環境問題と心の成長 2
今、私たちの生きている地球全体は、15,6六世紀から始まった西欧の近代文明の圧倒的な影響下にあることはまちがいありません。
いわゆる「環境問題」も西欧の近代産業文明がもたらした最大の問題だと見ることができると思います。
古代文明の興亡
しかしある意味での「環境問題」は、近代になって初めて起こったことではありません。
自らの基盤である環境を破壊し自ら滅びていった古代文明がいくつもあったことは確かです。「文明の後には砂漠が残る」という言葉もあるほどで、かつて4大文明と呼ばれたメソポタミア、エジプト、インダス、黄河のどの地域も今は砂漠地帯です。
「文明」に似た言葉「文化」がカルチャー(culture)の訳語であり、カルチャーは農耕と語源が同じであることはよく知られています。
農耕をベースにした古代文明は、森林から建築の材料と燃料を得ることによって都市を形成するというかたちで成り立っていました。
農耕には水が必要ですが、その水も降った雨が森林に一定期間保存されてからゆっくりと蒸発して雲になり雲が雲を呼んでまた雨になるという水循環のメカニズムによって保障されていたようです。
つまり、文明のベースであった農耕のさらにベースには森林があったのです。
ところが、都市文明による伐採・利用が森林の再生能力を超えてしまうと、降った雨は蓄えられることなく一気に蒸発してしまい大地と空の間の水循環が途絶えて地域が砂漠化し、農耕そのものが不可能になり、また材木も薪もなくなって、文明は滅んだ、というパターンが多いようです。
(詳しく言えば個々の文明のケースごとにもっと多様で複雑な要因がからんでいますし、安田喜憲氏の本のタイトルを借りれば『森を守る文明・支配する文明』〔PHP新書〕どちらもあったわけですが)。
しかし、例えばそうしたメカニズムで特定の大文明が滅びても、そのことから他の大文明が学んで持続可能な文明を形成したかというと、そうではなかったようです。大文明は過去から学ぶことなく、繰り返し興っては滅亡しているように見えます。
そういう意味で言えば、環境問題、というより環境破壊とその結果としての文明の崩壊は人間の業(カルマ)なのかもしれませんし、『平家物語』ふうに言えば「盛者必衰のことわり」を現わしていると見ることもできそうです。
とはいっても、古代の大文明と現代の西欧近代文明のケースには決定的な違いが2つあると思います。
地球全体の問題
その第1は、これまでの文明の崩壊は地域限定的なものであり、ある文明が滅びても他の文明が栄えるというかたちになっていて、人類全体が滅びる危険はなかったが、現代の西欧文明はグローバリゼーションという言葉が示すとおり世界全体を覆おうとしており、現代の「環境問題」は地球的な規模で起こっている「地球環境問題」であって、誰も「対岸の火事」のように安全圏で傍観しているわけにはいかない、ということです。
そのことは、環境問題の中でも今特に話題になっている「温暖化」を取り上げても明らかです。「温暖化」もまた「地球温暖化」であって、例えば「特定日本という国がたまたま今年異常に暑い」というだけの話ではありません。
日本のことを言えば、確かに今年(2007年)の夏は猛暑で、8月17日、2個所で最高気温が40.9度と74年ぶりに記録を更新したと報道されました。この温度は聞いただけでも目がまわりそうです。
しかし、これは日本だけのことではありません。その前後、ギリシャでは48度、イランでは50度近い猛暑だというニュースも流れていました。
日本でも海外でも熱中症でなくなる人が多数出ています。
前回、今春のIPCCの警告をご紹介しましたが、そこで2020年代のこととして予測・警告されていた事項のうち「洪水と暴風雨の被害が増える」や「熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える」という項目は20年代どころか早くも的中し現実のものになっているようです。
例えば、8日、AFPによれば、「モンスーンによる豪雨から発生し、南アジアを襲った近年最悪の洪水による死者の数が、9日現在で2千人を超えた。……数千の村がいまだに水没したままとなっており、伝染病の被害に脅かされている。また、農作物にも深刻な被害が出たインドやバングラディッシュを中心に、数百万人が依然として避難生活を余儀なくされている」とのことです。
また、8月13日の毎日新聞は、「北朝鮮の西海岸地域を中心に8月6日から豪雨が続き、平壌を含む全国各地で洪水などの被害が拡大している。……」と報道しています。
また、17日の朝日新聞によれば、「海洋研究開発機構と宇宙航空研究開発機構は、16日、衛星で観測した北極海の海氷面積が史上最小になったと発表した。……海氷の減少は地球温暖化を加速する原因にもなる。……今回観測された海氷の減少は、今春に発表された『気候変動に関する政府間パネル(IPCC)』の予測よりも30年以上も進行が早い」とのことでした。
少ない頁数の中で、読者もすでにニュースでご存知のことをあえていくつか並べたのは(挙げればもっとたくさんあります)、個々のニュースとして報道されていることは実際には個々別々の出来事というより地球全体を覆う気候変動という一つの大きな現象の一部であることであることを読み取っていただきたいからです。
こうした温暖化を含む地球環境問題は、仏教用語で言えば、個々人の「業」ではなく、人類の「共業(ぐうごう)」だと捉えられるでしょう。
したがって、「私個人の行為(業)の結果ではないので私には関係ない。なぜ、私がその報いを受けなければならないのか。なぜ、私が責任を取らなければならないのか」と言って逃れることはできない事態であって、私たちはいやおうなしに巻き込まれ関係しているのです。
認識と対処の可能性
違いの第2は、古代の人々には環境の崩壊が必然的に文明の崩壊をもたらすというメカニズムがわかっていなかったので、有効な対策を打つことができなかったが、現代の私たちは――学びさえすれば――環境と文明の関係のメカニズムを認識することができるので、本気で取り組めば適切に対処できる可能性はある、ということです。
古代文明時代の人々にとって、自然はあまりにも偉大で人間活動で壊すことができるようなものだとは思われなかったことでしょう。
森林は自然に存在するもので、切っても切ってもまた自然に再生するものであり、尽きることのない無尽蔵の宝庫だと過信・錯覚していたのではないでしょうか。
しかし現代の科学とりわけ生態学(エコロジー)は、地球上の自然は環境=非生命と多様な生命が絶妙なしかしある面実に危ういバランスを取り合うことによって成り立っていることを明らかにしています。
自然資源は無尽蔵ではなく有限であり、自然の再生力も浄化能力も有限であることは、もはや疑いようもないことです。
ところで、西欧の近代文明は科学技術の進歩と産業の発展によって大量生産と大量消費を可能にし、人類がこれまで経験したことのないほど豊かな社会を形成してきました。
しかし、1つの問題は、大量生産―大量消費の前提は、自然資源の大量消費だったことです。
人間社会での大量消費が永続するためには自然資源が無尽蔵でなければなりませんが、実は有限だったのです。
もう1つの問題は、大量生産の過程でも大量消費の過程でも大量の廃棄物が出ることです。
大量廃棄を続けることができるためには自然の浄化能力が無限でなければなりませんが、実際には有限です。
大量生産―大量消費によって豊かな社会を形成するという近代文明のシステムは、実は始めから入口のところで自然資源の有限性、出口のところで自然の浄化能力の有限性という限界を抱えていたのですが、人間活動の規模がまだそれほど大きくなく自然が無限であるかのように見えた時代には、そのことがまったく自覚されていなかったようです。
また、残念ながらいまだに自覚していない、またはしたくない人も多いようですが、事実として地球は有限です。
近代産業文明の推進者たちが、有限な地球上で無限の経済成長が可能だと錯覚してきたところに、地球環境問題の根本的な原因がある、と私は考えていますが、読者はどうお考えでしょうか。
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