『サングラハ』第171号「近況と所感」

2020年05月22日 | 広報

*『サングラハ』第171号の執筆-編集が終わり、今、印刷所に回っていますが、発行に先立って、「近況と所感」だけ、ブログに掲載しておきたいと思います。

 それは、「今回のコロナのことを、岡野さんはどう思っているのですか」という問いかけをいろいろな方からいただいていて、潜在的に同じ問いをお持ちの方も多数おられるのかもしれないと思い、早めに公表させていただいたほうがいいかなと考えたからです。

 参考にしていただけると幸いです。

 

 若葉から青葉へという美しい季節ですが、立夏を過ぎたばですでに真夏日があり、そうかと思うと明け方は十度以下のことがあったり、⼤きい時には朝夕の温度差が二十度くらいもあることがあります。残念ながら安定しない気候です。

 コロナウイルス対策の長い自粛が続いています。いろいろな点でほんとうに「これまで体験したことのない」状況です。

 みなさんは、いかがお過ごしでしょうか。物・身・心ともにご無事・ご健康であられますよう心からお祈りしています。


 前号に引き続き、経済・社会的にも心理的にも厳しい状況にある皆様に、心からお見舞い申し上げ、何とか耐え抜いていただけますようお祈り申し上げます。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、ご遺族の方に心からお悔やみ申し上げます。
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 五月のゴールデン・ウィークもかなり多くの国民がじっと我慢で自粛し、そのおかげでようやく感染者数がかなり減少してきており、ちょうど本稿を書いている時点で、地域によって緊急事態がある程度解除されることになりました。

 自由に動けない不満感もさることながら、経済への打撃はとても⼤きく、可能なところからいったん解除するのは当面やむを得ないと思われますが、ぶり返しが危惧されます。
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 筆者も、完全なイベント自粛状態で、東京、高松とも講座を録画で代用し、病院と必要最小限の買い物と、あとは近所の散歩以外は家に籠っていて、かなりの不自由感があります。


 とはいえ、講義録画の準備、『サングラハ』の原稿があり、さらに学びたい・調べたいことが芋づる式に増えており、加えていい天気で庭の草はどんどん伸びてきているので、全然暇ではありません。

 それぞれについて基本的にはやりたくてやっていることなので不満があるわけではありませんが、香川に来る時にちょっと想像した「のどかな田舎暮らし」とはほど遠い毎日です。

 いろいろな方と連絡する時、「やりたいことがやれなくて、つまらないですね」「やることがなくて、退屈ですね」といったお声があると、いちおう共感的アプローチで「ほんとうにそうですね。つまらないですよね」とお答えしています。


 しかし実は筆者自身については、やりたいことややらなければならないことが詰まっているので、申し訳ないけれどつまらなくもないし退屈もしていません。むしろ、年齢のせいで仕事の能率は徐々にしかし確実に落ちてきていますし、いつまでも仕事ができるわけではないので、そういう意味では「時間が足りない」という想いがあります。

 といっても、自分にやれることはやってきたという想いもあって、⼤きなこだわりはないのですが。
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 話をコロナに戻すと、この外出自粛の状態を筆者は半分冗談・半分本気で「コロナ安居(あんご)」と呼んでいます。「安居」とは、禅の道場で集中的な修行のために一定期間籠ることをいい、「接心(せっしん)」ともいうのは、ご存知のとおりです。

 フランクルが「意味のある苦しみは耐えることができる」と言っているように、外出自粛も意味付けができれば、楽しくはならないまでも、十分耐えることはできるはずです。それに、どう考えても今回の自粛は、フランクルの体験したナチスのアウシュヴィッツ収容所よりははるかにましです。


 とはいえ、新型コロナウイルスというのは、私たち人類にとって⼤きな課題です。これも禅語で言えば「コロナという公案(こうあん)」という言い方もできるでしょう。


 「公案」は、「公府の案牘(あんとく)」の略で、元は中国古代の役所の出す重要な公文書のことで、そこから禅の修行で師匠から弟子に出される分別知では解けない重要な問題という意味に転用されたものだそうです。


 公案一般と同じくコロナという公案も、二分対立を前提にした分別知ではなくまずは統合的理性、さらに理想的には無分別後得智によるアプローチで取り組むことが必要でしょう。分別知的アプローチでやっている限り、不十分な対策案と実行しか出てこないのではないか、と予測されるからです。


 分別知的理性で捉えると、問題は「いのちか経済か」という二項対立に見えますが、統合的理性で捉えると「いのち-暮らし-経済」は循環的につながっていることが見えます。


 ですから、どちらを取るかという問題ではなく、どれもが成り立つ道はないのかという問題なのだと思われます。


 そして、もちろんいのちが基礎であることは確かですが、いのちを維持する営みが暮らしであり、暮らしが維持されるには経済が維持される必要があります。さらに巡って経済が維持されるには働き消費する人々のいのちが健全に維持されていなければなりません。


 それらの循環がコロナウイルスという「自然災害」によって悪循環に陥りつつあり、それらをどう好循環にしていくかという課題は、政治が担うべき課題だ、と筆者は考えます。


 そうした視点からすると、当面、日本に限った対策としては、すでに何人かの識者が提言しているとおり、政府主導で、徹底的な検査を行なって、感染者と非感染者を区別し、感染者は隔離と治療、非感染者は通常通り働く、感染者も現役の方は隔離と治療を経てなるべく早く職場復帰する、という方法が有効なのではないかと思われます。

 現在の検査方法の精度や検査体制では無理があるのではないかというご指摘もいただきましたが、今回で終わらないと予想される今後の感染症対策と経済対策の統合には必要なのではないかと考えます。


 確かに、検査拡充のためにも隔離と治療の体制拡充のためにも、かなり⼤規模の財政出動が必要でしょう。しかし、素人の直感ですが、そのための「社会的費用」は、経済活動の休止による景気の悪化、倒産・廃業、その結果としての失業、さらにその結果としての身心の病、特に自殺者の激増(ネット上の京都⼤学レジリエンス実践ユニットによる推計参照)などの社会的損失とそれらに関わる保障等による社会的費用の総額よりはるかに少なくて済むのではないかと推測されます(数値計算をしてくれる専門家が出てきてほしい!)。
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 素人の直感が当たっているかどうかはともかく、基本的理念は「いのちも暮らしも経済も」です。さらに加えて毎回の主張を言えば、「いのちも暮らしも(つまり福祉も)経済も環境も」ということになります。


 現在進行中であり、残念ながら当分続くと予想される世界的な混乱は、日本も含めた世界各国の政治の理念とシステムが程度の差はあれ、そういう課題――今後も想定されるさまざまな感染症の蔓延や気候変動による災害の⼤規模化なども含む――の解決には不十分だったということの現われなのではないでしょうか。


 しかし、ものごとは不十分だったら十分になるように変えていけばいいのであって、理念もシステムも人間が作ってきたものですから、不都合があれば、人間つまり私たちが作り替えればいいのだと考えます。


 その場合、しっかり意識している必要があるのは、理念から出てくる目的がシステム設計の指針になるということです。何のためのシステムかがあいまいだと、結局誤作動を起こすようなシステムしか設計できません。日本的な「理屈じゃない。現実だ、あるいは行動だ」という発想は、こういうことを考える場合、有効性がありません。


 私たちは、外側の混乱に巻き込まれて内面・心まで混乱しないよう気をつけながら、もう一度、自分のいのち、暮らし、自分たちの経済や政治が何を目的・理念として営まれるべきなのか、確認する必要があるのではないかと思います。


 その究極の理念・理想・目的を示してくれるのが、無分別後得智としてのつながり・一体性コスモロジーであり、その古典的な表現が「般若経典」などから読み取れる、と筆者は考えています。


 そして、まだ国民総体としては十分に読み取れていないにしても、幸い日本には古代から、無分別後得智を得た菩薩的リーダーに導かれながら民みなで協力してこの世に仏国土を建設することを目指す「和の国・日本」という国家理想があった、というのが筆者の仮説であり、それを確証する試みが、最近の講義や原稿です。

 それはいうまでもなく、国粋主義でもジャパン・ファーストでもなく、和の世界のモデルケースとしてまず和の国・日本から、ということです。
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 最後に今回も、賛同してくださっている執筆者と読者のみなさんに心から感謝したいと思います。

 

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