般若経典のエッセンスを語る56――初心の菩薩とよき師

2024年06月20日 | 仏教・宗教

 さて、もう少し先に行って区切りにしたいと思う。

 菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を行ずる時、但だ諸法実相を知る。諸法実相とは無垢無浄なり。是の如く須菩提、菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、当に是知を作すべし、名字は仮の施設なりと。

 つまりさきほど学んだように、「私が」「修行する」とか「私が」「智慧を求める」というのではなく、そうしたことをぜんぶ忘れてしまうという修行の仕方をする。そのときに世界のすべての存在のほんとうの姿がわかってくる。すると、もう完全に一体なので、きれいとかきれいではないなどということを完全に超えてしまう、と。

 特定の価値観に基づいての、きれいとかきれいではないとか、善とか悪とかということを超えてしまうと、世界の姿つまり「諸法」が実にすばらしいものとして見えてくるというのが「諸法実相」という意味である。だから「諸法は空相」なのであるが、世界はすべてが空だとわかると、かえってすべての存在のすばらしさが見えてくる。それを「諸法実相」と表現する。

 だから菩薩・摩訶薩は、すべては空だとわかることによって、かえってすべてがすばらしいということがわかるようになる。そのすべてがすばらしいとわかったことに基づいて、この世をますますすばらしくしようというのが、「仏国土を浄める」ということになって来るわけである。

 繰り返すと、もうこの世はこのままでもすべてすばらしい、諸法実相なのだとわかる。しかし諸法実相というのは固定的なものではないのである。今の姿がありのままでオーケーだという場合、私たちは「ありのまま」ということを固定的に考えるがちだが、ありのままそのものが無常で変化していくものであるから、諸法実相は固定的なものではなくて無常なもの・変化するものである。

 そしてそれをますますすばらしいものにしていく、変化をいい変化にする、しかも宇宙の法則・縁起の理法にかなったかたちに世界の現象をすばらしく変化させていくというのが、菩薩の慈悲の行為・願ということである。

 菩薩・摩訶薩の「摩訶薩・大きな人」とは、どこまで大きいかというと、宇宙と一体化していて宇宙大に大きいから「摩訶薩・大士」という。

 菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行じ、諸法に於て見る所無し。是時、驚かず、畏れず、怖かず、心亦没せず悔いず。

 菩薩・大士が、無分別知つまりバラバラの存在を見ないという修行をすると、バラバラの存在などというものはないのだと覚る。そして、世界をそういうふうに見たからといって、驚いたり、恐れおののいたりしない。

 「ええ? 世界や私は実体ではないのか。実体などどこにもないのか。何かすがる絶対的なものが欲しかったのに、何もないのか」と思ってしまい、恐れたり、おののいたり、心が沈んでうつ状態になったり、「なぜこんな世界に生まれてきたのだ。生まれないほうがよかった」と悔いたり、といったことを菩薩はしないという。

 ところが初心の人は、こういうことを聞いたら、よくわからなくて畏れ、驚き、おののき、心が没したりする。

 そういうことではないのだとちゃんと教えてくれるよき師、ほんものの菩薩・摩訶薩を先生としなければ、空という思想は虚無主義に聞こえかねない。それから如というほうを強調しすぎると、スケールが大きすぎてついていけないと思ったりする。
だからよき師について、「この空というのは虚無でもなんでも全然なくて、それどころか全存在がありのままで、あるいはなるがままに肯定されているということなのだよ」とちゃんと教わる。

 それから「そんなに大きい話、こんなちっぽけな私にはついていけない」というのに対して、「あなたがついていけるかどうかじゃない。あなたの存在そのものが宇宙と一体なので、ついていくもいかないもないのだよ。ついていかなくてもいい。もう生きていれば宇宙と一体なのだから。あなたに必要なのは、宇宙と一体化することではなくて、宇宙と一体化しているのだということに気がつくだけだから」と。そういうことを、いい人について教わる。

 気がつくということは、スケールが大きいか小さいかには関係ない。目を閉じていたら見えないというのは、スケールには関係がない。目を開けたら見えるのである。
例えば大空は広い。しかし、心のスケールが広くても狭くても、目を開ければ誰でもその広い空が見えてしまう。

 それと同じで、「私と宇宙が一体だ」というのは事実だから、「私は、そこまで覚れるほど人間が大きくない」といったことを思う必要はない。もともとあなたの存在そのものが宇宙と一体なのであるから、「もう好きでもいやでも一体なのだ」ということをちゃんと教えてくれる先生につくと、これはスケールの大きすぎる話でもなければ、あまりにも個別性を超えていて虚しくなってしまう話でもないということが教われる。

 今、なかなかそういうよき師には出会いにくいかもしれないが、『摩訶般若波羅蜜経』のある個所に、「まさにこれ(『摩訶般若波羅蜜経』)が存在することが、仏が存在することだ」という言葉がある。『摩訶般若波羅蜜経』は即それがブッダなのだ、私たちが読めば、もう生けるブッダに語っていただいたのと同じことを読み取れるのだ、と。

 そのはずなのだが、残念ながら書き下しであっても漢訳は、慣れていない現代日本人は解説してもらう必要がある。
 幸い、全貌ではないが般若経典の重要なところは完全な現代語訳がある。しかし、現代語訳を読み解説を受けても、そこをちゃんとわかっている人に解説してもらわないと、やはり「何かすごく高尚で深そうだけれど、私にはわからない」ということで終わってしまうので、とてももったいないと筆者は思ってきた。

 私としてはとりあえず・かなりわかったつもりなので、私が般若経典のエッセンスだと思うところを、「私には大きすぎる話でとても」とか「え、私と思っているものは実体じゃないの?」といってへこんだりしないかたちでみなさんにお伝えしたいと思い、「般若経典のエッセンスを読む」という講座を開設し、それを元に原稿化しているというわけである。

 約半分が終わり、次回からは、般若経典は-大乗において最も中心的で有名な「空」とはどういうことなのか、テキストそのものにはどう書いてあるか、それをどう説明・解説できるかということを学んでいく。

 『摩訶般若波羅蜜経』の中には、「空とはこういうことだ」とかなり長く書いてある箇所があるのだが、読んだだけではわからないと思われるので、解説をしながら「空とはこういうことだ」と理解を共有していきたい。

 ただ、理解することは入り口に過ぎない。理解したことから覚るというところまで行くには、理解し納得して、本気で禅定をし、六波羅蜜を行なう必要がある。そうすると、やがてたとえわずかでも覚りが起こる、というプロセスになっていく。そういうことを、以下また続けて学んでいきたいと思う。

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般若経典のエッセンスを語る55――すべてはつながり・合わさってできている

2024年06月01日 | 仏教・宗教

 さて、次を見ていこう。くどいくらい繰り返し「言葉や単語を使ってものを見るから実体と思えるのだが、よく見るとそうではない」ということが語られている。

 須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 個別的存在としての「私」という単語がある。「私」という単語があると、その単語で私を実体視するようになる。
 この私の心身は現象としてはある。しかし、赤ん坊は、そういう心身の現象を「私」とは思っていないように見える。
 そういう赤ん坊に対して、母親が繰り返し「~ちゃん、~ちゃん」と固有名詞で呼びかける。呼びかけ・声かけを続けていると、やがて赤ん坊は「~ちゃん」と言われたら反応し始める。つまり「~ちゃんがいる」と思い始めるのである。
 そして次は、代名詞である「私」とか「あなた」とかという言葉を学習していき、するとやがて「~ちゃん」の他に「アタチ」などの言葉を使うようになる。

 例えば親との縁で生まれてきて、食べ物との縁や水との縁などいろいろなものとの縁のおかげつまり「和合の故に」、私という現象・私が生きているという現象があるのだが、それを「私」という名前で呼ぶと、実体としての私がいるような気がしてくるのである。

 ところが、この「我(が)」という名前そのものは実体的に存在しておらず、ただ仮にこの世間では他のもの(者、物)と区別をするために「私」や「あなた」と呼ぶのだ、と。
 それが区別にとどまっている間はいいのだが、「私」「あなた」と繰り返しているとそれに伴って「私とあなたは分離している」という錯覚が生まれてしまう。
 つまり、言葉というものは、それがければものごとの区別がつかないので必要なのだが、同時に分離意識をももたらすものである。

 とはいっても、世界の中には名詞と動詞が分節していないという不思議な言語が少数あるという。あえてそれを日本語で表現すると、名詞と動詞で「私が/話す」ではなくて、例えば「話している私」「私が話している」ということが一つの言葉・一つのまとまりで表現されるそうである。

 特にアイヌ語がかなりそうらしい。そして、アイヌの人たちは他者や自然との一体感・つながり感の非常に強い民族である。それは彼らの言葉自体が、大和言葉のように「誰が」「何をして」と分節しない傾向があるからだと言えるのではないだろうか。

 しかし大和言葉もかなり曖昧で、例えば「行く?」とか言ったら、主語がなくてもわかる。「行く?」「行く」と言ったら、主語なしに「あなたは行きますか?」「私は行きます」という意味で通じてしまう。英語では必ず主語述語が必要であるが、日本語は時々主語がなくても話が通じてしまう。そういう意味では分離感が西洋語よりは曖昧な言葉であるが、もっと分離感のない言葉が世界の中に少しあるようである。

 先に言ったようにアイヌ語がそうらしく、アイヌの方たちに会う機会があって確かめたら、やはりそうだとのことで、アイヌ語で話しているときと日本語で話しているときとでは、かなり自然や自分についての感覚が違うとのことだった。 

 それは、ともかく、私たち人間はいちおうものごとに区別をつけて社会生活を営むため、つまり世間の実用的な目的のために言葉を使って区別をしたのだと思われる。ところが、こうして区別したことが無意識の中にすべてしっかりと溜まってしまい、そういういわば分離意識のシステムであるすべてを見るというふうになってしまっている。

 それに対して、いろいろな言葉を挙げていきながら、「これは仮に世間的な約束事で、言葉でそう呼んでいるけれども、あくまでも和合・つながりによってすべての事柄が起こっているのであって、それは実体ではない」ということを縷々何頁にもわたって述べているのが、この「三仮品第七」という個所である。

 それから、次は締めのような言葉である。

 譬へば夢、響、影、幻、燄、仏の化する所の如き皆是れ和合の故に有り、但だ名字を以て説くのみ

 例えば夢が実体でないことは明らかである。非常によくわかるのは響きである。響きは関係の中で響き・音となっている。また影は光と何かとの関係できる。幻もそういう実体がないけれども現われている。炎は熱と燃料の関係で現われているわけである。それから仏が現象として現われるのが「化する」ということである。
 これらはいずれも、いろいろなものが組み合わさりつながって、つまり和合して形を現しているだけで、それ自体で存在しているのではない。

 例えば木を考えてみよう。木というものは、先祖からの遺伝子の信号―情報や、それから土中の窒素・リン酸・カリや、大気中のCO2や、太陽のエネルギーや、海から上がり雲になって降る水分や……といったきわめてたくさんのものとのつながりが、いわばここで一つの結び目を作っている。

 もう少しシンプルには、いくつもの線を交錯させた図を考えてみよう。縦の線、横の線、斜めの線が交わると、そこに「結び目」というものがあるように見えてくる。
 しかし、これは結び目が「ある」というより、いくつかの線が一点で交わり・和合しているから、そこに「結び目」があるように見えているのである。そう見えているのはまったくの間違いではないのだが、「結び目そのもの」があるのではなくて、いろいろな縁がそこに「結び目を見せている」ということである。
 私たちは例えば木というものを実体だと思うけれども、それは水やエネルギー、炭素、遺伝子情報といったいろいろなものの結び目として木という現象が起こっているということであり、もちろんそれは私もそうだ、と。

 他のものの話はともかく、「あなたも実体ではない」と言われると、「え、私も実体じではないのか?」と、急に寂しくなったり怖くなったりすることが初心の菩薩にあるということがはっきりと書いてあって、なかなか懇切丁寧だなと思う。

 しかしそのときにちゃんとした指導者についていると、「それはあなたがいないとか、あなたは虚無だとかいうのではなくて、あなたは現象だということだよ。現象だけれども、現象としてはありありと現われていて、その現象は実は空・一如の、現代風に言うと宇宙と一体で宇宙の一部の一時的な現象として現われている。だからあなたは実体ではないし永遠ではないけれど、その元になっている空の世界・宇宙の世界はある種永遠の世界だから、あなたの本質は永遠である」と教えてもらえる。現象としての私は無常であり、その無常な私を無常ではないと思おうとしたらそれは無理が来るけれども、無常を無常と認めても、私のいちばん根本のところはむしろ無常ではないのだ、と。

 そこがわかるには、いちおう個別的存在である私は無常なのだ、現象なのだ、ということも一度わかる必要があるのだ。私が実体でありたいという気持ちを強く持っていて、それに対して「実体ではない」と言われると、がっかりしたり、寂しくなったり、辛くなったり、虚無的になったりするのであるが、ちゃんといい先生について学ぶと、わかり、やがて覚ることができて、そのほうがかえってこだわり・執着がなくなるのだという。

 そうするとかえって、とても気持ちよくすがすがしく生きて死ぬようになる。人生の結論は必ず死ぬのであるから、幸せに暮らしたけれど、最期その幸せな暮らしをぜんぶ捨てて死ななければいけないのでとても辛い気持ちで死ぬよりは、爽やかに生きて爽やかに死ぬほうが、まちがいなく質の高い人生になるはずである。

 そのためにとにかく私たちは一度まず、爽やかに生きるだけではなくて爽やかにも死ねる根拠としての縁起の理法ということ、空ということを覚る必要があるというのである。

 すなわち空は虚無とは実はまったく別のことである。残念ながら日本では仏教の内部でも外部でも、空ということが「無」「無常」という言葉と合わさりながら、何かとても悲しくて、下手をすると虚無的な思想だというふうに誤解されがちだったけれども、そこのところはちゃんと経典に書いてあるので私が強調したいと思っているのは、空とは空でおしまいではなくて、実は如・一如ということなのだ、現代風に言うと「私と宇宙が一体だ」ということである。

 この私の本質は、生まれる前も宇宙だし、生まれて形が現われている今も宇宙だし、死んでからも宇宙だから、「宇宙がほんとうの私だ」と思えてしまえば、この私が生きて死ぬということは。大騒ぎしなくてもいいことであり、非常に軽やかで爽やかなものとして捉えられる。今は生きているのだからちゃんと生きればいいのである。そして、死ぬときが来れば死ねばいい。そういうふうになれる、そのほうがむしろほんとうだし、いいのだ、ということを教えてくれるのが仏教である。

 最近、筆者は「だから、きわめてクオリティの高い人生の送り方を根本から教えてくれるという意味で、仏教はとてもポジティヴな思想なのです」と強調するようにしている。

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