玄徳道

道を語るブログです。

令和四年四月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

2022-04-18 19:00:00 | 神示道
ウクライナと思える原野の市街地で、赤い辰(龍)が火炎を吐きながら、空に舞い上がったり、地上を、のたうちまわり荒れ狂っている様が見え、ウクライナの南方と思える、海の上空(黒海か)に大きな青龍に乗られた、八臂の弁財天がウクライナの方をじっと見ておられました。

(注 ロシアのウクライナ侵攻の様であり、赤き辰(龍)は、旧ロシア帝国やソビエト連邦を築きた、世界制覇の野望の思凝りの元凶である。

ハ臂の弁財天は、破邪顕正の武神でもあり、祓戸の神の筆頭、瀬織津姫の神である。青龍は刷新の氣を発す。)

次に、昭和十年大本教の弾圧で破壊された、綾部大本神苑の金閣寺のような言霊閣の中で、出口聖師が静かに座し、磐笛を吹いておりました。

(注 荒れる世界を治めるは、言向け和(や)わす言霊の力でもある事を示しておられるのであろう。

言霊とは嘘偽りの無い魂からの真実の言葉。

単なる言葉は嘘も方便と都合良く使われる。)

(鬼雷述べる。磐笛とは天地の合作によりて、自然に穴が出来た石の事を言う。その大自然により、神縁ある人が授かった、天の磐笛を自己の真なる魂の伊吹を吹き込めば、天地人の合作、調和音成る真音と鳴ります。
真音は、自然界の安寧をもたらします。)

最後、大本二代教主出口澄様が、裃を解(ほぐ)した糸で、手機を織っておられました。

(注 上下差別無く、平和な世界を願っておられる姿であろう。経緯(たてよこ)の結びを機(はた)の仕組みと言う。)


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失敗道

2022-04-14 19:05:00 | 私的考察
ああ、失敗。

大失敗。

左官とは、なまもの(モルタル)で、物事を作り出す。

一度つくった物は、部品の交換のようには直せない。

全て、破壊し、斫らねばならない。

いつも、きにしている基本も何故か、頭から抜ける。

ゼネコンに対しては、ごめんなさい。
吾が会社に対しても、ごめんなさい。

すべからく、ごめんなさい。

昔の私であれば、腹を斬ったであろう。

されど、二度の失敗は無い。皆無なり。


坐する私は、人の恥やプライド、人の世界の損得を重視することが無くなっている。

そして、私の神業の為、責任ある立場を無くしたいが、仕事の責任が増えるばかり。

幼稚園児がするような、大きな失敗をした私。

そもそも、責任とは、人の意識。

責任を放棄すれば、乱れの元となる。

私の失敗は、プー珍さんの如くに如かず。

失敗は成功の母。

何にせよ、私はしばらく落ち込み、自分を責めて、さらに堕ち混む。

そして、おそらく、私のことだから、ナンクルナイサあと、復活する。

なんせ、私は、幼少より、失敗を糧に生きて来た。

振り替えれは、父は早くに蒸発し、母は義父に慮り、義父との間の子に偏重するなり。

そこで、運不運という、世界があるのであれば、私は、多くの不運が押し寄せて来た。

世間一般の両親に育てられた、存在は幸いなのである。

両親がありて、子が安らかに育つなり。

故に私は離婚撲滅委員会の委員長でもある。

離婚の意義もあり、人の本質に、異性は、一つに絞れないも知っている。

されど、天に太陽は二つと無し。

伴侶は、一つに絞り、愛して欲しい。


人のプライドや、立場や地位なんてものは、神に関わらない。

釈迦やキリストは、失敗を恐れず、吾が真価を発揮された。

晏子は、その道義を「社稷あるのみ」と。

墨子は、自己に多大な責務を与え、「兼愛非攻」を唱えた。


人が、吾が地域を愛し、吾が同胞を愛し、思いやりをもって、争うことが、無ければ、即、弥勒の世の到来である。

されど、弥勒の世の証しとして、全ての人が、イエスキリストのように、右の頬を打たれたら、左の頬を出す様に鳴らなければ、ミロクの世の到来は、未だ来たらずなり。


何にせよ、自分が坐境により、元の立ち位置を悟れば、現世の失敗なんて、ナンクルナイサあ。

懸命に生きて、失敗して、損害があるのか。

懸命の失敗は、損失にならない。

目に見える損失もあるが、その余剰による、仕事が増えるから。

これは、私個人への言い訳の正義があるのかも知れないが、失敗したら、反省するのが、最善なり。と考えます。

そして、省みるとは、少な目と書くなり。
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弭劫寿世要旨道11

2022-04-13 20:21:00 | 道院
坐とは、その修練に呼応し、必ず自然に「静定」する。

ゆえに、その人体の内なる「真神」を収め、その天性に合し、そして後、自ら「自如」(自適、如意)になることが出来る。

運用が「自如」であれば、心は自ら霊明であり、私欲に蔽(おお)われず、妄念に惑わされなければ、坐の彀(こう)に入ることが出来る。
(注 彀とは、「真息」が内に充ちること。真息が内に充ちれば、「炁」化して充ち周(めぐ)る。弓を引き絞って気力を充実している様子を「彀に入る」と言う。)

そこで「念」が一たび生じて来るのは、魔の仲立ちであり、「意」が一たび起こって来るのは、惑が引っ張るということを知らなければならない。

魔や惑に仲立ちされたり、引っ張られたりすると、坐というものが「平」となる事が出来ず、「定」になる事が出来ず、「適」になる事が出来ず、「如」となることも出来ない。

もし、坐って「適」であれば、すなわち、「恬定自如」の境地に到達するのであり、坐って不適であれば、木鶏のようになる。

この理を悟らなければ、その坐をどうして、純粋な坐と言うことができようか。

(注「適」とは自然を得ることである。「適」と言う字は「往く」という意味で、身体の中の気息が流通往来して阻み滞るところが無い。故に自然恬適の真味を得る事が出来る。)

(注 木鶏は列子の物語に出て来るが、ここでは、「木で作った鶏のようにぼんやりしている」の意。)

功が純粋で無ければ、障(さまたげ)はますます深くなり、惑は日に日に侵入してくる。

惑があれば自ら魔があり、魔が侵入する。

坐が不適であれば、どうして、魔や惑を自ら招かないで済むであろうか。

故に坐とは微妙な旨(ところ)に深く入るのである。

それによって自ら「静」、自ら「定」、となり、魔が自ら取り除かれ、惑が自ら刈り取られる。

その後に、道の真の境地は悟りを得ることが出来、坐の功候によって、「定純」(坐が定まって純粋になること)になる事が出来る。

坐というのは、浅いところから深いところに入り、至虚(虚の極地)の境地に達する事が出来、またその定は、至明(明の境地)に至ることが出来る。 

「初・進・完」の三歩(三つの段階)は坐候(坐の進境の程度)の基準にすることが出来る。

(注 「初・進・完」の三歩(三段階)とは、初が下丹田により、精を練り炁(氣)を化し、「任督倶通」すること。

(鬼雷述べる、先天坐では、わずか十六分の時間でも決まった時間に毎日坐れば、任脈と督脈が上顎に付けた舌により、合流し、任脈と督脈が合化し、水火の交わりと成る。)

進が中丹田により、炁(氣)を練り神を化し、「河車所通」すること。

(鬼雷述べる、任督が合化すれば、各丹田は覚醒し回光する。身体の小宇宙は自ずから覚醒する。)

完が上丹田より神を練り虚に還り、「出神定遊」すること。

(鬼雷述べる、永遠の悲しみの海、輪廻から解放される意であると考えます。)

つづく。
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弭劫寿世要旨道10

2022-04-12 20:06:00 | 道院
坐ることを長く続ければ、息が凝ってくる。

息が凝ってくるというのは、「玄」(奥深く微妙)に運(めぐ)り、「虚」に転じ、「空」に復(かえ)り.「竅」に止まり、「自然に輪転(めぐる)」のである。

(鬼雷述べる。息が凝るとは、呼吸が肺のみに偏らず、頭蓋骨、背骨、踵の裏、ありとあらゆる、細胞が自発的に呼吸する意であると、考えます。即ち胎息。)

念が起きてもすぐ、その念を止めれば、どうして、「思い」に繋がることがあるだろうか。意が正しく定まれば、何を慮(おもんぱか)ることがあるだろうか。

そこで、道を修めるには、必ず「坐を堅め息を定める」の功をよって、妄念や、淫らな貪りを除けば、身の定まるものは、「虚化」に入り、心の玄なるものは、「真動」に入るのである。

そうして後に憂いや恐れの患いが皆、無形のうちに消えてしまうのである。

しかしながら、それぞれの人の「坐」というものは同じでない点がある。

それは、法(方法)を「形坐」のみによって練習する人があり、法を「心坐」のみによって練習する人があり、法を「自然の真動(息坐)」によって体得する人がある。

この幾つかの、中で形坐のみを坐とするのが、下であり、心坐を坐とするのが、それに次ぎ、自然を坐とすれば、その坐の深功(深い修業の境地)には見るべきものがある。

すべからく、自然の動を坐とする人には及ばないのである。

(鬼雷述べる、坐は形坐を入門とし、継続すれば、坐の境地を会得する。そこで心坐へと繋がり、心が平らかとなれば、常住坐臥の心境を体得する。そこで、自然の息坐へと至るのであります。いきなり、形坐を飛ばし、心坐や息坐に至ることは、不自然であり、そのような不可思議な事は、古今東西無いのであります。)

そのいわゆる「自然の動」というのは、自然に育つのを待ってやるだけで、「時」が至らなければ、強いてこれを動かそうとしてはいえないのである。

そこで、坐っていても、坐っていることを忘れ、聞いていても聞いていることを忘れ、見ていても見ていることを忘れるようにする。

知ることや、聞くことや、見ることは、皆、坐を害(そこな)う賊である。

そこで、「自然の動」によって有りのままを知り、有りのままを聞き、有りのままを見ることが出来れば、「真功」の域に至り、今まで損なって来たもの(精・気・神)も必ず養い易くなる。

故に「知らない、聞かない、見ない」という言葉に「如し(・・・のように)」という字をつけて、これを包括した(知っても知らないが如く、聞いても聞かないが如く、見ても見ないが如くに、意識や分別がまだ起きない前の境地)ということを皆さんは悟るべきである。(老祖訓)

つづく。
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酒仙済仏訓、光明への道。

2022-04-11 20:17:00 | 道院

沙宝

霊宝

済仏、妙山より来る。

衆星(多くの星)は極に拱し(北極星に向かい帰向する)天はまさに曙宿の霧が漸消し、月日が明かならんとす。

但だまさに、万霊一炁に帰して、天下坦蕩(ひろびろとして、こだわりがない)承平(太平)を見んとす。

哈哈(ああ)、四言(前記の詩を指す)で始まったが、談ずる程容易なことではないのである。

世の中が平穏で太平であるということは、人々の望むところである。

しかし、人心は昔と違って軽薄であるというのは、今日に始まったことでなく、時代が繁華(はなやか)になる程、天下の動乱が益々激しくなっていくのは、何故であろうか。

人心というものは、永遠にこれで良いと言って、満足する事はないのである。

そこで、人心が一たび満足することが無ければ、争奪して混乱が生じてきて、止む事がないので、聖賢といえども、又、ただ、嘆息するのみである。

大道(老祖の現化降臨した1920年)が世に行われるようになって、最近百年来、神聖仙仏は絶えず、災を消し劫を弭(な)くして来た。

そこで消えるものは自ら消えても、一方で増長し、神聖仙仏もまた、殆どこれに対応する方法が無いのである。

吾が道は天命を奉じて世の中の劫を消し、人心を挽回して太平の時代を早く見たいのであるが、いかんせん、乱の萌(きざ)しが日に日に酷くなり、今日に至るまで早く泰平を招来することが出来ないのである。

どうしたら、よいであろうか。

どうしたら、よいであろうか。

吾が道の修人(修方)は全国にあまねく、遠くは東西洋に及び、人々の初心はみな、各人の良知良能にもとづいて、世界の平和を祈念している。

たとへ、少数の人が誤って岐路に入っても自ら、又能(よ)く迷いの道から立ち戻り、天を助けて道を宣化するということに、復帰するのである。

今日の世の中を見たところ、末世に臨んでいるようだが、しかし、依然としてその「柳は暗く花は明かして又一村」(道が極まらんとして、又新しい展望が開けることを指す)の時代を見ることが出来るのである。

ただ、修人が初めの四顔(一こい願わくば上乗に至らせ給え、一こい願わくば真諦を悟らせ給え、一こい願わくば、功候を得さしめ給え、一こい願わくば衆生を済度なさしめ給え。)にそむくことが無ければ、遠くない将来に光明の時代が必ず、出現するのである。

各方、自らよく修めて、共にこれを満たすように求めるのである。

ここに厚く望むのである。

これを努めよ。


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