玄徳道

道を語るブログです。

乱道。

2023-10-11 19:18:00 | 私的考察
あ〜あ、嫌になるなあ。

世は争いで満ちている。

過去の結末があり、今、現在への結果となっている。

戦果へ至る道から、回帰をなすのが、真の政治家であり、私欲、政治理念よりも、無辜の民の安寧を守が真の為政者である。

そんな、為政者が現れて来ない。

邪悪な神々は、戦争を臨んでおられる。

正義の神々は、秩序を臨んでおられる。

そして、人間の歴史的とは、戦の一文字こそが、当たり前。

人が生まれ、自然に即していた、縄文時代は、大道を歩み、人は一つと群として、大同の境地であった。

歴史では、弥生から稲作が生まれ、故に、貧富の差が生まれたと、する説もありますが、稲作は縄文時代から行われており、弥生時代からは、与える思想から、奪う思想となり、また、人を神はその様に造られた経緯もある。

弥生時代の豊かさは、人に欲をもたらす。

欲が増えると、知恵が増す。

知恵が増せば、奪う事を覚える。

奪うとは、何を奪うのか。

他者の幸せである。

人の遺伝子の中には、他者への幸せを喜び、また、憎む癖が潜んでいるのである。

言わば、人間を育んだ神々がそうした。

奪い合い、護り合い、対して争い、切磋琢磨する。

そこには、停滞がない。

邪悪なる神も、正義の神も、停滞を好まず。

故に、これ程、文明が発達し、得られる情報は、無限となっても、人は喧騒し、争うのである。

やれやれだ。

そして、争いは、ウクライナから、中東へ、そして、台湾へ至るのか。

人間を争わせる、武器因果律は西欧諸国米国からウクライナへ、そこからイランハマスへと繋がるが如く。

詰まるところ、武器が無ければ人は争うが、戦争には至らないのである。

武器の撤廃こそが、出口聖師の霊界物語の真骨頂なり。

平成二十七年、十月十日。

三六九神示。

十月十日は、金毘羅の祭りの日じゃな。

金毘羅は、龍宮の大事な眷属。

龍体じゃが、鰐とも亀とも姿現れるぞ。

日の出の神の差し添えいたす、大事な神であるぞ。

日本も世界の荒海に、乗り出したこの時、金毘羅の神にも一段と働いてもらわねばならぬぞ。

インドとの仲立ちも間違い無きようしっかり、頼みておくぞ。

日本のお偉方も早く改心いたしてくれよ。

アメリカの言いなりになりて、真似ばかりいたして居りたら、取り返しの付かぬ事となるぞよ。

世界の国々とは、和さねばならぬ。

助け合わねばならぬが、アメリカばかりの手先では、敵をつくるぞ。

良く良く心致さねばならぬ、これからの外交(みち)であるぞ。

その末に、中国とも和さねば、ならぬぞ。

明治より、昔の事を思えば…文化、文明…一番恩義のあるのは、中国であるぞ。

されど、今の中国は、昔とはちがう。

内から改革の火の手上がるぞ。

ン。


いずれにしても、人が争いを、辞めるには、自己の本性を悟らねば、ならない。

自己を知り、他者へ思いやる。

深く打ち込めば、自己の内なる神を悟り、自らの役割を為す。

ああ、かむながらたまちはへませ。
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昭和五年綾部道院聖訓文。

2023-10-10 18:18:00 | 道院
弥勒仏。

老祖の命を奉じて妙山より、前駆を為して至る。

老祖、妙山より来る。

世界の残酷なる殺し合いの闘争の過を弭(とど)め、人類の善を愛して、熙暭(やわら)ぐ、幸福を謀るに果たして、何を以て導けば、能く其の功を致す事が出来るのであろうか。

曰く、中道あるのみである。

中なるものは、天下の正道にして、人世の普遍の真理である。

大にして、包まざる所無く、細にしては、微(かす)かにして、入らざるは無く、己に偏らず、人に滞(こだわ)らず、自然を以て広大なる徳化を行い、公正を以て、乱を治める方法とする。

故にその用(はたらき)たるや適(ほどよ)く、その体を守るや恬(やすら)かである。

それ故に能(よ)く育て、能く化し、しかも平易(たやす)く無為にして、為さざる無きの大道と為す所以である。

今の世を以て、その未来を推測するに、その能く人群を融和して、一体と為し、世界を一家の如く、為さしめる者は、大・中の道を除いて外(ほか)にその効果を致す、由(でだて)が無い所以(わけ)である。

各修方は、既に世界の平和と人類の幸福を以て、共々に提唱する以上、世の人我の相の相互について、能く深く、その極まるところを研究して、その中を取って、大同世界の為に、一つの恒久にして、かつまた、堅固な基礎を立てねばならない。

それぞれ、それを悟るを可(よし)とす。

運霊(出口日出麿)を派して、大和中央主院の責任統掌と為す。即日職に就くべし。来月十五日籍を授く。

運霊の生まれは由って来る所有り。

尋仁(出口王仁三郎)を継いで、大同の法要(枢要の法義)を世界に布(し)く者である。

汝の負う責任は甚だ重大である。

然も尋仁は基(もとい)を固むる時代を為し、汝は展布の時期を為す。

基を固むるは、固むるは困難であると雖も、その実は至って容易である。

展進は容易であると雖も、その実は至って困難である。

何故ならば、基を固むるに時には堅忍して、信じ守れば、宜しいのであるけれども、開展に至っては、これと大いに異なる。

必ず時代の潮流に順(したが)って、人心の趨勢(なりゆき)に合し、道の自然を以て、人心について、これを正し、道の平易を以て、人心について、これを導く、しかる後に世界大同の真境が出現し得るのである。

若(も)し、そうしなかったならば、我の唱える所を以て、世界の宗教を統一し、得るであろうか。

所の行ずる所を以て、世の宗教を化(みちび)
き、御(おさめ)る事が出来るのであろうか。

時代は既に同じからず。

宗教もまた、背(そむ)くものと、従うものと有り。

人心も並(とも)に反対するものと、賛成するものと有り。

これ、大にして、包まざるなき、中道を以て、世界各教の宗(とうと)ぶ、所を集めて、研究するものでなければ、宗教門戸の見解と道徳境域の区別を化(みちび)き、除くことは出来ないものである。

これ、大道が仏教と和し、回教と和し、道教と和し、耶蘇教と和し、儒教と和して、共にその精微なる奥義を参解(りかい)し、以て世界人類の互愛互善、大同和楽の本と為す所以である。

汝は既に道運を継承し、斯に霊化を宣揚する以上、必ず、まさに、眼光を四海に放って、以て大同の妙機を悟り、智慧を人群に着(あたえ)て、大道の玄諦を悟るべきである。

運霊、細(つぶさ)に之を悟るを可(よし)とするのみ。
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祈り道

2023-10-06 20:15:00 | 地道
昔、ある宗教団体に属していた時(
その団体は、株式会社にて、宗教団体しないと言われていたが、手の平を返して、宗教団体申請を行い、宗教教団となりました。)

その団体では、神様に通じる祈りを、秘伝として、教えてもらいました。当然に金銭がかかります。

その宗教は、教祖教主(大本教の出口直刀自と王仁三郎聖師の関係の如く、教祖と教主の関係があったようだが、教祖の女性が認知症となった噂があり、教主は教祖にもなりました。女性の教祖は表から隠されました。)

話は変わるが、最近では予備校などの学習塾にて、宗教やそれに繋がる団体が蠢いていますね。

そこには(予備校と占いも事業としている)、占い師がおられ、多くの人々を幸せへ導いていると、自画自賛。

さらに、北極老人、南極老人とのたまう。

人間は、知らないのであろうか。

他者から、与えられた助言に従えば、自信の御魂の輝き無くとも、ある程度の幸福を得られるが、それは、給料の先取りの如く。

自らの徹底努力無くして、真の幸福は得られない。

また、真の神様と出逢った事がある人は、占いを否定と肯定は、しない。

神様は、この苦海の最中、ある程度の占いを黙認しておられるが、願わくば、自己努力を臨んでおられる。


しかし、悩める受験生を籠絡し、洗脳する働き。やはり、若者の純粋さは、思想を植え付けるには最適であり、多少の若者は、因縁とカルマにより、善きも悪しきも、囚われる。

ああ、かむながらたまちはへませ。

さて、神様に通じる祈りとは、簡単に云うと、神様を感動させる。神様を、感激させる。神様を心から喜んで貰う。神様を心から納得して貰う。

朝、目が覚めたら、会社のこと、人間関係のこと、自分の働きなどを、神様の為となるように祈る。

私は、その祈り方に遇わないから、祈りませんでした。

神様の為に云々言いながら、結局は、自己の願望を叶えようとする、嫌らしさ、に嫌悪したからです。

いえいえ、本音は、そんな祈りを、1時間も2時間もしなくちゃならないの、自己満足するだけの祈り、面倒くさい。

その点、根本誠乾先生は、「彼らの祈りは、世の宗教と、等しく、祈らねば信仰の証しが無い。祈らねば、信仰が続かない。

しかし、道院の先天坐は、祈る事は無い。ただ、黙って坐る。そして、見方.変えれば、坐とは、無極に至る為の祈りでもあると。」

私は考える。

祈りとは、素直であるべき。

自己の邪悪、嫌悪する部分、隠さずに、神様に祈る。

私は神様に祈ること、願う事もありませんが、ただ、いつも、自己の浅ましさ、至らなさ、邪悪さ、愚かしさを、言葉に出来ない、自己のありのままを、「しせいせんてんろうそ」と現して、唱えます。

私は考えます。

信仰とは、自分と神様の唯一無二の世界。

そこに宗教的な、儀式や遣り方などは、参考にする事はあっても、大した問題も無く、正しい祈り方云々も必要無く、無二の空間を揚々悠々中中する。

至誠が天に通ずと、ありますが、「誠は天の道なり。誠は神の道なり。これを誠にするが、人の道なり。」

「心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は守らん。」

日本には多くのイスラム教徒が海外より渡来し、働いてくださっております。

彼等はひたむきに、アラーへ、朝昼夕方晩祈ります。

そのイスラームの儀式的祈りは、日本人から見れば愚直であるかもしれないが、異国の地で働く彼等を神様は厚く守護して、いらっしゃっる。

たかが儀式、されど、魂で通じれば、真祈。

故に、彼等は、自己信念のままに、祈る。

祈りとは、形式では無い。

祈りとは、自らの御魂の発露あるのみ。

そして、神に通じるのは、自らの神の分魂のみである。

また、真音なる、言霊のみが、神に至りて、全てに通す。


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