰する人ですら迷い、苦しみから脱却できない人が多いようです。

多くの宗教家は自分の教えが正しく,他が誤りのように書かれます。ここに偏りがあります。仮想敵等、誤った道を述べた後、自分の道が正しいという説法は古来より変りません。自分が正しくて、他人が誤りであると述べるのは、人間の欲であり、自己中心的な考え方でもあります。これを「吾がクソは臭くない」ともいいます。自分の糞は臭くなく、他人の糞は死ぬほど臭く感じる、人間の愚かさです。

伊勢白山道氏は瞑想する有名人(釈尊、道元、白隠…)は、さも自分が全てを知っているように述べますがその足元の瞑想、坐禅を観ることが出来ていません。つまるところは、霊能(勝手)主義であるからです。ゆえに道を修め、苦悩、歪み、痛み、苦難を乗り越え、得た道の本質を悟れないのです。坐禅をしたこともないリーマン氏が瞑想を、否定、批難する事は誠に愚かであるとしか申せません。

伊勢白山道氏がブログにより、言葉遊びで、皆さんがすでに悟りを開いているなどと示すのは、伊勢白山道への依存を深める意図かもしれません。依存とは、自分の心で考えることを辞めさせ、さも気分の良い言葉で他者の心を掴み、伊勢白山道こそが幸せになれる唯一の道であるように、人の心を甘い言葉で埋め尽くされる事です。そして、他の教えは誤りであり、近づくだけで、霊的垢、憑依や穢れがあると脅すのです。脅迫する教えには中道は見出せません。中道とは幅広い、偏見のない修養であり学びなのです。

伊勢白山道に良い面が多々ありますが、リーマン氏個人に偏り、偏執、偏向が見受けられるのが残念でなりません。
しかし、人は変り続けるのが真実であります。願わくば、伊勢白山道リーマン氏の偏りが、中道に還る事を期待いたします。

「天子よりもって庶人に至るまで、壱是に皆修身をもって本と為す。その本乱れて末治まる者はあらず。その厚うする所の者薄うして、その薄うする所の者厚きは、未だこれ有らざるなり。」

そして他者を批判する私は悪人なのです。

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(2013,6,26 一部文字を訂正し、加筆致しました。)
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