「宗教と無神論の対立はすでに終わっている?」
16日(水)、O大学チャペルアワー(礼拝)での講話の原稿です。
聖書 : ヨハネの手紙一 4・12
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです。
今日参加している学生諸君の多くは、特定の宗教を信じていないのではないかと思います。別の言い方でいうと「無宗教」「無神論」なのではないでしょうか。そして、たぶんそれが正しい考え方であり、それは自分で決めた自分の考え方だと思っていると思います。
私は、今日、それに対してちょっと疑問を投げかけたいと思っています。
それは、必ずしもこの大学がキリスト教大学で、この場がチャペルアワーで、諸君にキリスト教に共感を持たせようとか、ましてキリスト教を布教しようという意図から来ているわけではありません。
私は、「信教の自由・思想の自由」ということをとても尊重していますので、もし諸君がほんとうに自分でよく学んで、よく考えたうえで、ほんとうの意味で自分で決めた結論が「無神論」なのならば、それでいいと思っています。
しかし、よく学んで、あるいは調べて、よく考え・検討して、ほんとうの意味で自分で決めたのかどうか、そこが問題なのです。
戦後の日本では、公教育の基本的な考え方は合理・科学主義ですから、はっきり言う言わないは別にして、神話的で迷信的で古い宗教は信じないほうが近代人として正しい、無神論のほうが理性的に正しいのだという教育がなされてきています。
もしかすると、そういう教育でいつの間にかそう思わされて―思ってきたのではないでしょうか
1) 2)。
確かに、キリスト教も含む伝統的宗教には、前近代的・神話的側面もあります。「神」というコンセプトについていうと、「空の上のほうにいる、輝くような白い衣を着て白い長い髯で厳かな声の超能力のお爺さん」というイメージは神話的です。
「神を信じる」というと、どこかにそういう超能力のお爺さんがいると信じ込むことだと思っている人が、キリスト教の内部にも外部にたくさんいるようです。
そしてそういうのが「神」だとすると、それは科学的・合理的には存在することが証明できないどころか、存在しないことが証明できてしまいます。
例えば、地球は丸いことが、もう宇宙船からの写真でまで証明されていますから、空の上は一方向ではありません。地球のあらゆる場所に空の上がありますから、そうすると神さまの居場所もあらゆる方向になければならず、神さまもあらゆる方向にいなければならないことになり、そうすると、一人・単数の神さまではありえなくなります。
そもそも、白い髯の超能力者としての神は、望遠鏡でも顕微鏡でも、その他どんな観測機器でも観測することができません。目には見えないのだとしても、例えば赤外線写真やソナー(音波探知機)などのようなその他の方法で存在を確認することができるかというと、それも不可能でしょう。
科学的に観察・実証できないものは存在しないと考えるのが科学的・理性的だ、というふうに教わりましたね(そういう考え方はむしろ「科学主義的・理性主義的」というべきだと思いますが)。
したがって、科学的・理性的な教育を受けた人間が、科学的・理性的に「神は存在しない」と思う、つまり無神論になるのは当然ですし、そういう科学的無神論と神話的な宗教が対立するのも当然ということになります。
しかし、私は、キリスト教の語っている「神」は、かつてはそうした神話的イメージで語られることが多かったにしても、本質的にはそういうものではない、と考えています。
そのことを非常にはっきり示しているのが、今日の聖書の箇所です。
ここでは、はっきりと「いまだかつて神を見た者はいません」と、神は観察・観測・実証できないと主張されています。その点に関しては、ある意味で近代の科学合理主義・無神論とまったく同じ前提に立っているといってもいいでしょう。
しかし、この文書の著者とされるヨハネは、「だから、存在しない」という結論を導き出してもいません。
といって、これまでキリスト教も含む多くの宗教のように、「見えない・実証できないからこそ、信じるのだ」とも主張していないことに注意してください。
「イワシの頭も信心から」ということわざがよく示しているように、ほんとうは「イワシの頭」にすぎないかもしれないが、信じ込めばそれが輝いて見えてきてご利益をもたらすことがある、というのが宗教だと考えられがちです。
「いるかいないかわからないし、いるという証拠はないが、いると信じれば安心できる」というのが信仰だという考え方です。
しかしヨハネは、まるで角度のちがったことを言っていると思います。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」というのです。
つまり、「人間同士が愛し合うことのなかに神が存在する」というのです。
キリスト教では従来しばしば「神は愛なり」と言われてきましたが、「愛は神なり」と言い換えることもできると思います。
それぞれの人間は、同じく人間という性質をもち、生き物という性質ももち、同じ地球の空気を吸っており、同じ地球の水を飲んでおり、同じ地球の他の生命である植物や動物を食べさてもらって生きており、その地球は同じ一つの太陽系という惑星システムのなかにあり、太陽系は同じ一つの天の川銀河に他の星々と共に存在しており、天の川銀河は同じ一つの宇宙に存在しています。
おおきくまとめて言ってしまえばおのおのの人間は同じ一つの宇宙という全体のそれぞれ部分であるというのは、誰も否定することのできない事実ではないでしょうか
3)。
そこに、私たち人間の連帯・愛の可能性も必然性もある、ということができると思います。
同じ一つの全体の一部同士・部分であることに気づくと、対立し、憎み合い、殺し合う、戦争をするといったことが、いかに宇宙の事実と理にかなわない愚かなことかがわかってきます。
同じ全体の部分同士ならば、認め合う、協力し合う、助け合う、連帯する、愛し合うことが事実に対応した自然なことであることがわかってきます。
そうした宇宙の事実と理に目覚めることこそほんとうの「信仰」だ、と私は捉えています。
そして、そうした目覚めとしての信仰からは、自然・必然的に人間同士の連帯・愛し合うということ生まれてきます。
逆に言えば、
人間同士が連帯・愛し合った時に、そこに宇宙の事実と理が明らかに顕れてくるのです。
そのことを、ヨハネは、「神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」ということばで、つまり神という全体的・超越的な存在が私たち人間の中に存在する、その本質である愛が私たち人間によって実現・完成されていくという事実を表現したのだ、と考えていいでしょう。
こういう理解の仕方においては、「観察・実証できないものは存在しない」という意味での無神論と、「輝く超能力のお爺さん」の存在を根拠不明のまま信じ込むという意味での宗教との対立は超えられています。
言い方を変えると、「観察・実証できないものを信じ込むことはしない」という無神論の妥当な面と、私たち人間を超えた宇宙的な全体・「Something Great・大いなるなにものか」に目覚めるという意味での宗教の本質が統合されていると思われます。
この聖書の文書は、おそらく二世紀ころに書かれていますから、そういう意味でいうと千八百年以上も前に、本質的には宗教と無神論の対立はすでに終わっていた、といってもいいと思います。
しかし、残念ながらキリスト教の歴史を見ると、長い間、神話的な神のコンセプトにこだわってきて、近代では科学と対立するという状態が、まだ十分に克服されておらず、聖書のこうした箇所のような神の理解の仕方がキリスト教の世界全体に行き渡っているとはいえません。
けれども私は、こうした神の理解の仕方こそ、キリスト教のエッセンスであり、それは現代の無神論・無宗教が正しい・いいと思っている諸君にも、ちょっと考え直してみるに価するものだと思っているのですが、どうでしょうか。ぜひ、考えてみて下さい。
*O大学は、チャペルアワーでこうした話をすることができるような「開かれた(=原理主義的ではない)」キリスト教主義大学です。
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