さて、もう少し先に行って区切りにしたいと思う。
菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を行ずる時、但だ諸法実相を知る。諸法実相とは無垢無浄なり。是の如く須菩提、菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、当に是知を作すべし、名字は仮の施設なりと。
つまりさきほど学んだように、「私が」「修行する」とか「私が」「智慧を求める」というのではなく、そうしたことをぜんぶ忘れてしまうという修行の仕方をする。そのときに世界のすべての存在のほんとうの姿がわかってくる。すると、もう完全に一体なので、きれいとかきれいではないなどということを完全に超えてしまう、と。
特定の価値観に基づいての、きれいとかきれいではないとか、善とか悪とかということを超えてしまうと、世界の姿つまり「諸法」が実にすばらしいものとして見えてくるというのが「諸法実相」という意味である。だから「諸法は空相」なのであるが、世界はすべてが空だとわかると、かえってすべての存在のすばらしさが見えてくる。それを「諸法実相」と表現する。
だから菩薩・摩訶薩は、すべては空だとわかることによって、かえってすべてがすばらしいということがわかるようになる。そのすべてがすばらしいとわかったことに基づいて、この世をますますすばらしくしようというのが、「仏国土を浄める」ということになって来るわけである。
繰り返すと、もうこの世はこのままでもすべてすばらしい、諸法実相なのだとわかる。しかし諸法実相というのは固定的なものではないのである。今の姿がありのままでオーケーだという場合、私たちは「ありのまま」ということを固定的に考えるがちだが、ありのままそのものが無常で変化していくものであるから、諸法実相は固定的なものではなくて無常なもの・変化するものである。
そしてそれをますますすばらしいものにしていく、変化をいい変化にする、しかも宇宙の法則・縁起の理法にかなったかたちに世界の現象をすばらしく変化させていくというのが、菩薩の慈悲の行為・願ということである。
菩薩・摩訶薩の「摩訶薩・大きな人」とは、どこまで大きいかというと、宇宙と一体化していて宇宙大に大きいから「摩訶薩・大士」という。
菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行じ、諸法に於て見る所無し。是時、驚かず、畏れず、怖かず、心亦没せず悔いず。
菩薩・大士が、無分別知つまりバラバラの存在を見ないという修行をすると、バラバラの存在などというものはないのだと覚る。そして、世界をそういうふうに見たからといって、驚いたり、恐れおののいたりしない。
「ええ? 世界や私は実体ではないのか。実体などどこにもないのか。何かすがる絶対的なものが欲しかったのに、何もないのか」と思ってしまい、恐れたり、おののいたり、心が沈んでうつ状態になったり、「なぜこんな世界に生まれてきたのだ。生まれないほうがよかった」と悔いたり、といったことを菩薩はしないという。
ところが初心の人は、こういうことを聞いたら、よくわからなくて畏れ、驚き、おののき、心が没したりする。
そういうことではないのだとちゃんと教えてくれるよき師、ほんものの菩薩・摩訶薩を先生としなければ、空という思想は虚無主義に聞こえかねない。それから如というほうを強調しすぎると、スケールが大きすぎてついていけないと思ったりする。
だからよき師について、「この空というのは虚無でもなんでも全然なくて、それどころか全存在がありのままで、あるいはなるがままに肯定されているということなのだよ」とちゃんと教わる。
それから「そんなに大きい話、こんなちっぽけな私にはついていけない」というのに対して、「あなたがついていけるかどうかじゃない。あなたの存在そのものが宇宙と一体なので、ついていくもいかないもないのだよ。ついていかなくてもいい。もう生きていれば宇宙と一体なのだから。あなたに必要なのは、宇宙と一体化することではなくて、宇宙と一体化しているのだということに気がつくだけだから」と。そういうことを、いい人について教わる。
気がつくということは、スケールが大きいか小さいかには関係ない。目を閉じていたら見えないというのは、スケールには関係がない。目を開けたら見えるのである。
例えば大空は広い。しかし、心のスケールが広くても狭くても、目を開ければ誰でもその広い空が見えてしまう。
それと同じで、「私と宇宙が一体だ」というのは事実だから、「私は、そこまで覚れるほど人間が大きくない」といったことを思う必要はない。もともとあなたの存在そのものが宇宙と一体なのであるから、「もう好きでもいやでも一体なのだ」ということをちゃんと教えてくれる先生につくと、これはスケールの大きすぎる話でもなければ、あまりにも個別性を超えていて虚しくなってしまう話でもないということが教われる。
今、なかなかそういうよき師には出会いにくいかもしれないが、『摩訶般若波羅蜜経』のある個所に、「まさにこれ(『摩訶般若波羅蜜経』)が存在することが、仏が存在することだ」という言葉がある。『摩訶般若波羅蜜経』は即それがブッダなのだ、私たちが読めば、もう生けるブッダに語っていただいたのと同じことを読み取れるのだ、と。
そのはずなのだが、残念ながら書き下しであっても漢訳は、慣れていない現代日本人は解説してもらう必要がある。
幸い、全貌ではないが般若経典の重要なところは完全な現代語訳がある。しかし、現代語訳を読み解説を受けても、そこをちゃんとわかっている人に解説してもらわないと、やはり「何かすごく高尚で深そうだけれど、私にはわからない」ということで終わってしまうので、とてももったいないと筆者は思ってきた。
私としてはとりあえず・かなりわかったつもりなので、私が般若経典のエッセンスだと思うところを、「私には大きすぎる話でとても」とか「え、私と思っているものは実体じゃないの?」といってへこんだりしないかたちでみなさんにお伝えしたいと思い、「般若経典のエッセンスを読む」という講座を開設し、それを元に原稿化しているというわけである。
約半分が終わり、次回からは、般若経典は-大乗において最も中心的で有名な「空」とはどういうことなのか、テキストそのものにはどう書いてあるか、それをどう説明・解説できるかということを学んでいく。
『摩訶般若波羅蜜経』の中には、「空とはこういうことだ」とかなり長く書いてある箇所があるのだが、読んだだけではわからないと思われるので、解説をしながら「空とはこういうことだ」と理解を共有していきたい。
ただ、理解することは入り口に過ぎない。理解したことから覚るというところまで行くには、理解し納得して、本気で禅定をし、六波羅蜜を行なう必要がある。そうすると、やがてたとえわずかでも覚りが起こる、というプロセスになっていく。そういうことを、以下また続けて学んでいきたいと思う。