散歩者goo 

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昨日記141230火(家事について 読書)

2014年12月31日 13時07分12秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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昨日は、一昨日から作っていた副食作りで、一昨日から昨日昼にかけて使用した仕掛品の欠品分を3食追加製造した。
その後すべの副食に欠品していた食材を買い出しに行き、副食を完成させた。
このような細かな家事の段取りと作業で、多くの時間を取られた。
主婦の仕事が大変なことは、実際に家事を一人でしないと実感できない。
最近よく言われる、家事は立派な労働であるということは自分で家事をすると実感できる。
ましてや、子育てや介護も加わると、一般の労働の超過勤務どころではない。
家事は、近現代の経済学的見地からすれば、本来労働者が受け取る給与がもらえる労働に違いないが、それが、昔からの慣習で家族の名のもとに個人企業と同じか、または封建制度でいう、家意識で無償労働をする代わりに、食べさせてもらうという暗黙の了解の基で、すべて家族関係という単位のどんぶり勘定に吸収された。
家事労働に関しては、家事労働を賃金で代行する形態の、お手伝いさん:女中は昔から存在するのである。

しかし家事労働は、社会学的問題、すなわち家族の絆や愛情という問題が絡み育児や介護や夫婦関係等、近代経済学や法学の契約関係では、説明しきれない部分があり、文化人類学的及び哲学的問題、すなわち社会的契約と報酬の関係に対して、一方では人間社会、同族意識、家族、愛情 ボランティアといった無償の行為も現実に存在し、経済と契約に絡む根幹の部分について単純に断定することは出来ない。

少なくとも、労働と報酬の問題は、身内以外の人と第三者との契約関係の問題で、身内もしくは運命共同体の場合、その概念はあやふやなことが多く、多分少し前までは報酬という概念はなく、単に家族又は同族内での役割分担や集落内の結いであり家事であり、それらは社会制度や社会習慣や因習で決定される。
価値観は、各民族や宗教や風土や社会で全く異なる。
西洋の民主主義や基本的人権や自由の思想が多分一番進んでいると考えられているにすぎず、宗教によってはそうしたものも否定するものもある。
ただ、少なくとも日本にあっては、近年主婦の家事労働も評価しなければという考えが広がっているようだが、自分で自炊しているとそうした割り切った考えも理解できる。

多分こうした問題は、法律問題ではなく、家族の在り方の問題で、すべての家族でその考え方が違っていいのだろうと思う。
人間十人十色のように家族や夫婦の在り方も十人十色でよいが、最低限基本的人権を基礎に、憲法に基づいた作られた社会共通のルールである法令類は守る必要がある、ということであろう。

なんか、自分の家事労働の話から思わぬことまで、持論を述べたが、とにかく家事は手間暇がかかるし、生きるためには欠かせないので、外食する経済的余裕を持つか、施設に入る経済力を持たない限り、一生家事労働からは解放されないので、やり続けるしかない。
私のように、貧困の独居老人はとにかく、死ぬまで元気で頑張るしかない。

その気になれば、家事とか身辺整や園芸作業は山ほどある。
例えば、室内の片付や掃除だけでも、1週間はかかるかも知れない。
大量の書類・名刺や文書・チラシや本の整理はもっと時間がかかるだろう
予定日報表の新年度フォームも必要だし、レシートも約一か月溜まり、PB会計の決算もやって帳尻を合わせなければならない。

そうしたことは後回しにして、なんとなくTVを見ていたが、年末のTV番組はよくもまあ、こんなつまらぬ番組を作ったなあと感心するような、ダラダラした番組が多いので、すぐに飽きてくる。
その上運動もせずじっとしているので、おなかも空かない。

これでは健康に良くないと、夕方天満橋のファストフードまで読書に出かけた。
道路も人影は少なく、大阪城公園も100mに一人ぐらいランナーが走っている感じで、異常に人影が少ない。
それは、ファストフードでも同じで客席は、普段は、満員で席探しに気を使うのに、昨日はガラガラだった。
2時間近くしっかりと本を読んで帰宅した。
これからも退屈な日々が1週間近く続きそうだ。

幸いこうしたことを、当てもなく書くのも創造的暇つぶしになっているようだ。
どうせ書くなら、高校時代愛読した徒然草程度に近いものを書きたいと思うが、そんな文筆才能も感性も批判精神も大きく不足していて、真似すらできないが、とりあえず独り言の代わりの、ブログとせず、少しでも内容を向上させるように努力したい。
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