そこで次に、これまでなぜとまらなかったか、私の推測をお話しします。
まず日本について言えば、政治家、官僚、経済人の多数、つまり社会のある意味で主流にある方たちは、多くの市民のみなさんと同様、これまで紹介したようなデータをいちおうは見てはおられる(?)ものの、まさに「成長の限界」はもはや遠い未来のことではなく現実の問題になっていることを理解するところまで突き詰めて読み取っておられないように思えるのですが、どうでしょうか。
ですから、いろいろな政党の政策課題を見ると、8番目とか10番目とかぐらいに環境と出てくるのだと思います(ごく最近は少しましになりましたが)。
警告から35年あまりたった今でも、日本には環境の問題を最優先課題にしている有力政党が一つもありません(みどりの会議も前回の参院選で議席がゼロになり、代表の中村敦夫氏は政界を引退しました。)
学者やマスコミ関係者のみなさんは、警告、批判、問題提起はすごくするのですが、それでとどまってしまいがちです。もちろんねばり強く長年市民運動に関わってきた方もいらっしゃいますが、運動に関わらず客観的な立場を保って、学者として冷静な知識や認識をお伝えする、警告するという姿勢を堅持する学者さんが多いようです。
そして市民は何をしているかというと、ほとんどが「みじかなできることからする」というスタイルのリサイクルやネットワーキングや、場合によって批判や抗議行動です。
これはつまり、日本では、持続可能な社会を創造することを本気で最優先課題とする人やそういう集団が社会の主導権を握っていないということです。それは、ただ主導権を握れなかったというだけでなく、握ろうというしっかりとした意思がなかったからだ、と私は見ています。
これは、スウェーデンやその他の北欧諸国に比べて、あまりにも大きな違いです。前回も述べたように、スウェーデンは政府=国家が主導して「エコロジカルに持続可能な社会」を目指しているのです。
なぜそういうことになったのかというと、70年までの日本の革新運動、市民・学生運動が70年で大きな挫折を体験し、そのまま回復していないということがあるでしょう。
それ以後、心ある市民ほど、政治不信というか、深刻な政治・運動・組織アレルギーに陥っていると思います。
多くの市民は、本格的に大きな運動や組織を立ち上げることをきわめて嫌って、ネットワーキング方式で一生懸命いいことをやってきたのですが、決して本気で政治・経済の主導権を握ろうとはしてこなかったように見えます。
しかしこのことは、あえて言うと、日本の民主主義がきわめて未成熟だということを表わしていると思います。
今さら言う必要もないほどのことですが、デモクラシーの原語のギリシャ語は「デーモス・クラティア」です。「クラティア」というのは権力ということです。民主主義というのは、「市民が権力を握る」ということです。民主主義、「人民が主になる」というと言い方がソフトになってしまいますが、本来の民主主義は「市民が権力を握る」、「市民の代表が責任をもって権力をになう」ということです。
日本国憲法の前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」となっています。
つまり国の政治というものは、①国民に信託された「国民の代表者」が②「国民の福祉のために」③「権力を行使する」ものだ、ということです。この3つの要素のどれが欠けても、政治は歪んでいきます。
そして、現在の日本の市民――はっきり「国民」という言葉を使うのに抵抗があり、こういう言い方になりがちなところにすでに大きな問題が潜んでいると思いますが――というより、「国民」の多くが忘れていることは、①②を大前提として、しかしはっきり③がなければ、国政=国全体の政治は動かないということです。
国政レベルの対策なしに、環境問題が解決するとは思えません。さらに国レベルの対策さえできないのに、地球環境全体の悪化がとめられることはありえないでしょう。
それに対し、まず国政レベルの政策が実施され解決に向かいつつあり、さらに世界全体に影響力を及ぼそうとしているのがスウェーデンです。
しかし、今日本のいわば良識派の市民=国民は「権力をもつとすぐ腐敗するのだ」と思い込んでいて、「権力は握らないほうがいい、権力に対して絶えず距離をおいて、いつも批判的な立場で抗議行動をする」というスタイルをとります。そして、ネットワークを広げているとそのうち世の中がよくなるのではないかと思って35年やってきたけれども、よくならなかったのです。少なくとも、こと環境についてはよくなっていない、と先にあげたデータを元に私は思います。
つまり、心ある国民が、国民の代表として、国民の利益のために、権力を握るということをはっきりと自覚的に課題にしなければ、先に進めないのです。
政治・運動アレルギーを克服しないかぎり、日本人は先に進めません。
ところが、戦前から戦後にかけて、一貫してデモクラシーを成熟させ続けてきたスウェーデンでは、「ほとんど腐敗しない権力」が実現されているようです(岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書、参照)。そういう事実をよく学ぶことによって、日本人の政治アレルギーも克服できるのではないか、と私は期待しています。
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