般若経典のエッセンスを語る57――瞑想と智慧と菩薩は別のものではない1

2024年10月12日 | 仏教・宗教

 前回、菩薩・摩訶薩・菩薩大士の大乗とは、要するにサマーディ・三昧だと いうこと、その三昧について三三昧ということをお話しした。私たちの坐禅も三昧の入り口としてやっているわけだが、「三昧に入る」ということを考えるとき、私たちは「私が三昧に入っている」「私が三昧から出た」といった捉え方をする。それに対して、本格的な菩薩が三昧に入るとはどういうことかが語られているのが、次の個所である。

 慧命須菩提仏心に随ひて言はく、『当に知るべし諸の菩薩・摩訶薩、是三昧    を行ずる者は、已に過去の諸仏の授記するところたり。今現在十方の諸仏も亦是菩薩に記を授く。是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 三昧とは最後のところにあるように基本的には「分別の念無きなり」ということ、「あれ」「それ」「これ」といった分離的な思考がまったく休止している状態が三昧に入っているということである。
実は三昧にもいろいろなタイプがあって、他のところでは百八三昧、つまり大乗仏教の三昧の種類は細く挙げていくと百八あると言われている。これはおそらく百八の煩悩をそれぞれ消す百八つの三昧という意味もあるのだろうし、一つ一つの名前を見ていくと、「確かに瞑想にはこういう側面があるな。こういう側面もあるな」と気がつくのだが、今回はエッセンスの講義なので百八つそれぞれの解説はしない。しかしどの三昧であれ、まず言われていることは「分別の念無きなり」ということである。

 スブーティという、空の理解ではお釈迦さまの十大弟子の中で最高とされた人が、しかも仏の心に従って代わって言う、という設定になっている。

 もろもろの菩薩・摩訶薩はこうした三昧・瞑想を実践する。そういう者は、すでに過去の諸仏に「やがて必ず覚りを開く」という証明・保証をしてもらっているのだ、と。

 般若経の他のところでは、私たちがこういう経典に出会うこと、あるいは坐禅ができるようになることは、たまたまではなく前世でそれができるようになるためのカルマをちゃんと積んできからだと言われている。しかも、本格的な三昧をする菩薩・摩訶薩であれば、すでに過去世において「あなたはやがて覚る」という保証を得ている。また過去がそうであるから、まして今現在、菩薩が三昧を実践しているということは、ありとあらゆる諸仏が「やがてあなたは必ず覚りを開く」という保証・証明をしてくれていることなのだ、と。

 しかしそう言いながら、実は菩薩がほんとうに三昧を実践しているときは、「いろいろな種類の瞑想法がある」とか、あるいは瞑想法ということそのものを考えない。つまり分別的な思考で瞑想ということを考えないのだという。
また、「これから瞑想に入るのだ」とか「今瞑想に入ったところだ」「もう私は本格的に瞑想状態になったぞ」といったことを思っている間は、ほんとうの瞑想・三昧ではない。なぜならば、「今から瞑想に入る」「本格的に入ってきた」「すごく深くなったぞ」というのは、すでに日常的な意識と瞑想状態の意識とを分けて分別して捉えているからである。

 ほんとうの菩薩の三昧には、そういう分別はまったくない。坐禅中に「自分が坐禅をしている」、さらには「坐禅をしている」とか「自分」という意識がまったくなくなり、あえて言葉で言えば、ただ「そこにある」だけになる。その「ある」にも、「私」とか、この私で言えば「岡野守也」とか、そういう名前はなく、言葉が働いていないのだからほんとうは言葉で表現できないのだが、あえて言えば「サムシングがあるだけ」、そういう状態になるのがほんとうの三昧であり、そういう三昧を実践する菩薩・摩訶薩は必ず覚りを開く、あるいは、そういう三昧に入っているということは実はもう覚りを開いている、と言ってもいいわけである。

 すると、シャーリプトラがスブーティ・須菩提に質問をする。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏    に従ひて記を受けたりや。』須菩提報へて言はく『不、舎利弗、何を以ての故に。

 智慧第一と解空第一の二人が問答をするのだから、これはすごく深い問答である。
 「住する」は「そこにしっかりとどまる」「それをしっかりと維持する」といった意味である。シャーリプトラが、「菩薩・摩訶薩がこのさまざまな瞑想法をしっかりと維持しているのは、すでに過去の仏に『おまえは必ず覚れる』という証明を受けたということなのか?」という質問をする。

 これはわかっていなくて聞く質問ではなく、この後のより深い言葉を誘発するための言葉であり、聞く形式によってより深い答えを引き出すのである。スブーティとシャーリプトラはお互いにもうわかり合っていて、その二人が問答しているのを、周りの人が聞いて学ぶのであり、そのためにスブーティが答える。「いや、シャーリプトラよ。そういうことではないのだ」と。なぜかと言うと。

 般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 すでに紹介した個所と同じことを繰り返しているだけに読めるかもしれないが、しっかり見ていくときわめて丁寧に事柄を明らかにしていることがわかる。日本的に言えば、インドの人の思考法は確かに非常にくどいというか丁寧すぎると言えなくもないが。

 「この般若波羅蜜というのは瞑想と異ならない」。瞑想とはつまり分別知を完全に休止させてしまうことだから、分別を超えた智慧は即三昧ということである。「三昧に入るということは般若波羅蜜を得るということである」。言葉は違っているが、実は同じ事柄なのだ、と。そしてこの言葉を超えた智慧を得る、あるいは言葉を超えてしまう瞑想をするのが菩薩なのだから、実はそれはもうまったく一体のことなのだ。だから「般若波羅蜜と瞑想と菩薩は、ある意味ですべて同じことだ」というのである。

 私たちはどうしても、菩薩は菩薩として個別の人間性を持っていて、ある人が菩薩だということは、それはその人が般若波羅蜜を得ていて、かつサマーディをやっていることだと思いがちであるし、それから、特定の菩薩という人格とは別にどこかに般若波羅蜜があり、別に三昧があると思いがちである。しかしそうではなく、「般若波羅蜜は即ち是れ三昧」であり、「三昧は即ち是れ般若波羅蜜」であり、「菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧」なのだ、という。

 私たちは抽象的に言葉で捉えることで、「般若波羅蜜」や「三昧」という個別のものが「菩薩」とは別にあって、「菩薩がそれを修行する」あるいは「それを獲得する」というふうに考えてしまいがちだが、そうではなく、「もうそれそのものが菩薩なのだ」と。しかし、仮に言葉ではいちおうそれぞれを区別して言うほかないのである。


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