環境問題と心の成長 2

2009年06月30日 | 持続可能な社会

   環境問題と心の成長 2
 

                 
 今、私たちの生きている地球全体は、15,6六世紀から始まった西欧の近代文明の圧倒的な影響下にあることはまちがいありません。

いわゆる「環境問題」も西欧の近代産業文明がもたらした最大の問題だと見ることができると思います。


 古代文明の興亡

 しかしある意味での「環境問題」は、近代になって初めて起こったことではありません。

 自らの基盤である環境を破壊し自ら滅びていった古代文明がいくつもあったことは確かです。「文明の後には砂漠が残る」という言葉もあるほどで、かつて4大文明と呼ばれたメソポタミア、エジプト、インダス、黄河のどの地域も今は砂漠地帯です。

 「文明」に似た言葉「文化」がカルチャー(culture)の訳語であり、カルチャーは農耕と語源が同じであることはよく知られています。

 農耕をベースにした古代文明は、森林から建築の材料と燃料を得ることによって都市を形成するというかたちで成り立っていました。

 農耕には水が必要ですが、その水も降った雨が森林に一定期間保存されてからゆっくりと蒸発して雲になり雲が雲を呼んでまた雨になるという水循環のメカニズムによって保障されていたようです。

 つまり、文明のベースであった農耕のさらにベースには森林があったのです。

 ところが、都市文明による伐採・利用が森林の再生能力を超えてしまうと、降った雨は蓄えられることなく一気に蒸発してしまい大地と空の間の水循環が途絶えて地域が砂漠化し、農耕そのものが不可能になり、また材木も薪もなくなって、文明は滅んだ、というパターンが多いようです。

 (詳しく言えば個々の文明のケースごとにもっと多様で複雑な要因がからんでいますし、安田喜憲氏の本のタイトルを借りれば『森を守る文明・支配する文明』〔PHP新書〕どちらもあったわけですが)。

 しかし、例えばそうしたメカニズムで特定の大文明が滅びても、そのことから他の大文明が学んで持続可能な文明を形成したかというと、そうではなかったようです。大文明は過去から学ぶことなく、繰り返し興っては滅亡しているように見えます。

 そういう意味で言えば、環境問題、というより環境破壊とその結果としての文明の崩壊は人間の業(カルマ)なのかもしれませんし、『平家物語』ふうに言えば「盛者必衰のことわり」を現わしていると見ることもできそうです。

 とはいっても、古代の大文明と現代の西欧近代文明のケースには決定的な違いが2つあると思います。


 地球全体の問題

 その第1は、これまでの文明の崩壊は地域限定的なものであり、ある文明が滅びても他の文明が栄えるというかたちになっていて、人類全体が滅びる危険はなかったが、現代の西欧文明はグローバリゼーションという言葉が示すとおり世界全体を覆おうとしており、現代の「環境問題」は地球的な規模で起こっている「地球環境問題」であって、誰も「対岸の火事」のように安全圏で傍観しているわけにはいかない、ということです。

 そのことは、環境問題の中でも今特に話題になっている「温暖化」を取り上げても明らかです。「温暖化」もまた「地球温暖化」であって、例えば「特定日本という国がたまたま今年異常に暑い」というだけの話ではありません。

 日本のことを言えば、確かに今年(2007年)の夏は猛暑で、8月17日、2個所で最高気温が40.9度と74年ぶりに記録を更新したと報道されました。この温度は聞いただけでも目がまわりそうです。

 しかし、これは日本だけのことではありません。その前後、ギリシャでは48度、イランでは50度近い猛暑だというニュースも流れていました。

 日本でも海外でも熱中症でなくなる人が多数出ています。

 前回、今春のIPCCの警告をご紹介しましたが、そこで2020年代のこととして予測・警告されていた事項のうち「洪水と暴風雨の被害が増える」や「熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える」という項目は20年代どころか早くも的中し現実のものになっているようです。

 例えば、8日、AFPによれば、「モンスーンによる豪雨から発生し、南アジアを襲った近年最悪の洪水による死者の数が、9日現在で2千人を超えた。……数千の村がいまだに水没したままとなっており、伝染病の被害に脅かされている。また、農作物にも深刻な被害が出たインドやバングラディッシュを中心に、数百万人が依然として避難生活を余儀なくされている」とのことです。

 また、8月13日の毎日新聞は、「北朝鮮の西海岸地域を中心に8月6日から豪雨が続き、平壌を含む全国各地で洪水などの被害が拡大している。……」と報道しています。

 また、17日の朝日新聞によれば、「海洋研究開発機構と宇宙航空研究開発機構は、16日、衛星で観測した北極海の海氷面積が史上最小になったと発表した。……海氷の減少は地球温暖化を加速する原因にもなる。……今回観測された海氷の減少は、今春に発表された『気候変動に関する政府間パネル(IPCC)』の予測よりも30年以上も進行が早い」とのことでした。

 少ない頁数の中で、読者もすでにニュースでご存知のことをあえていくつか並べたのは(挙げればもっとたくさんあります)、個々のニュースとして報道されていることは実際には個々別々の出来事というより地球全体を覆う気候変動という一つの大きな現象の一部であることであることを読み取っていただきたいからです。

 こうした温暖化を含む地球環境問題は、仏教用語で言えば、個々人の「業」ではなく、人類の「共業(ぐうごう)」だと捉えられるでしょう。

 したがって、「私個人の行為(業)の結果ではないので私には関係ない。なぜ、私がその報いを受けなければならないのか。なぜ、私が責任を取らなければならないのか」と言って逃れることはできない事態であって、私たちはいやおうなしに巻き込まれ関係しているのです。


 認識と対処の可能性

 違いの第2は、古代の人々には環境の崩壊が必然的に文明の崩壊をもたらすというメカニズムがわかっていなかったので、有効な対策を打つことができなかったが、現代の私たちは――学びさえすれば――環境と文明の関係のメカニズムを認識することができるので、本気で取り組めば適切に対処できる可能性はある、ということです。

 古代文明時代の人々にとって、自然はあまりにも偉大で人間活動で壊すことができるようなものだとは思われなかったことでしょう。

 森林は自然に存在するもので、切っても切ってもまた自然に再生するものであり、尽きることのない無尽蔵の宝庫だと過信・錯覚していたのではないでしょうか。

 しかし現代の科学とりわけ生態学(エコロジー)は、地球上の自然は環境=非生命と多様な生命が絶妙なしかしある面実に危ういバランスを取り合うことによって成り立っていることを明らかにしています。

 自然資源は無尽蔵ではなく有限であり、自然の再生力も浄化能力も有限であることは、もはや疑いようもないことです。

 ところで、西欧の近代文明は科学技術の進歩と産業の発展によって大量生産と大量消費を可能にし、人類がこれまで経験したことのないほど豊かな社会を形成してきました。

 しかし、1つの問題は、大量生産―大量消費の前提は、自然資源の大量消費だったことです。

 人間社会での大量消費が永続するためには自然資源が無尽蔵でなければなりませんが、実は有限だったのです。

 もう1つの問題は、大量生産の過程でも大量消費の過程でも大量の廃棄物が出ることです。

 大量廃棄を続けることができるためには自然の浄化能力が無限でなければなりませんが、実際には有限です。

 大量生産―大量消費によって豊かな社会を形成するという近代文明のシステムは、実は始めから入口のところで自然資源の有限性、出口のところで自然の浄化能力の有限性という限界を抱えていたのですが、人間活動の規模がまだそれほど大きくなく自然が無限であるかのように見えた時代には、そのことがまったく自覚されていなかったようです。

 また、残念ながらいまだに自覚していない、またはしたくない人も多いようですが、事実として地球は有限です。

 近代産業文明の推進者たちが、有限な地球上で無限の経済成長が可能だと錯覚してきたところに、地球環境問題の根本的な原因がある、と私は考えていますが、読者はどうお考えでしょうか。



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環境問題と心の成長 1

2009年06月29日 | 持続可能な社会

*以下は曹洞宗大本山永平寺の『傘松(さんしょう)』誌に連載したものです。、より多くの方に読んでいただきたく、了承を得て、若干訂正を加えて転載するものです。今後徐々に掲載していきたいと思っています。


   環境問題と心の成長 1


 はじめに

 原稿を書きはじめた7月15日(2007年)、大型の第4号台風が多くの被害を残して去っていきました。翌日、7月にこんなに大きな台風が来るのは戦後初めてであり、台風の大型化は地球温暖化によるものだ、と新聞に報道されていました。

 振り返ると、この冬は「記録的暖冬」で、1月に埼玉県でモンシロチョウが飛び、2月に家の近所ではサザンカと一緒にツツジが咲き、3月にはニュースで静岡でクワガタが動き出したといっていました。数年前(?)から繰り返し「記録的~」と報道されています。「記録的猛暑」、「記録的豪雪」、「記録的集中豪雨」、「記録的暖冬」……。

 もう目で見え肌で感じられるところまで気候変動・温暖化は進行しているようです。

 多くの人が「なんとなくおかしい」と感じはじめていますが、それはもはや感じだけの話ではないようです。

4月7日の朝日新聞に、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の報告書の記事がありました。これは、世界各国の数千人もの科学者たちが合意してあえて発信した世界への警告という意味があるようです。

 近未来予測のごく一部を拾ってみると、2020年代には気温上昇幅は0・5~1・2度程度とされており、それに伴って、

・数億人が水不足による被害にさらされる

・サンゴ礁の白化現象が広がる

・生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す

・洪水と暴風雨の被害が増える

・栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える

・熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える

・感染症を媒介する生物の分布が変わる

・北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる

といったことが危惧されており、2050年代、2080年代とさらに深刻になると予想されています。

 存知あげている研究者の言葉では、これでもまだ控えめな予測で、もっと深刻な事態も予想しておいたほうがいいのではないか、ということでした。

 項目の中の「洪水と暴風雨の被害が増える」は、「近未来」どころか、この梅雨の雨、第4号台風などですでにはっきりと「現状」になっているのではないでしょうか。

 すでにご存知の方も多いかもしれませんし、今後書かせていただきますが、「環境問題」は「地球温暖化」だけのことではなく、もっと多様で深刻であるようです。

 ある種結論を先に言ってしまえば、そうした現状の中で、環境問題による被害を最小限にとどめるには、私たちすべての最大限の努力が必要で、それには現行の経済至上主義的な社会の価値観を根本的に転換する必要があるのではないか、と私は考えています。

 もう少し言えば、価値観―心を変え、行動を変え、社会のあり方を変えなければ、環境問題は解決しないのではないか、ということです。

 そうしたことを学び、考え、発言しているうちに、福岡の曹洞宗のお寺様とご縁をいただき、そのご紹介で、本誌に2年間連載させていただくことになりました。

 編集部から「最初に自己紹介を」とのことなので、私事めいて恐縮ですが、道元禅師とのご縁と環境問題への関心について、すこしだけ書かせていただきます。


 道元禅師とのご縁

 筆者は、幼年時代からの良寛ファンという意味では、曹洞宗とのご縁は浅くないかもしれません。

 といっても、道元禅師のことをはっきり知ったのは、ちょうど四十年前大学一年生の時、哲学者田辺元の全集を読んでいて、「正法眼蔵の哲学的私観」という文章に出会ってからです。

 当時の私にはとても理解しきれない難解な文章でしたが、「道元という方は大変な人らしい。主著の『正法眼蔵』はすばらしい、しかしものすごくむずかしい本らしい」ということだけはわかりました。

 そしてそれ以来、『正法眼蔵』にいわば憧れ続け、何とか理解したいものだと思いながら学びを続けてきました。

 大学での専攻はキリスト教神学だったのですが、途中から学びの関心がキリスト教よりも禅や京都学派哲学さらに仏教全体に向かい、やがて坐禅もするようになりました。

 加えて深層心理学や臨床心理学、トランスパーソナル心理学、それと並行して仏教の深層心理学という角度から唯識も学びました(そうした学びを通じて、現在、私のなかではキリスト教と仏教の壁はまったくなくなっています)。

 学んでみて、唯識の心理洞察があまりにもみごとなのに驚き、かつそのわりに一般に知られていないのが惜しいという気持ちから、専門研究書としてではなく思想的・心理学的アプローチで『唯識の心理学』(青土社)を書いたのが1990年でした。

 それがきっかけで、さらに唯識関係の本を何冊も書くことになり(『わかる唯識』水書坊、『唯識で自分を変える』すずき出版、『大乗仏教の深層心理学』青土社、『摂大乗論 現代語訳(共訳、コスモスライブラリー)、『唯識のすすめ』NHKライブラリー、『唯識と論理療法』佼成出版社など)、現在では仏教系の大学で「仏教心理論」という講座を担当させていただくなど、唯識の専門家に準ずる扱いをしていただいています。

 そうこうしているうちに、現代的なアプローチからする私の唯識―仏教理解を評価してくださる仏教関係者の方も出てきました。

 特にうれしかったのは、2001年10月、駒澤大学で行なわれた曹洞宗総合研究センターの大会で「日本のコスモロジーの再創造――禅・唯識・ウィルバーを手がかりに」という記念講演をさせていただいたことでした(内容は拙著『コスモロジーの創造』法蔵館の要約)。

 以後、2002年、曹洞宗埼玉県第一宗務所教化研究会、04年、曹洞宗九州管区教化センター設立三十周年記念講演、05年、九州曹洞宗青年会宮崎大会、06年、曹洞宗島根県布教講習会、同夏永平寺での曹洞宗保育連合会保育研修大会など、ほとんど毎年のように曹洞宗関係の集まりで講演させていただき、今回のご縁をいただいた福岡県の曹洞宗のお寺では何度も仏教講演会や法話会にお招きいただいています。

 その間、2004年に、『道元のコスモロジー――『正法眼蔵の核心』(大法輪閣)という本を書き、ようやく自分なりの『正法眼蔵』理解をまとめることができました。

 そういうわけで、長い間、道元禅師―曹洞宗とのご縁をいただいてきた者として、本山の雑誌に書かせていただくのは大変光栄でもあり、とてもうれしく思っています。


 環境問題への関心

 ここ40年近く、私の学びの中核は仏教(特に禅と唯識)と心理学でしたが、さらに加えて、生物学、人類学、宇宙論、脳科学、生態学などの自然科学も関心と必要があってできるだけ学ぶようにしてきました。

 専門領域を超えて様々な分野を学んできた動機は、人生の早い時期から抱えた、「なぜ、人間は死を恐れ、空しさに悩まされるのか」という実存的問題と、「なぜ、人間は戦争や環境破壊という愚かなことをするのか」という社会的問題に対する答えを得たいということでした。

 そして大学生の頃から、その答えは、特定宗教や特定思想、あるいは特定の学問分野だけでは出すことができないのではないかと考えるようになり、できるだけ総合的な学びをすることによって根源的な答えを見出そうとしてきました。

 そういうわけで、私はどの分野についても「専門家(スペシャリスト)」ではないのですが、「ジェネラリスト」と名乗れるほどではないにしてもできるだけ総合的に考えようとしてきたという意味で、環境問題についても専門家の方とは別の視点からできる・しなければならない発言があるのではないかと考え、また活動を続けています。

 特に昨年11月には、元国立環境研究所所長の大井玄先生、国立環境研究所理事の西岡秀三先生、環境問題スペシャリストの小澤徳太郎先生と一緒に、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」を行ない、合わせて私の研究所の雑誌『サングラハ』(第98、90号。唯識の代表的古典の一つ『摂大乗論』のサンスクリット名『マハヤーナ・サングラハ』にちなんでいます)で、まずシンポジスト4名の論集、続いて拙稿「持続可能な社会の条件」を掲載しました。

 現在は、シンポジウムにお集まりの方々との間で形成された合意を受けて「持続可能な国づくりの会」を設立すべく、若いメンバーたちと一緒に活動を行なっています。

 次号から、そうした中で「環境問題をどうするか」、学び考えてきたことを書かせていただき、みなさんからのご意見やご批判もぜひ聞かせていただきたいと願っています。



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いい人生のための黄金の法則

2009年06月25日 | メンタル・ヘルス

 しばらく記事を更新する時間の余裕がありませんでしたが、読者や教え子のみなさんがときどきのぞいてくださっているようなので、少し書かねばと思っていました。

 ちょうど昨日、O大学のチャペル・アワーでの講話のために原稿を書きましたので、転載します。


 求めなさい。そうすれば、与えられる。

 探しなさい。そうすれば、見つかる。

 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

 まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

 これこそ律法と預言者である。
                   (マタイによる福音書7・7―12)


 いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典です。

 そのためにキリスト教徒でない人のなかにはしばしば、「聖書はキリスト教徒にとっては意味があるかもしれないが、キリスト教徒でない自分には意味がない」と思っている人が見受けられます。

 しかしちゃんと読んでいただくと、キリスト教徒であるないに関わらず意味のある、人生の道しるべになる言葉がたくさん含まれている、と私は考えています。

 今日の聖書の箇所にも、誰にでも意味のあることが語られていると思います。

 今日の出席者のみなさんのほとんどはクリスチャンではないと思いますので、クリスチャンでない人、誰にでも当てはまる「人生の法則」について紹介をしたいと思います。

 この人生の法則は、ただ法則であるだけではなく、「いい人生のための法則」であり、「黄金の法則」だと思うので、そういうタイトルをつけました。

 生きているといろいろ欲しいもの・得たいものがあります。

 いろいろある中には、できれば欲しいものから、できるだけ欲しいもの、なにがなんでも欲しいものまで、いろいろな願望の強さのグレードが違うものがあります。

 そして、そういうあらゆるグレードの願望が何もしなくても自動的に満たされるといいのですが、なぜか人生というかこの世というか、そういうふうにできていないようです。

 現代の都市に住んでいる人は、お店のドアなどが自動であるのに慣れているので、ドアは立っただけで開くような錯覚に陥りがちです。

 しかしいうまでもなく、よその家のドアはその前に立っただけでは開かれません。

 ちゃんとチャイムなどを鳴らして、インターフォンで用件を言わなければ開けてはもらえません。

 しかも、こちらの用件が相手にとっても用件つまり用のあることでなければ、門前払いをくわされることだってあります。

 探さなくても「いい人生」という表札がかかった家が向こうから私の目の前にやってきてくれ、その門の前に黙って立っているだけで、門が自動的に開いて、何が欲しいのか言わなくても察してくれて、欲しいものがぜんぶ与えられる、という具合にできているととても都合がいいのですが、とても残念なことに私たちの生きている世界はそういうふうにはできていないのです。

 いい人生を送りたいと思うのなら、まずいい人生を意識的に・能動的に・自分のほうから求めていかなければなりません。

 ただ受動的に待っていたり、さらには引いたり、引きこもっていたりしても、いい人生はやってはこないでしょう。

 求めなければ、得られない。求めて、はじめて得られる、というか得られる可能性がでてくるのです。

 いい人生の出前はありません。いい人生には自動ドアもなければ、入ったとたん「何がお入用ですか」と聞いてくれる親切な店員さんもいないのです。

 しかも、いい人生というのは、どこにあるのか、どういうものなのか、予めわかっているものではないようです。

 探さなければ、見つからない。探して、はじめて見つかるもののようです。

 もしいろいろある願望がぜんぶ満たされるのならば、求めなくても探さなくても自動的にいい人生がやってきてくれるかもしれませんが、ぜんぶは満たされそうもないとしたら、少なくともどの願望が満たされたらいい人生と言えるのか、自分の願望のいわばランキングをする必要があります。

 有限な人生で、これだけは実現したいという願望を自分で見つけ出すまで、自己探求をする必要があるのではないでしょうか。

 そして自分が与えられた有限な人生のなかでこれだけは実現したいといういちばん強い、ほんものの願望を見つけたら、それが得られるところに積極的に行って、その真正面の門のところにいって、門をたたくことです。

 しかも、遠慮がちに小さな音でたたくのではなく、大きな音で、門のなかにいる人にはっきり聞こえるようにたたくことです。はっきり聞こえたら開けてもらえる可能性が出てきます。

 たたかなければ、たたいても音が小さくて相手に聞こえなければ、開けてはもらえないでしょう。

 聖書は、門のなかにいるのは、「あなたがたの天の父」であるといっています。

 「天」というのは古代の神話的な表現で、現代的に言い換えると「宇宙」ということになるでしょう。

 「父」というのも父権主義的なイスラエルの文化の表現で、「いのちを生み出したもの」、私を含め「すべての生命を生み出したなにか大いなるもの」「サムシング・グレイト」と言い換えると、ユダヤ教やキリスト教文化のなかにいない日本人にも理解しやすくなるのではないでしょうか。

 いい人生という家のなかにいるのは、私たちのいのちの根源である何か大きなもの・大きな力であり、そしてその大きなものは、私たちの人生にとってもっとも必要なもの、ほんとうに人生のためになるもの、よいもの、ほんとうに欲しいものは何かを知っていて、求めれば、かならず与えてくれるのだ、と聖書は言っています。

 これは、宇宙は人生というものを受動的に待っていても私たちの願望すべてをかなえてくれるというふうに作ってはいないが、能動的に熱心に求めたらいちばん大切な願望をかなえることのできるチャンスは与えてくれている、というふうに読むと、だれにでも当てはまる、理解できる言葉になるのではないでしょうか。

 おもしろいのは、聖書はここで終わっていないということです。

 ここまで「自分が求めることと得ること」の話をしていたのに、突然のように「人にする」話になっています。

 実はここに常識とはちょっと違った聖書の英知があると思います。

 私たちは、自分が求めるだけで得られると思いがちですが、人間は社会的な動物であり、人といっしょに生きています。

 自分が一方的に求めるだけだと、しばしば他の人が求めることと矛盾・対立します。その人だって、自分の願望を求めているのですから。

 そうではなくて、人が求めているものを与えてあげると、願望が満たされた人は感謝して、返礼をしてくれます。

 いつもかならずではないにしても、よほどひどい社会でないかぎり、かなりの割合で、あげるとお礼がもらえるのです。

 ギブ・アンド・テイクという言葉がありますが、まず与える、そうするともらえる、という意味です。

 こういうたとえ話があります。

 人生は、すばらしいご馳走が用意されているパーティのようなものなのですが、手には長い長いナイフとフォークがしばりつけられていて、せっかくご馳走を切って刺して取っても、長すぎて自分の口には入らないというのです。

 そして、自分が食べられないでいる間に、他の人がご馳走を取ろうとしているのを見て、ご馳走を取られてしまうと思って、ナイフとフォークを振り回して邪魔をしようとして、ケンカになってしまうのです。パーティは台無しです。

 さて、パーティを台無しにしないためには、どうしたらいいのでしょう?

 そうですね、自分のナイフとフォークでご馳走を切って刺して、まず人に食べさせてあげるのです。

 そうしたら、相手も私にご馳走を食べさせてくれるでしょう。

 そうすると、お互いにおいしいご馳走を十分食べることができ、お互いに楽しんで、いいパーティの時間を過ごすことができるでしょう。

 ここから得られる英知の教訓は、まず、いい人生を過ごすには引っ込んだりしり込みしたり、ただ待っていたりしないで、積極的に・能動的に求め、探し、門をたたくことが必要だということです。

 それから、次のこれが「いい人生のための黄金の法則」だと私は思うのですが、人の求めているものを与えてあげることで、そのお礼として私の求めているものが得られるということです。

 この2つのポイントをしっかり実行すれば、法則的にいい人生になる、と聖書は言っている、と私は解釈しています。

 あなたは、どう思いますか、考えてみてください。


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笠松和市氏講演会案内

2009年06月06日 | 持続可能な社会




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第29期追加講座案内

2009年06月06日 | メンタル・ヘルス

     サングラハ教育・心理研究所
     第29期オープンカレッジ 追加講座 ご案内


 火曜講座:『大般若経・願行品』を読む

                            於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                            火曜日 18時30分~20時30分 全4回
                            6月①9日②23日 7月③14日④28日


 玄奘三蔵の訳した『大般若経』は全600巻におよぶ長大な般若経典の集大成です。

 日本では、奈良時代以降、国を護る神秘的な力のある経典であり、さまざまなご利益のある経典として尊重されてきましたが、あまりにも長すぎるため、その思想的な内容については、ほとんど研究-解説されることもなく、一般の人にはまったくといっていいほど知られることもないままになっています。

 しかしその中に詳細に述べられている般若波羅蜜多すなわち分別を超えた智慧は、きわめて普遍的で深く、時代を超えた真理というほかなく、こうした経典が伝えられ遺されていることは、日本の文化にとってきわめて幸運なことだといっていいでしょう。

 今回は、『金剛般若経』(略して『金剛経』ともいわれる)に続き、『大般若経』にごく一部でも触れていただきたいと思い、大乗の菩薩が立てるべき31の「願」について述べた「願行品(がんぎょうぼん)を学ぶことにしました。

 「菩薩」という理想がいかに高いものであるか、深い感動をもって学ぶことができると思います。


テキスト『大般若経・願行品』、国訳一切経版のコピーを使います。

*講義の前に30分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。



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日本人の精神的崩壊の3つまたは4つの段階 3 「理想」の死

2009年06月05日 | 歴史教育

 前期授業が始まって2ヶ月弱、今学期の受講者数は3大学合計で700名弱で決まり、コスモロジーの授業を続けています。

 熱心な学生たちがたくさんいて、喜んでいます。

 しかし、日本人の精神的荒廃(崩壊)の3段階」について話し終え、レポート課題を出したら、かなりの数の学生たちから、「〈3段階〉がよくわからない」という質問がありました。

 テキストの『コスモロジーの創造』(法蔵館)には書いてあるので、ブログにも書いたような気がしていましたが、過去の記事を調べてみると、書いていませんでした。

 この質問には「ちゃんと話したよね。あとはテキストを読んでください」と答えてもいいわけですが、もう少し親切心を出して、ここでも改めて書いておくことにしました(ただし、レポート作成中の学生諸君、あくまで参考です。このままコピペは、ぜんぜん評価できませんからね)。

 まず前近代、つまり明治維新以前、江戸時代の日本です。

 この時代、「神仏儒習合」のコスモロジーが生きていた、つまり「神・仏・天地自然・祖霊」が日本人の心のなかに生きていた時代には、精神的な荒廃――ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義――はほとんどなかったのではないか、と筆者は考えています。

 ほとんどの日本人が、神・仏・天地自然・祖霊を信じていたということは、当然、「すべては物だから意味はない」のではなく、神仏という霊的な存在があり、個々人にも霊魂があり、したがって世界には深い意味があるということですし、「絶対的な倫理の根拠はない」のではなく、神仏・天地の法・道・掟が確固としてあると信じられていたのです。

 崩壊の第1段階は、すでに述べたとおり明治維新の神仏分離、天皇制神道の国教化、社会の実際上の主流の洋学化です。

 近代化と並行して「神仏儒習合」のコスモロジーの崩壊が始まります。

 しかし戦前、社会全体、特に庶民の心のなかには「神仏儒習合」のコスモロジーは残りつづけていましたから、荒廃-ニヒリズムは一部の知識人たちの問題で、社会全体を蝕むには到りませんでした。

 決定的なのは、第2段階、第二次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争の敗戦後、アメリカの占領政策――日本人の精神的武装解除――として行なわれた国家と宗教の分離、特に公教育と宗教の分離です。

 ここで、日本の子どもたちは学校で神・仏・天地自然・祖霊の大切さをまったく教わることがない・できないという教育制度が作られました。

 日本の精神的伝統であった「神仏儒習合」のコスモロジーの全国民的剥奪です。

 ここで、人生の意味と倫理の根拠になる絶対的なものが、日本の公式文化のなかから姿を消した・消されたのです。

 しかし、そこでただちに日本人の精神的荒廃が全面的になったわけではありません。

 そこに到るまでにはもう一つ段階があったと筆者は考えています。

 神仏は死んでも、それに代わるものとしての「人類とその進歩」という「理想」つまりヒューマニズムを信じられれば、まだニヒリズムには到りません。

 理想を追求することが人生の価値・意味であり、ヒューマニズムは倫理の絶対的な根拠示しうるように思えたからです。

 戦後、1970年頃までは、多くの人、特にまじめな学生は、科学や民主主義による「人類の進歩」や「人権の解放」を信じていました。

 ところが、第3段階、70年前後、学生闘争の終結以降、「理想」はほとんど死に絶えたといってもいい状態にあるのではないかと思われます。

 そうなった最大(唯一ではないにしても)の原因は、学生闘争の決着の付け方にある、というのが筆者の推測です。

 筆者も60年代、学生であり、友人のかなり多くが学生運動家とまでいかなくてもそのシンパ(共鳴者)という状態でしたが、ここでは長くなるので割愛する理由があって、運動には参加しませんでした。

 ですから、全面的に肯定してはいないのですが、学生運動の良質な部分に関しては「世の中をよくしたい」という情熱に突き動かされた「まじめな」運動であったと評価していい、と今でも思っています(若気の至りの、お祭り騒ぎにすぎなかった、あまり良質でない部分ももちろんありましたが)。

 つまり、ヒューマニスティックな「理想」の追求が根本的な動機だったのです。

 ところが、運動は、もっとも象徴的には東大安田講堂への機動隊の導入などの外部の力で鎮圧され、内部的にも中核―革マルの内ゲバや連合赤軍の浅間山荘事件などに見られる対立―荒廃現象が起こり、市民の共感・支持を失ってしまいました。

 それは後の世代に、「世の中をよくしようという理想など抱いたって、権力に鎮圧されておしまいだし、そうでなくても内部対立でこわいことが起こるだけで、理想の実現なんかできないんだ」といった強烈な印象を与えたようです(これは、たくさんの後輩世代に聞き取り調査的に確かめました)。

 そして以後の経済的繁栄とあいまって、「世の中をよくしようなんてめんどうな理想を持たなくても、みんなでもうけて、パイを分けあって、楽しく生きていけばいいんだ」といった、軽薄、ネアカ、ルンルン……の風潮が、社会の、特に若い世代の気分の主流になりました。

 そうした状況で、誰かが真剣に考えようとすると、仲間から「ネクラ」と非難され、「マジになるなよ、ダサイぜ」と冷やかされました。

 そういうふうにして起こったのは、若い世代の心のなかでの「理想の死」です。

 情熱を注ぐべき「理想」がなければ、「シラケル」のは当然です。

 表面は「ネアカ」、内心は「シラケ」というのが、若い世代の基本的な気分になったのではないでしょうか。

 「シラケ」は、徹底されていないけれども、ニヒリズムの兆候だと見てまちがいないでしょう。

 徹底すると死にたくなることがわかっているので、表面はネアカ・ルンルン…と快楽主義でやりすごそうとするのだと推測されます。

 「神・仏・天・祖霊」に加えて、それに代わる「理想」まで死んでしまったとしたら、生きていることの意味や正しく生きることの根拠も見失われ、もうニヒリズムが氾濫・浸透することをとどめるものはなくなるのではないでしょうか。

 それでも景気がよく日本人全体の金回りがよかった時代には、快楽主義でやり過ごせる人口も多かったのですが、90年代のバブル崩壊、そして今回の大不況で、快楽を追求する金もなくなってくると、心の荒廃はいっそう進み、それを行動化(アイティング・アウト)した犯罪・事件がどんどん増えてくるのではないか、と危惧しています。

 このままで大丈夫なのか、どうにかしなければいけないのではないか、どうすればいいのか、本ブログではすでにさまざまなかたちで提案をしてきましたが、これからもご一緒に考えていきましょう。



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