般若経典のエッセンスを語る44――エコロジカルに持続可能な福祉世界の構想

2022年10月29日 | 仏教・宗教

 続いて、残り第三十一願まで大まかに見ていこう。

 第十八願は「得五神通慧(とくごじんずうえ)の願」といい、すべての衆生が五種類の神通力を得られるようにという願である。

 第一は「天眼通(てんげんつう)」といって、天界や地獄など死後の世界を見通す力、第二は「天耳通(てんにつう)」で、あらゆる言語・音声を聞くことのできる力、第三は「他心通(たしんつう)」で、他者の心の様子をしる力、第四は「宿命通(しゅくみょうつう)」で、前世のことを知る力、第五は「如意通(にょいつう)」(または神足通)で、意のままに飛行したり居場所を変えたりする力で、つまりすべての人に超人的な能力を具えさせたいというのである。

 面白いのは第十九願で、「無種々大小便穢(むしゅじゅだいしょうべんえ)の願」という。古代インドのことだから、トイレや下水道など大小便の衛生的処理の施設が整っておらず、家や村や町がとても汚く臭かったのだろう。そういうことがないようにしたいというのである。

 「菩薩の誓願」という言葉の印象では、何かとても高尚な目標だけが掲げられているのかと思われがちだが、こうした日常的な衛生のこともあげられており、菩薩の衆生への思いがきわめて具体的な生活の向上にも向けられていることがわかる。

 第二十願は「光明具足身(こうみょうぐそくしん)の願」で、いろいろな照明器具などなくても、すべての人が存在しているだけで光り輝いているようにしてやりたいというのである。

 これは、物理的に考えると超自然的エネルギーで体が輝いて余計な電力などいらないという夢のような話だが、むしろ特殊な優れた人だけでなくすべての人をオーラが輝いて見えるような存在にしたいということだろう。

 第二十一願は「無昼夜時節変易(むちゅうやじせつへんえき)の願」といい、昼と夜や季節が変化することがないようにしようという。

 昼と夜が同じようになるというのはあまりぴんと来ないが、季節についていえば、インドは雨季と乾季があって季節の変化が厳しいので、そういうことがなくいつも穏やかにという思いがあってこうした願が立てられたのだろう。

 しかし、日本のように四季折々が美しい国では、菩薩の誓願であってもこれは遠慮したいという気がする。気候変動のためいまや四季が二季になりつつあるが、かつてのように四季が豊かに穏やかに巡るようになってほしいというのは切実な願いである。季節が穏やかにしっかりと巡るようにというのが、現代の菩薩の願ではないだろうか。

 第二十二願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」で、すべての人が長生きできるようにしたいというのである。

 しかし、幸せで長生きをするのでなく、不幸で長生きをしたのでは、苦しみが長いだけである。日本はこのままでいくと、お年寄りにとって長生きしたくない国になってしまいそうである。筆者も、これからどんどん下り坂になる日本で歳は取りたくないなと思う。そうではなく、子どもの福祉も老人の福祉も実現し、歳をとっても百歳を超えても幸せという国にしたいものである。

 そして、「誰かにそうしてもらいたい」と思っているのは凡夫で、「私は渾身の努力をして命・体を一切惜しまず、そういう国にしよう」と願い誓うのが菩薩である。

 第二十三願は「相好具足(そうごうぐそく)の願」である。「相好を崩す」という言葉や、「三十二相八十種好」という仏の身体的特徴を表わす言葉があるように、誰もが顔かたちがいつもとてもすばらしいというふうにしたいというのである。

 第二十四願は「善根具足成就(ぜんこんぐそくじょうじゅ)の願」である。私たちの心の中の善を行おうという根本的な構えのことを「善根」といい、それがしっかりと備わるとやがて菩薩にもなれブッダにもなれるのが人間であるが、善根がなければそのスタートを切ることもできない。だから、すべての衆生に「いいことをしよう」「覚りに近づきたい」「覚りたい」という根本的な気持ちを持たせたいという願である。

 それから第二十五願は「無身心病の願」で、「体と心の病が人々にあるのを見たならば、そのすべてを癒してあげたい」と思うのが菩薩だという。

 すなわち、菩薩の願の中には現代的に言えば医療福祉、そして福祉国家の構想がしっかり確立されている。驚くべきことである。

 こうして菩薩の誓願をずっと見てくると、すでに紀元一世紀頃に、空・一如、すなわちすべてのものの一体性という根源的な思想に根拠づけられた、いわば「エコロジカルに持続可能な福祉国家-福祉世界」の構想が成り立っていたといってまちがいない、と筆者には思えてくるのである。

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般若経典のエッセンスを語る43――すべての生命種の差別をなくす

2022年10月28日 | 仏教・宗教

*諸般の事情で長い間中断していましたが、また少しずつでも「般若経典のエッセンスを語る」の続きを書いていくことにしました。

 

 第十六願は「無諸趣差別並六道名字(むしょしゅさべつならびにろくどうみょうじ)の願」という。「諸趣」とは、天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの生存形態すなわち「六道」のことで、菩薩は天界から地獄まですべての違い・差別をなしてしまい、六道という名称さえなくすことを願とするのだという。これもまた大変な願である。

 第十七願は「無四生差別(むししょうさべつ)の願」で、差別をなくすというのは、人間だけの話ではない。仏教では「四生」といって、生まれ方によって生命の種類を四つに分けている。卵で生まれるものが「卵生」、母胎から生まれるものが「胎生」、それから当時は科学が発達していないから、湿気から湧いて出るように見えたボウフラなどは「湿生」という。それから愛着や性別なしに自然に、悪く言えばお化けのようフワッと出てくるのが「化生」である。

 菩薩は、生命にこうした四種類の差別があるのを見ると、「我が仏国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう」と願い誓うのである。

 これはすべての生命が平等にという理想であって、つまり現代的にいえばすべての生命種が調和したエコロジカルに持続可能な世界を創出しようという願である。

 それに対し、日本の実情を言えば、例えばニホンカワウソは絶滅してしまったのだそうである。だいぶ前に絶滅していたらしかったが、もう何年も発見されないので、ようやく環境省が絶滅したと宣言したとのことである。

 例えば、ゲンゴロウはかつて日本中のどこの池にもいたごくありふれた虫だったのだが、いまや絶滅危惧種になっているという。メダカも絶滅危惧種である。花でいえば、例えばリンドウも絶滅危惧種である。こうした例はあげていくと数えきれないほどで、気づくと恐ろしいことである。人間だけが繁栄すると、他の生物たちは絶滅していくということなのだ。

 明治から戦後、特に七〇年以降の経済的繁栄(?)は、今や日本のエコシステムを完全に壊しつつあるのではないだろうか。それは世界全体も同じで、これは何としてでも何とかしなければならない事態だと筆者は考える。

 ともかくそうした事態は、般若経典つまり智慧の経典の目指すところとはまったく逆だし、人間と他の生命種をまるで別のものとして捉え、人間を中心だと考える分別知=無明から生み出されたものだといってまちがいない。

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般若経典のエッセンスを語る42――独裁者のいない社会を目指す

2021年12月26日 | 仏教・宗教

 第十四願は、いわば第十三願の補足で、「無形色差別の願」という。「形色(ぎょうしき)」とは、形・身体のことで平たい言葉で言えば「見た目」で、見た目・外見のきれい・汚いによる差別をなくしたいというのである。皆が平等に金色に輝いて美しい国にしたい、と。それは、皆が存在しているだけで等しく仏の子としての価値があるからである。

 けれども、現代の日本では、男女ともに外見・外面が美しいか美しくないかが価値の大きな物差しになっていて、密かな、時にはあからさまな差別を生み出しており、存在そのものや内面の価値を見る眼がかなり薄れているように思える。

 それは、物質的外面ばかりに目が向き精神的内面を見失いつつある近現代の世界観(K・ウィルバーの言う「平板な世界(フラットランド)コスモロジー」)の典型的な現われの一つだが、古代の日本のリーダーたちが目指した仏国土とはまるで逆の国になっているというほかない。

 

 そして先取りしてしまったが、第十五願は「無主宰得自在(むしゅさいとくじざい)の願」という。「主宰」つまり独裁的な君主・指導者がおらず、人々が自由を得ることを願うというのである。つまり、「仏国土においては独裁があってはならない」とはっきり書いてあるのだ。

 この願もまた、初めて読んだ時、驚きを覚えたものである。般若経典には、政治と離れた内面の安らぎのことが書いてあるだけでなく、きわめて政治的なことも書かれていて、特にはっきり独裁制を否定しているのだ、と。

 

……菩薩大士が……もろもろの有情が君主に隷属しておりいろいろしたいことがあっても自由にならないのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……私の仏の国土の中のもろもろの有情には君主がなくいろいろしたいことはみな自由であるようにしよう。

 

 こうして見てくると、西洋近代の「自由・平等・友愛」という理想は、はるかに古くからすべて仏教のなかに、空・一如というより深い根拠づけをもって存在していたと言うこともできるのではないだろうか。ただ三番目の標語は言葉としては「友愛」ではなく「慈悲」であるが。

 そして、次の但し書きが的確で渋いと思う。

 

 ただし、如来・真に正しい覚った方があって真理の教えのシステムで〔有情を〕包み込むのは法王であって例外である」。……

 

 こういう指導者は「法王」と呼ぶのであって、例外としてこういう指導者は必要である。仏国土には独裁者・君主は存在してはならない。けれども、人々はまだ煩悩・無明にまみれているので、教え導かなければ、平等で自由で人々が慈しみ合うような美しい仏国土は完成しない。だから、人々を智慧と慈悲に向けて精神的な成長へと教え導く法王は必要であるというのである。

 覚った指導者が人々を導くなどということが実際に可能なのか、夢のようなきれいごと・理想論にすぎないと思う人も多いかもしれない。

 しかし、例えば、そういう法王がいたかつてのチベットは、物質的には貧しかったかもしれないが非常に平和でいい国だったのではないかと推測される。

 そして、より具体的な実例として、ブータンという国がある。ブータンは、もともと法王が国王になった国であり、国王が大乗仏教の平等という思想をほんとうに深く理解していて、近代になると国王自身が政治体制を君主制から議会制民主主義にすべきだと言い出したという。臣下たちが「国王陛下が我々と平等ではもったいない」と言うと、「いや、仏教ではそう言われている」と答え、先代の国王主導で移行が行なわれ代替わりの時から議会制民主主義になったのだという。つまり、ブータンでは大乗仏教の平等の心が実際に生きていて実行されていると見てまちがいなさそうである。

 そして、基準によるが、国民が世界でいちばん幸せな国だという国際的な評価もあることはよく知られているとおりである。それは、たまたま幸運にもそうなったのではなく、大乗仏教の精神を深く身につけた国王が主導して意図的にGDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)を目指し、実現しつつあるということだという(大橋照枝『幸福立国ブータン』白水社、ドルジュ・ワンモ・ワンチュック『幸福大国ブータン』NHK出版、参照)。

 日本も原点を振り返ってみると、聖徳太子は日本をそういう人々すべて、さらに生きとし生けるものすべてが幸福な国にしたいと願ったのだと思われる。しかし、日本の場合、千四百年経ってもそうなっていないのはなんとも残念なことではないだろうか。

 とは言っても、現代の日本はすでに近代化され政治と宗教が分離されているから、ブータンと同じようにはできないが、精神においては、ブータンの大乗仏教精神とは日本の元々の精神でもあることをもう一回思い出しなおし、ぜひとも日本を大乗仏教の理想の生きた国にしたいものである。

 それは、もちろん決して仏教を排他的な国教にして他の宗教を否定するという意味ではない。聖徳太子自身、原理主義的に仏教を信奉したわけではなく、仏教を核としながらも「神仏儒習合」という寛容で統合的な精神政策を採用されたのだった。

 そして、すでに述べてきたとおり、仏教の核にある、すべてのものがつながっており(縁起)、分離独立した実体はどこにも存在せず(空)、果てしなくつながっていて究極のところ一つである(一如)という気づき(覚り)は、特定宗教の教義を超えた普遍的なものだと思われる。

 だとすれば、般若経典が示唆するような普遍的な気づきに基づいた国家さらには人類共同体は、これからの世界にとって、可能でもあり、必然的に目指されるべきものではないか、と筆者は考えている。

 

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般若経典のエッセンスを語る41――格差のない社会を目指す

2021年10月16日 | 仏教・宗教

 第十三願は、「無上中下家族差別の願」である。まったく平等な社会・仏国土には、もちろんのことそれを構成している家族にも上流・中流・下流の格差があってはならないということである。

……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。

 貧しくて見た目も汚れてみすぼらしい下流階級がいるような国は、仏教精神の国ではない。そういう意味で、聖徳太子以来、建前としては日本はそういう国であってはならなかったのである。格差社会は日本という国のあるべき姿ではない。西洋由来の民主主義とかヒューマニズムももちろん一定の意味や有効性があると思うが、それと並行して、あるいはそれ以前に、私たち日本人は、この仏教の理想を思い出したいものだ、と筆者は思う。

 今、心の乱れから発生していると思われる様々な出来事の多発する状況のなかで、何よりも必要なのは、日本の精神的伝統の中核にあった大乗仏教がこんなに高い理想を掲げていたのだということを思い出すことではないだろうか。「こういう国を目指したくて『十七条憲法』が書かれたのではないのか。そのために日本のトップリーダーは仏教を国教にしたのではないのか。そのことを思い出そう」と言いたい(拙著『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と『緑の福祉国家』』太陽出版、参照)。

 先取りして言うと、第十五願では、驚くべきことに菩薩の建設する仏国土には人々の自由を拘束する君主・独裁者は存在してはならないと述べられている。

 身分・階級の差別がなく、格差もなく、独裁者もいない、貧しく不幸な人は一人もいない、お互いが恩恵を与え合う、花園のように美しい国を創ることを大乗の菩薩は目指すのだ、と『大般若経』にはっきりと記されている。

 そして、それを実現するためには、まず求道者・菩薩自身から始めて人々すべてが六波羅蜜を実践して、心を成熟させていく、浄化していくことが必要なのである。

 『大般若経』からそうしたことを読み取ることができた時には、大きな驚きと喜びがあった。これこそ古来日本国の目指すべき理想だったのだ、古代日本にはそういう高い国家理想があったのだ、これは私たち日本人が根拠をもって誇りうる歴史的原点なのだ、と。

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般若経典のエッセンスを語る40――身分差別のない社会を目指す

2021年10月15日 | 仏教・宗教

 第十願は、「金沙布地の願」で、汚い泥や石や茨などばかりの国土を、国中が砂金のような宝に満ちたすばらしい国土にしたいというのである。

 それから第十一願は、人々が貪欲・無明によって悪業をなすことに執着していることから遠く離れさせてやりたいという「遠離恋著悪業の願」である。

 この二つは、内容的には第九願までの補足のようなものなので、簡略に紹介するだけにしておこう。

 

 全三十一願のなかでも特筆すべきだと思うものの一つが、次の第十二願「無四種色類貴賎差別の願」である。人々が四種類に分けられ貴賤の差別がなされている状態をなくしてしまいたいというのである。

 古代のインドに四種類の貴賎の別があったことは、一般常識としても例えば世界史の教科書などに語られているとおりである。まず宗教者階級のバラモン、次に武士・貴族階級のクシャトリア、さらに平民階級のヴァイシャ、そして四番目に奴隷階級スードラである。インドでは今でも、もっと細かく分かれた、きわめて多くのカーストがあるという。

 人間には身分の貴賤・差別があるという考えは、ブッダから二千五百年、大乗仏教から二千年を経ても、なかなか人類の共通意識にならないほど強固なものである。

 「自由・平等・友愛」の実現を目指してきたはずのフランスでもアメリカでも、貧困と差別を撤廃するはずだった社会主義国でも、依然として平等は実現していないどころか、むしろ格差が深刻化しているようである。

 平等が実現せず差別・格差があり続けるのは、なぜか。それは、分別知・無明があるからだと大乗仏教は主張する。

 人が自分と他人とを分けると、当然のように違いを見て、比較することになる。比較すると、上か下か同じかという価値の差別が始まる。そして、人間は他者と別れた自分(たち)を中心視し、自分(たち)のほうが上だと思いたくなる。そうした心理をスタートとして、社会のなかで競争さらには闘争が行なわれ、その結末として、勝者が上、敗者が下という身分の上下が固定化されていく。

 般若経典に、そこまでのプロセス全体が詳しく述べられているわけではないが、語られている内容を敷衍するとそうなる、と筆者は考えている。

 そうした差別のある社会の現状に対し、菩薩はそれを見て「このような四種類の貴賎の差別をなくしたい・必ずなくす」と誓い願うのである。

 この願には、大乗仏教の目指すところがいわばユートピア・平等世界であることがはっきり出ている。だとしたら、大乗仏教を志す人は、完璧に平等社会を目指さなければならない。仏教徒であると言いながら、社会にある差別を容認したり、まして積極的に肯定するということは、大乗仏教としてはほんとうはありえないことである。

 そして差別をなくすためには、まずその源泉である無明・分別知をなくさなければならない。

 毒のある草に喩えると、根を掘り出さないまま、葉だけむしっても、しばらくするとまた葉が伸びはじめる。時によっては、危機を感じ取った草はむしる前よりも強く繁りはじめたりすることもある。

 分別知の問題を無視したまま、あるいはそれに気づかないまま、現象としての差別・格差に反対し、なくそうというヒューマニズム的な運動が、繰り返し挫折したり、腐敗したりするのは、悲しいことだが当然ではないか、と筆者は考える。

 まず自らが六波羅蜜を修行し、そしてその六波羅蜜を教えて、人々を精神的に成熟させる。そして精神的に成熟した仏国土を美しく創りあげ、速やかに完成させる。一刻も早くこの上なく正しい覚りを実際に覚る。そうして、「我が仏国土の中にはこのような四種類の貴賎の差別がなく、一切の有情が同じ階級であってみな尊い人間という生存形態に含まれるようにしよう」と。

 ところで、「平等」は、ヒューマニズムの理想であり、とりわけフランス革命の標語だと思っている人が多いのではないだろうか。

 しかし、実は「平等」という言葉はもともとは仏教用語なのである。西洋思想を輸入した明治の知識人は仏教の知識もかなりあり、equality、フランス語でégalitéを訳す時、仏教用語の「平等」を当てたということらしい。

 そういう意味では、本来の「平等」とは、むしろゴータマ・ブッダ-大乗仏教の「すべての人に階級がなくなり、すべての人が尊い人間になる」という理想を語る言葉である。

 しかし歴史上の仏教は、しばしばこの「平等」という理想を見失って、身分制の社会を肯定するイデオロギーと化したり、仏教内部でさえも僧侶たちに階級があり、いわば身分の差別があった(ある?)ようだ。

 しかし、それは言うまでもなく、『大般若経』で語られている「平等」という大乗仏教の理想に反している。

 繰り返せば、大乗の菩薩は人々がまったく平等な社会・仏国土の建設を目指しているのである。

 

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般若経典のエッセンスを語る39――すべての人にとってバリアフリーな国を

2021年10月13日 | 仏教・宗教

 それから面白いのが、第九の「無雑穢業国土平坦の願」である。菩薩の建設する仏国土では汚れや危険なものがまったくなく、土地は平坦であるようにしたいという。いわば、お年寄りや体の不自由な人のためだけでなく、すべての人にとってバリアフリーな国を建設したいというのである。

 

……悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。……有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……

 

 今の日本は、例えば核のゴミを筆頭に処理しきれないゴミが山積している。放射能汚染も決して全面除染できたとは思われない。日本の周りも含め世界中の海が廃棄物、特にプラスティックで汚染されている。清掃活動をしてもしても、海岸には毎日ゴミが打ち寄せる。地方は衰退し、耕作放棄地は荒れ放題だし、山林も荒れてきている。そして、その荒れた山林にゴミの不法投棄が行なわれ、建設残土等の不法投棄が行なわれている……等々、自然の理に反した経済の営みが、日本でも世界でも、国土を荒廃・汚染させいのちへの危険を増しつづけているのではないだろうか。

 自然の理に反した経済の背後には、無明から生まれる過剰な欲望・貪欲が潜んでいる。貪欲が国土を荒廃・汚染させるのだから、国土を美しく再建するためには、過剰な欲望から離れ自由にならなければならない。

 しかし、それは「清貧」を目指すというのとやや異なっていて、自然の理に沿った豊かさというのがあるのであり、自然の理に沿って美しく豊かな国土を創りたいというのが、菩薩の願である。

 菩薩の願は、いわば「心に花を」といった個人的な精神論にとどまらず、「この世を花園に」という大きなスケールの具体的な目標も含んでいる。含んでいるというより、心の美しさと国土の美しさは表裏一体のことと捉えられていると理解していいだろう。

 この「心も国土も花園のように」という願は、「人間なんてそんなものじゃない」とか「現実はそんなものじゃない」と思い込んでいる現実主義者には、きれいごとにすぎないと見えるだろうし、きれいごとと言えばある種きれいごとかもしれない。しかし、こんなにきれいなきれいごとはないのではないかと思う。

 そして、確かにこれは現状の現実ではないが、未来に実現すべき「未来の現実」のヴィジョンなのである。それが実際に可能になるには、第九願にあったように、すべての人が覚れると定まり、第一から第六までに語られた六波羅蜜を実践し、分別知・無明から解放される必要がある。

 その場合、「この世が花園だといいな。ユートピアだといいな(誰かにやってほしい)。」と思っているだけでは菩薩とは言えない。菩薩は、いわば先駆者として自ら無明からの解放すなわち覚り・菩提を追求しつつ同時に命がけで仏国土を実現しようとする。

 目指すところは、下手をすれば軟弱なきれいごとに見えかねない。あるいは不可能な理想だとも取られかねない。しかしその理想の実現に向かって、命がけで渾身の努力・雄々しい努力をする。それが菩薩なのだ、と。

 こうした大乗の菩薩論は、単なる個人の精神論ではなく、人々の先駆者・リーダーの心・志のあるべきかたちを語った精神論なのだ、と筆者は理解している。

 

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般若経典のエッセンスを語る38――不幸な場所をすべてなくす

2021年10月11日 | 仏教・宗教

 八番目は「離三悪趣苦の願」で、すべての生き物・人々を三つの悪い・不幸な生存形態から離れさせたいという願である。

 

 ……菩薩大士が……もろもろの有情が三つの悪い生存形態、一には地獄、二には畜生、三には餓鬼の世界に堕ちているのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と。……

 

 神話的な仏教の世界観では、今生で善業を積まず悪業を重ねていると、人間界でもより悪い状態に生まれ変わり、悪業が重いとより下の生存形態に堕ちることになっていて、最悪がすべて苦しみの世界である地獄、それから何を食べてもしても満足のできない餓鬼、性欲と食欲のことしか考えられない畜生、絶えず争い傷つけあっている修羅・阿修羅である。そのうちの阿修羅を除いた特に悪いところを「三悪趣」または「三悪道」という。

 菩薩は、人々が悪業の結果・報いとして三つの悪い生存形態に堕ちて苦しんでいるのを見た時、いわば「自業自得だ」「私には関係ない」というふうに他人事と見て放置することはしない・できない。

 人々はほんとうは自分と一体なので、自分のこととして、「我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と懸命の努力をするのだという。

 「良い生存形態」とは、人間界の中のいい所と、天界と、そこから上の世界のことで、つまり衆生すべてが三つの悪い生存形態から離脱して極楽・天国・ユートピアのようなところで暮らせるよう、渾身の力を込めて身命を顧みず努力する。

 それだけでなく、菩薩が建設する仏国土には、地獄・餓鬼・畜生という生存形態がまったくなく、したがってその名前さえないようにするのだという。

 そうすることで、菩薩大士はこの上なく正しい覚りに限りなく接近するのだ、と言われている。

 第一願以下すべて最後のところに「是の菩薩・摩訶薩は此の〇〇波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す」とある。決して到達するのではなく、「接近する」のである。

 つまり、覚りきって、苦しみに満ちた六道・六種類の生存形態から自分だけが解脱・脱出してしまわない。そこにとどまって衆生救済の働きをし続ける、それが大乗の菩薩大士なのだという。

 

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般若経典のエッセンスを語る37ーすべての人が覚れるように

2021年08月30日 | 仏教・宗教

 

 第七願は六波羅蜜についてのまとめともいうべき願で、「必得正定聚の願」という。「すべての人々を必ず覚れると定まった種類の人にしよう」というのである。

 

   ……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、諸々の有情に三種類の差別があり、一は覚れないと定まっている人々、二は覚れると定まっている人々、三にはどちらとも定まっていない人々があることを見たならば……「我が仏国土の中には覚れないと定まった人々およびどちらとも定まっていない人々の名前さえなく、すべての有情が必ず覚れると定まった人々であれるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような六種類の波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りにかぎりなく接近するのである。

 

 大乗以前の仏教では、人間には生まれつき覚れないと決まった人、どちらとも決まっていない人、必ず覚れると決まった人という、決定的な資質の差があると考えられていた。

 それは、人間の有り様の表面を見ていると、確かにそうだと感じられる。どうしようもない(ように見える)人、ふらふらしていた方向の定まらない人が少なくない。そうした表面だけを見て、「それはそういうものなので、もう仕方のないことだ」と人間に関してあきらめてしまっている人も多いだろう。

 それに対して、どこまでもあきらめてしまわないのが大乗・般若経典である。ここでは、「誰でも六波羅蜜を実践すれば必ず覚れるのだから、そうだとしたら誰もが六波羅蜜を実践できるように・したくなるようにしたい。その結果として、すべての人が必ず覚れるようにしたい」という願が語られている。

 大乗仏教の菩薩は、まず自らが六波羅蜜を心を込めて実践しながら、自分だけの覚りにとどまず、特定の宗教的な資質に恵まれた自分たちだけの覚りにもとどまらず、自分も含めてすべての人、すべての生きとし生けるものの覚りを、どこまでも追求するのである。

 それは、ただあきらめが悪いからでも、しつこい性格だからでも、粘り強いからでもなく、修行のスタートから、「自分と自分以外のもの(者も物も)が区別はあっても根源的にはつながって一つの存在だ」と捉えているからである。

 「自分(たち)だけの覚り」がありうると思うのは、宗教的ではあっても一種の分別知であり、無分別智とはまるで違うものである。そもそもすべてのものとの一体性を目指すのでなければ、大乗の覚りに向かう修行とは言えないのである。

 

*今回から内容がわかるようにサブタイトルを付けることにしました。過去の記事にも徐々に付けていけるといいと思っています。

 

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般若経典のエッセンスを語る36ー正しい智慧が完成するように

2021年08月25日 | 仏教・宗教

 第六願は六波羅蜜の第六「智慧」に関する願、「正慧成就の願」で、「正しい智慧が完成する」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が般若波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が愚かで悪知恵があり、世間的と超世間的な正しい見方をどちらも失っており、善悪の業と業の結果を無視し、死ねばすべては終わりとこだわり、永遠に存在するものがあるとこだわり、実体的一体性にこだわり、分離した多様性にこだわり……種々の誤った見方があるのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこのような悪知恵がありまちがった見方に執着するような有情たちがおらず、すべての有情に正しい見方と種々のすばらしい智慧を成就させ、三種類の神通力(過去世を知り、未来世を知り、煩悩を尽くす)を具えさせよう」と。……

 

 すでに述べてきたように仏教では、ふつうの人間の知恵はすべてを分離独立した実体だとする錯覚・無明をベースにした「分別知」であって、ほんとうの正しい智慧とはまるで逆のものであり、それに対して正しい智慧とはすべてをつながって一つと捉える「無分別智」だ、と考えられている。

 すべてがつながって一つということが世界のほんとうの姿であり、それに目覚めることが智慧なのならば、智慧から生まれる人間と人間の関係はいうまでもなく平和であり相互扶助・互恵であり、人間と人間以外の自然の関係は調和である。

 ところが、人類は言葉によって文明を築き、築く過程で多くの戦争を行ない(いまだに行なっている)、人間以外の自然・環境を破壊し続けてきたのではないだろうか。

 だから、分別知がどれほど多く巧妙であっても、それは根本的には「愚かさ・愚癡」であり「悪知恵・惡慧」だ、と仏教は言う。これは、言葉による分別知で文明を築いてきた人間の営みに対する根源的な批判だといってもいいかもしれない。

 けれども、仏教のふつうの人間に対する姿勢は、批判・非難・否定というよりは、医者が病人に対するように悪い病気は病気として厳しく指摘するが、それは病人・人間そのものを悪いものとして断罪するためではなく、治療の前提としての診断である。診断に基づいて治療が行なわれると、病人は人間でなくなるのではなく健康な人になるのである。

 もろもろの有情・すべての人が智慧の心を得て、健康あるいは超健康になることができれば、人間同士の持続する平和と人間と自然の持続可能な調和が実現できるだろう。

 逆に言えば、人類の知恵が基本的に分別知であるかぎり、人間同士の争いと自然との不調和は終わらないだろう。

 では、仏教は人間の心の病・愚癡・無明をどのように診断しているのだろうか。般若経典に先立つ部派仏教のアビダルマでも般若経典に続く唯識学でも無明・煩悩の詳細な解明がなされているが、この個所では、ごくポイントだけが述べられている。

 自我を実体視し中心視すると、ごく常識的・世間的・社会的な意味でもものごとを曲げて見るようになりがちである。もちろん、自我が実体ではなく世界の中心でもなく、かつ世界とつながって一つであるという世間の常識を超えた見方などまったくできない。

 自分が他者や世界と分離独立した実体だと錯覚すると、さらに善であれ悪であれ自分が何をしようと「関係ない」「自分は自分であって影響を受けることはないし変わることはない」という錯覚が重なって起こる。

 しかし、実は自分も他もつながっていて(縁起)変化する(無常)ものなので、自分の行為は必ず他に影響を与えるし、自分自身にも影響を与える。善い行為は自他に善い影響・結果をもたらし、悪い行為は自他に悪い影響・結果をもたらすのである。

 自分を他とまったく分離した身体的存在だと錯覚すると、そもそも自分のいのちが先祖から私そして子孫へとつながったものであり、また他のさまざまないのち(植物や動物)とのつながりによって維持されているものであり、いのちといのちでないものはつながって一つの宇宙・大自然であって、絶えず関わり合いながらいのちになったりいのちではないかたちになったりという変化をしていることがまったく見えず、「自分が死ねばすべては終わりだ」と思い込むことになるか、それではあまりにも空しいので、霊魂のような実体で永遠に存在するものがあると信じ込みたくなる。

 前者を「断見(だんけん)」といい、後者を「常見(じょうけん)」といって、仏教では身体であれ霊魂であれ実体があると思い込むのは、誤ったものの見方・「悪見(あっけん)」であるとしている。

 断見は、現代的に言えばエゴイズムを元にしたニヒリズムであり、常見は原理主義的な宗教に見られるような自分たちの信じるものだけを永遠視し絶対に正しいとする排他性を生み出すという意味で、これからの人類全体の平和にとっては有害無益なものの見方だ、と筆者も考える。

 さらに、すべてのもの・全体が一体(一如)だとはいっても、それは固定的な実体的一体性ではなく、分離はしていないが区別はできるそれぞれの多様な部分が関わり合いながら(縁起)、絶えず変化していく(無常)、いわばダイナミックな宇宙的なプロセスとして一体なのである。

 したがって、一体(一)とはいっても多様性(異)を含んでいるし、多様性も分離独立したばらばらの実体が多様にあるということではなく、一体性に含まれ包まれた多様性である。

 どちらにしても、一体性を実体視することも多様性を実体視することも誤ったものの見方であり、仏国土を創るにはふさわしくないものの見方だという。

 それは、以下見ていくとはっきりするように、仏国土は、仏という独裁者が統一・統治する全体主義国家でもなければ、人々が自分の好き勝手に生き、幸不幸や生き死にはすべて自己責任と運であるという個人主義的・自由主義国家でもないということでもあるだろう。

 そうした一体性と多様性が調和した仏国土を創るには、人々がみな過去のことを深く正確に知り、未来のあるべき姿をも深く正確に知っている必要があるし、そのためには自分(たち)を実体視・中心視することと、そこから生まれる自他を悩ませるような心のあり方から解放されていなければならないというのである。

 般若経典には、これまで人類が一度も創り出すことのできなかった、最高に平和と調和に満ちた国そして世界を創るための基本的なまさに智慧・般若が語られている、と筆者は読み取っている。

 

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般若経典のエッセンスを語る35ー禅定が完成するように

2021年08月21日 | 仏教・宗教

 第五願は六波羅蜜の第五「禅定」に関する願、「禅定成就遠離諸蓋散動」で、「禅定が完成しもろもろの心の乱れ・煩悩から遠ざかることができる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が禅定波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が貪り、怒り、落ち込み、放心、はしゃぎ、後悔、疑いに覆われ、気づきを失い、気ままで、四種類の禅定、四種類の無量の禅定、四種類の物質性を超えた禅定さえ修行することができず、まして世間を超えた禅定を修得することなどできないことを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした煩悩に心を動かされるような有情たちがおらず、すべての有情が自由自在にもろもろの禅定、無量の禅定、物質性を超えた禅定などに遊ぶことができるようにしよう」と。……

 

 仏教では、過剰な欲望や怒りや憎しみなどのネガティヴな心の働きを「煩悩」と呼んでおり、「蓋(がい)」はその別名である。そして、すべての煩悩の源泉は「無明」にあると捉えている。「無明」とは、自分や世界のほんとうの姿が見えていない・明らかでないということである。

 では、なぜふつうの人間(凡夫)は無明という心の状態にあるのか。すでに述べたことを簡単に繰り返すと、人間は言葉とりわけ名詞を使って自分や世界を認識するために、すべてのものが分離独立した実体(我)に見えてしまうのだった。そういう人間の無明の認識の仕方をすべてのものを分け別れたものとして知るという意味で「分別知」というのだった。

 特に自分を実体だと錯覚してしまうと、実体である自分はすべての中心であり絶対に維持すべきものだと思えてきて過剰な執着が起こる。つまりエゴイズムが生まれるのであり、エゴイズムからさまざまな煩悩が生まれる。

 逆の順で言うと、さまざまな煩悩はエゴイズム・自我の中心視から、自我の中心視は自我の実体視から、自我の実体視は分別知・無明から生まれるのであった。

 その分別知・無明を解決するには、分別知を超えた智慧を得る必要があり、智慧を得るための方法のもっとも重要なものが「禅定」なのである。

「禅定」とは、まずサンスクリット原語の「ディヤーナ」を音で写した「禅那」という漢訳語があって、その前半「禅」に精神集中という意味の漢字「定」を足して中国で作られた用語で、大まかに言っておけば精神集中・瞑想のことである。

 ふつうの人間は、ふだん心の中で言葉をめぐらしていろいろなことを考えている。それは、言葉とりわけ名詞で多様なことすべてを分別しているということであり、結局無明の心の働きである。

 そうした無明・分別知を超えるには、まずいろいろなことを考え・分別するのをやめて、心の中の言葉を沈黙させて、一つのことに集中する。瞑想法としてはいろいろなものがあるが、典型的には呼吸に集中するのである。ひたすら呼吸に意識を集中していると、いわゆる「一心」になる。そして、一心が深まるといろいろなことをまったく考えていない・分別していないという意味で「無心」に到る。「無心」は言い換えると「無分別」であり、徹底的な無心・無分別はすべてが空・一如であるという「智慧=無分別智」に到達する。

 智慧・無分別智に到ると、無明は超えられ、自我の実体視・中心視は超えられ、煩悩は根本から解消されるのである(実際の修行のプロセスは紆余曲折や行ったり来たりがあって、こんなにシンプルではないが、大筋だけ言えばこうなる)。

 つまり、人間同士が貪り合い、憎み合い、争い合うという煩悩から根本的に解放されるためには、無明・分別知を乗り越える必要があり、分別知を乗り越えるには無分別智に到る必要があり、無分別智に到るにはその方法としての禅定を実践することが必要なのである。無分別智に到ると、すべてのもの(者・物)が一体・一如であると覚られて、そこから自然に慈悲が生まれるのだという。

 禅定の意味や種類について詳しくは後の章で述べるが、「もし私たちがほんとうに人と人とが慈しみ合う美しい世界・仏国土を創り出したいのなら、すべての人が禅定を実践しなければならない」と『大般若経』は言っていると筆者は理解する。

 それは、現代の私たちにとっては先に述べたような「条件付きのねばならない」であって、「強制的な・無条件のねばならない」であると取る必要はないかもしれない。

 しかし、今人類社会は争い合いながら衰退そして滅亡へと向かうか、合意と平和によって人類の総力をあげて問題に立ち向かい、生き延びる、つまり持続可能な世界秩序を創り上げるかという岐路に立っているのではないだろうか。

 (これは、大げさな状況判断ではないと筆者は思っているが、読者はどう考えられるだろう。)

 もしそうだとしたら、生き延びたいと願う者にとっては、禅定はまず自分から始めてやがてすべての人がしなければならない・必須のことだと言えるのではないだろうか。

 そして、マインドフルネス瞑想などの世界的流行は、その先駆け的現象なのかもしれない、と筆者は思っている。

 

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般若経典のエッセンスを語る34ー精進が完成するように

2021年08月15日 | 仏教・宗教

 今日は、「終戦記念日」です。筆者は、「敗戦記念日」と呼んだほうが適切だと考えていますが。

 1945年8月15日の敗戦は、明治維新以来、「富国強兵」「欧米列強に伍す」「追いつき追い越せ」をスローガンに努力した大日本帝国が挫折したことを意味すると思われます。

 以後、日本国は、「強兵」は放棄し勤勉な国民性を活かして「富国」に向かい、経済復興、経済成長、ジャパン・アズ・ナンバーワン、一億総中流……に達した後、バブル崩壊、格差社会、少子高齢化社会、地方の衰退などなどの問題を抱え、直近はコロナ感染の拡大をコントロールしきれず、そしてきわめて広範囲の記録的大雨による災害がまだ続いています(雨が早く止むこと、災害がなるべく少ないことを祈っています。被災者の方に心からお見舞い申しあげ、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします)。

 日本はこれからどうなるのだろう、よりよい国になるのだろうか、という不安を抱いている方も少なくないと思いますし、筆者も深く危惧しています。

 そうしたなか、他の仕事に手を取られていたことと、夏の暑さにかなりまいりかかっていたことで中断していた「般若経典のエッセンスを語る」の掲載を再開することにしました。

 一切衆生・生きとし生けるものすべてが幸せである「仏の国土」のようなすばらしい国に日本をすることができるのか、大きなヒントが「般若経典」にはある、と考えているからです。

 夏バテ気味なので、次々と書き続けることができるかどうか、あまり自信がないのですが、ともかく再開することにしました。

 続けて読んでくださっていた読者のみなさん、お待たせしました。この後も、原稿の進み具合がまどろっこしいかもしれませんが、気長にお付き合いいただけると幸いです。

  *              *             *

 

 第四願は六波羅蜜の第四「精進」に関する願、「精進成就解脱具足」で、「精進が完成し輪廻からの解脱が得られる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が精進波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が怠惰で精進しようとせず、三乗を捨て人間界・天界の善業も実践できないのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした怠惰なもろもろの有情たちがおらず、すべての有情が熱心に精進して善い生存形態や三乗の原因になることを実践し、天界や人間界に生まれて速やかに解脱が得られるようにしよう」と。……

 

 『大般若経』の他の個所で六波羅蜜は相互に促進し合うことが述べられている。なかでも「精進」は、特定の何かをするというより、他の五波羅蜜すべてを実践するうえでの基本姿勢だと言っていいだろう。自らの覚りと衆生の救済に向かって、ひたすら一心に渾身の努力をしていくという心の姿勢である。

 人間は、何もしないでいると確かに当面は楽だが、やがて衰えていく。長期入院しリハビリが十分でない患者が驚くほど短期間に衰えていくことは、身近で体験した人なら誰でも実感する事実である。

 人間は、単に現状維持するだけでも一定程度は動いている必要があるが、まして成長・成長を目指すのであれば、負荷をかけてトレーニングする必要がある。

 スポーツや体の健康維持については、多くの人が実行するかどうかは別にして、それは認めるだろう。しかし、心の健康維持や強化や向上にもトレーニングは必須であることは、やや忘れがちであるように見える。

 しかも、凡夫は自分しかも現状の自分を実体視しているために、今の自分を楽にしたり楽しくしたりすることが自分にとっていいことだ・自分の得だと考えがちである。

 しかし、怠惰という業が積み重なると必ず身心を衰えさせる。人間の身心は無常なるもので変化するものであり、その変化はプラスとマイナスのどちらにも向かいうるのであり、怠惰は何もしないことをすることで自分をマイナスに向かわせるのである。

 私たちが、個人として人間なみの水準やさらに天界というほどの高い水準へと向上し、いっそう高い心の自由の境地・解脱へと人間成長を遂げ、社会としては貧困も飢餓も憎み合いも紛争・戦争もない美しい国を創り出したいのなら、精進という姿勢は必須である。

 多くの人が、自分が楽をすることや楽しむことが人生だと思っている――個人主義と快楽主義――かぎりは、個人も社会も現状維持さえ困難であり、それどころかむしろ劣化していくだろう。日本という国は、ここのところ残念ながら個人主義と快楽主義による劣化のプロセスに入ってしまっているのではないか、と筆者は危惧している。

 すでに長く実践してきて精進の個人と社会にとっての意味を深く体験的に知っている菩薩は、人々が目先の楽さや楽しみに溺れてやがて結局は衰え堕落していくことのないよう、まず自らが「精勤して身命を顧ず・渾身の努力をし身命を顧みず」という姿勢の手本を示して、人々を精進へと促すのである。

 そして、もちろん人々が共に住む美しい仏国土は、菩薩だけで創り出すことはできない。リーダーとしての菩薩と人々が共に労を惜しまず、時には身命も惜しまないほどの渾身の努力をする必要がある。

 因みにこの「精進」という徳目は、ただ出家した人のものだっただけではなく、その教えが日本人の勤勉さを育んできたことも指摘しておきたい。

 今、私たち日本人は、この精進という心の姿勢を勤勉さという以上に『大般若経』の語っているより深い意味で再発見・再獲得する必要があるのではないか。もしそれができれば、日本は劣化ではなく向上のプロセスに入ることができるだろう、と筆者は考えている。

 

*連載の番号を間違えました。35→34でした。お詫びして訂正します。

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般若経典のエッセンスを語る33―忍辱が完成し慈悲が具わるように

2020年11月04日 | 仏教・宗教

 第三願は、六波羅蜜の第三「忍辱」に関わって、「忍辱成就慈悲具足の願(にんにくじょうじゅじひぐそくのがん)」で、忍辱が完成し慈悲が具わることの願」ということである。

 第一願から一貫して「この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。『私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業から離れさせてやれるだろうか』と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。『私は渾身の努力をし身命を顧みず〇〇波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し……』」という言葉が繰り返される。

 願という意味ではこの繰り返しは必須なのだが、頁数の関係で以下は省略して紹介する(省略個所は……で表記)。

 

 ……菩薩大士が忍辱波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が互に怒り憤りののしり侮辱しあい、刀や棒や瓦や石や拳やハンマーなどで互に傷つけあい、殺しあうに到ってもひたすらやめようともしないのを見たならば……我が仏国土の中にはこうした煩悩・悪業まみれの有情がおらず、一切の有情がお互いを見るのが父のよう、母のよう、兄のよう、弟のよう、姉のよう、妹のよう、男のよう、女のよう、友のよう、親のようであって、慈しみの心を向けあいお互いに利益を与えあうようにしよう」と。……

 

 人間は、歴史が始まって以来、あるいは文字(史)に記録(歴)されているという意味での歴史以前から、個人間でも集団間でも争いを続けているようだ。それがふつうの・ほとんどの人間つまり凡夫の姿である。

 そうした人間同士の争いに対して仏教は、ある意味で自然な、やむを得ない人間の闘争本能だというふうには捉えていない。

 人間が争うことは悪しき行為・悪業であり、それは、自分と他者がそれぞれ分離・独立した存在だと見なす分別知・無明・煩悩が源であり、そこから自分と物質的・精神的財産や利害が一致している者同士を「自分たち」・仲間・味方と見なし、一致しない者たちは「自分たち」ではない敵、いわば「あいつら」と見なすことが原因だ、と仏教は捉えている。

 それに対して菩薩は、すべては一如・一体であり、したがってすべての人も一如・一体であり、対立して傷つけ合うのは宇宙の理に反したこと・悪業であることに気づかせるために、まず自分が他者から傷つけられてもやりかえさないで受容すること・忍辱を身命を顧みることなく実践して見せることで、人々を教え、精神的に成熟させて、人々すべてが一つの家族のように慈しみ合う美しい国を創り上げていきたい、というのである。

 「やられたらやり返す」ことが常識の世界からすると、まるで夢のような美しい話だが、菩薩はいわばそうした美しい夢を見、見るだけでなく現実化しようと渾身の努力をするのだという。

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般若経典のエッセンスを語る32

2020年11月02日 | 仏教・宗教

 第二願は「浄戒成就諸善善報具足の願(じょうかいじょうむしょぜんぜんぽうぐそくのがん)」で、六波羅蜜の第二の「持戒」(玄奘訳では「浄戒」)について「有情に戒律を教え実行させ、その結果として有情たちが諸々の善を行ない、その善の報いを得られるようにしよう」という願である。

 仏教の戒律のもっとも基本的なものに「五戒」と「十戒」または「十善戒」がある。

 「五戒」は、「不殺生(ふせっしょう)」・殺さない、「不偸盗(ふちゅうとう)」・盗まない、「不邪淫(ふじゃいん)」・不適切なセックスをしない、「不妄語(ふもうご)」・ウソをつかない、「不飲酒(ふおんじゅ)」・お酒を飲まない、ということ五つの戒めである。

 「十戒」または「十善戒」は、五戒の四つまでは共通で、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」・二枚舌を使わない、「不悪口(ふあっく)」・人の悪口をいわない、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わない、「不貪欲(ふとんよく)」・欲張らない、「不瞋恚(ふしんい)」・腹を立てたり恨んだりしない、「不邪見(ふじゃけん)」・因果・縁起の理法を否定するような考えをもたない、という六つが加えられている。

 かつて日本では、ほとんどの庶民が「他のことは出来なくても、せめてこの十のことは守りなさい。そうするといいところに生まれ変われるよ」とお坊さんから教わっていた。

 「因果応報ということがあって、いいことをすれば、この世でも幸せになる可能性があるし、なれなかったとしても来世ではきっと幸せになれるよ」と、善因善果・悪因悪果(「善因楽果・悪因苦果」ともいう)ということを教わる。

 いわば積極的な善が布施であり、抑制的な善が持戒であり、こうした布施や持戒の教えは、聖徳太子の時代から江戸時代に至るまでに、日本人の親切さ、やさしさ、穏やかさ、まじめさ、正直さ、誠実さといったすぐれた国民性を育んできたのだ、と筆者は考えている。

 ところが、第二願の最初には十善戒のちょうど逆さまのことが書いてある。

 

 また次に、スブーティよ、菩薩大士が持戒波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が煩悩が盛んで、さらに殺し合い、与えられていないものを盗り、邪なセックスをし、ウソをつき、荒々しい言葉を使い、裏表のあることを言い、汚い言葉を使い、さまざまな貪り・怒り・まちがった考えを起こし、それが因縁となって寿命が短く病が多く、顔色は衰えきって元気がなく、生活の糧が乏しく、下賎な家に生まれ、からだ・かたち・ふるまいが汚く臭く、いろいろなことを言っても人に信用されず、言葉が乱暴なために友達が離れてしまい、およそ言うことすべてが下品で、ケチ、欲張り、嫉妬、まちがったものの見方があまりにひどく、正しい教えを非難し、賢人・聖者を攻撃するのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって彼らをもろもろの悪業とその報いから離れさせてやれるだろうか」と。こう考えた後で、次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず持戒波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした悪業をなすこととその報いを受けるようなもろもろの有情がおらず、すべての有情が十善戒を行ない、長寿などのすばらしい果報を受けられるようにしよう」と。(後略)

 

 十善戒とはかけ離れた行動によって社会が乱れ、その結果、お互いがお互いを不幸にするような状態に人々がなっているのを見た時、菩薩は「これでは今生でも来世でも彼らは幸せになれない。そうではなく幸せになれるように、まずは十善戒から教えよう」と、まず自分から手本を示して人々を教え導き、穏やかで安心して暮らすことができ、その結果のどかな気持ちで長生きもできる国を一緒に創り上げていくために、身命を顧みず渾身の努力をしていくのである。

 この十善戒は、一見シンプルで当たり前のようだが、もしその国に住む人すべてが実際にをちゃんと守れたら、それはまちがいなくいい国になるはずである。

 私たちの国日本は、残念ながら、まだ総体としてこの単純明快な戒律を守れる国民になっていないのではないか。

 むしろ、エゴイズムが氾濫しモラルの崩壊が深刻化しているのではないか、と筆者には思えてならない。

 しかし江戸・二百七十年の日本は、貧しさなどさまざまな問題を抱えていたにもかかわらず、とても平和で仲良く人々が暮らす国だったようである。

 それが残っているのが、大きな災害があった時、特に地方で語られる「絆」ではないだろうか。それは、江戸時代までの日本の精神性の基礎であった神仏儒習合のうち、特に仏教文化の十善戒などが日本人の心に滲み込むことで出来たものだと思われる。

 そうした精神的遺産が今は何とか残っているが、多くの日本人が原点としての仏教を忘れているから、このままだと薄れ消えていってしまい、日本の精神性の荒廃がますます進行していくのでははないか、と筆者は危惧している。

 そうならないために、ぜひ、大乗仏教―般若経典のエッセンスを思い出してほしいと思う。

 もどると、人々みなが基本的な当たり前の戒律・倫理を守ることで平和に幸せに暮らせる仏の国のような国にしたい。それが菩薩の誓願なのである。

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般若経典のエッセンスを語る31

2020年10月31日 | 仏教・宗教

 ところで、拙訳では玄奘訳にしたがって「有情」という訳語を使っているが、サンスクリット原語は「サットヴァ」で、一般的には「衆生」と訳され、「群生(ぐんじょう)」と訳されることもあり、日本語としては「生きとし生けるもの」と訳されることが多い。

 先にも述べたように大乗の菩薩の基本的な実践項目を「六波羅蜜」といい、その第一が有情・衆生に対する「布施」である(以下、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧についても述べられていく)。

 布施の一般的な解説としては、財施・物質的な施しと法施・真理の教えの施しと無畏施・畏れのない心・安心の施しがあるとされるのだが、この誓願では、まず何よりも身に迫った飢え渇きを癒し、そして清潔な衣服と暖かい寝具を調えるという具体的なことがあげられている。

 それらがない有情・生きとし生けるものを見た時、菩薩は「どうしたらこの貧しさから救ってあげられるだろう」と考え、「なんとしても救ってあげたい」と思い、「渾身の努力をし身命を顧みず」布施を実践するのだという。ただ、衣服や寝具があげられているから、具体的にはまず人々が対象ということだろう。

 ともかく、ここまでは、まちがいなくすばらしい志ではあるが、一般的な菩薩のイメージとしては当然のことで特に驚くような話ではないし、他の宗教における慈善や直接宗教に関わらないヒューマニズム的な福祉とそれほど違わない。

 しかし、違うのは、できるだけ・ある程度までというのではなく、もろもろ・すべての人々、さらには心ある生き物・有情すべてが、天界の天人たちのような最高の「種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」という極端なまでの徹底性である。

 それを実現するためには、ただ特定の菩薩が特定の有情に一時的かつ部分的にいわば「私にできることをできるだけ」というふうに布施を行なうだけでは不十分である。有情の住んでいる所そのものの全体が完全に「生きるために必要なものが欠乏」することのない豊かな所にならなければならない。

 住むものすべて、一人残らず、一匹残らず、豊かで幸せなところ、それが「仏国土」であり、菩薩は「仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させ」ること、つまり仏国土建設を目指すのだという。

 「仏国土」のサンスクリット原語は「ブッダ・クシェトラ」で、仏・覚った人の住むところ・領分といった意味である。

 そして菩薩は、やがて必ず覚って仏になる存在なので、すでにある他の仏の国土に行くのではなく、自らが覚り自らが創り出す「我が仏国土」なのである。

 しかも、自らが覚るだけでは、覚った人々の国・仏国土は完成しない。構成員すべてが、人間として成熟していて自己中心的な貪欲から解放されていなければ、富の偏在や不公平感からくる争いはなくならない。

 だから、人々をも成熟させ一緒に覚り一緒に仏国土を創っていこうというのである。

 それも「いつの日にか」といった悠長な気持ちではなく、「速やかに……一刻も早く」という想いで「身命を顧みず」「渾身の努力」をするのだという。

 このきわめて強い決心の言葉は、第一願だけではなく第三十一願までそれぞれの願ごとに繰り返し繰り返し語られている。

 ということは、菩薩が最終的に目指すのは仏国土の建設であって、それぞれの願はいわば仏国土の全体的プランの三十一分の一の要素だ、と捉えることができるだろう。

 学びが『般若心経』や『金剛般若経』にとどまらず、『摩訶般若波羅蜜経』さらには『大般若経』まで広がり深まっていく中で、筆者にとって喜ばしい驚きだったのは、菩薩は、個人的な救済活動だけでなく、有情の住む所全体を仏国土にし一人残らず最高の幸せにするといういわば社会変革運動をも志すのだ、と般若経典にはっきり記されていたことだった。

 初期の大乗経典に属すると言われる『維摩経』にも仏国土というコンセプトはあるが、それはかなり理念的なものだった。

 ところが、いわばもっとも中核的な大乗経典である般若経典にも「仏国土」が語られていて、しかも『維摩経』と異なり、その全体像がきわめて具体的に語られていたことが、「般若経典にはこんなことまで、こんなところまで書かれていたのか」という大きな驚きだったのである。

 こうした菩薩の誓願の強さ・深さは、原漢文で味わうといっそうよく感じられると思われるので、第一願だけでも、書き下し原文をあげておこう。

 

 爾(こ)の時仏、具寿善現(ぐじゅぜんげん)に告げて言(のたま)はく、善現、菩薩・摩訶薩有りて布施波羅蜜多を修行し諸の有情の飢渇(きかつ)に逼(せま)られ衣服弊壊(えぶくへいえ)し臥具乏少(がぐぼうしょう)なるを見ば、善現、是の菩薩・摩訶薩は此の事を見己って是の思惟(しゆい)を作す、我れ当に云何が是(こ)の如き諸の有情類を救済(ぐさい)して樫貪(けんどん)を離れ乏少(ぼうしょう)なる所無からしむべきと。既に思惟し己って是の願を作して言はく、我れ当に精勤(しょうごん)して身命を顧ず布施波羅蜜多を修行して有情を成熟し仏土を厳浄(ごんじょう)し速に円満して疾(と)く無上正等菩提を証し我が仏土の中(うち)是の如き資具乏少の諸の有情類無きを得ること四大王衆天(しだいしゅてん)・三十三天8さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)の種種上妙(じょうみょう)の楽具(らくぐ)を受用するが如く我が仏土の中の有情も亦た爾(しか)なり種種上妙の楽具を受用せしむべしと。善現、是の菩薩・摩訶薩は此の布施波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す。

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般若経典のエッセンスを語る30

2020年10月28日 | 仏教・宗教

 

 菩薩の三十一の誓願

 

 菩薩が慈悲の心を実習・実修する場合、「具体的には、こういうことを実行しよう」というのが誓願である。

 イントロダクションが長くなったが、ようやくここから第一章で「般若経のエッセンスのエッセンス」だと予告した「菩薩の三十一の誓願」を順を追って見ていきたいと思う。

  これは『大般若経』「初分願行品第五十」にあるもので、他に一願だけ少ない三十願があげられている個所もある(各願についての見出しは大東出版社版『国訳一切経』の中の『大般若経』の脚注による)。

 人間は心が無明に覆われているが、心の本質は清浄であり、無明をいわば拭い取ることによって、智慧が現われる、と仏教は説く。そして。無明を拭い取る方法として、仏陀から部派仏教までは主に「八正道」を説き、大乗仏教は「六波羅蜜」を説く。

 「波羅蜜」は「波羅蜜多」の略で、波羅蜜多はサンスクリット語の「パーラミター」の音写である。「パーラ・完成」+「ミター・方法」と「パーラム・彼岸へ」+「イッター・行く」という二つの語源解釈があるが、どちらにしても「覚りに向かう方法」という意味になる。

 八正道と六波羅蜜の内容はかなり重なっているが、ごくシンプルに言えば、八正道になくて六波羅蜜に加えられているのは「布施」である。

 かつて筆者は両者を比較してみて、自分の覚りにとどまらず、他者への慈悲が強調された大乗仏教の修行法の最初に「布施・施し」が挙げられているのは、なるほどと納得させられたものである。

 

 第一願は「布施成就衣食資生充足(ふせじょうじゅえじきししょうじゅうそく)の願」で、「衆生・有情への布施を完全なものにし衣食など生きるための必要なものをすべて充足したい」という願である。

 菩薩の願は、単なる精神論から始まらない。まず、生きるために必要なものはすべて充たしてあげたいということから始まる。

 筆者の現代語訳で見ていこう。

 

 スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。

 「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。

 こう考えた後で、次のような願をなして言う。

 「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の有情もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕かぎりなく接近(隣近・りんごん)するのである。

 

 終わりのところからいくと、「このような布施をしたなら、覚りはもうすぐそこだ」という。

 究極の覚りそしてこの世からの解脱へぎりぎりのところまで接近しながら、向こうの世界・彼岸に行ってしまわず、あえてこの世にとどまるのが菩薩である。漢訳原文で言うと「隣近」するのである。

 あるいは、観音菩薩がそうであると言われるように、実は行ってからもう一度戻ってくるのだと言ってもいい。

 ともかく、菩薩は向こうへ行かない、または行ったきりにならないのである。

 仏は、すべてが一体・空だと覚り切ることになっている。

 すると、救いということが成り立つための三つの要素である救うもの―救われるもの―救いの行為の違い・分離もまったくなくなるわけで、いわば話はそこで終わりになり、救いという行為は成り立たなくなる。

 ところが菩薩は、究極のところは救うも救わないもないということがわかっているのだが、現象としてはやはり救う。

 覚りまでもう一歩というところにあえてとどまり、私と衆生・有情は違うという立場に立って、救うという行為をやり続ける。

 これが大乗仏教のすばらしいところだと思う。覚って、解脱して、向こうに行って、それで終わりではなくて、覚りに限りなく近いところまで行き、しかしきわめて微妙なところでとどまって衆生救済の実践をし続けるのである。

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