今から2年ほど前(2005年8月20日)に、このブログ授業を始めました。そこで次のように書きました
*。
大学で若者たちと接していると(アンケート調査も行なっています)、今の日本の若者――僕が接したかぎりでは――のおどろくほど多数が、元気がない、自信がない、生きてる意味がわからない、自分なんか生きていても死んでもおんなじだという気がする、よく死にたいと思う……と言っていることがわかります。
それに対して僕は、なんとか、元気が出る、自信が湧いてくる、生きてる意味がわかる、生きてるって素敵だ、と思えるようになる授業をしようと努力してきました。
そして、自分としては、かなり成功していると思っています。
もちろん失敗例がないわけではありません。
今年も、アンケートに「ひどい授業でした」と書いてきた学生が一人いました。
私の積極的なアプローチ――時にはややきつ目に叱ることもあります――に反発を感じて、授業の中身を聞く気になれなかったのでしょう。とても残念です。
こうした反発を招かないアプローチをもっと工夫できるといいなと思っています。
しかしパーセンテージとしていえば、相当な成功をしてきているつもりです。
小さい時から聞きたかった「
ビッグ・クエスチョン(人生に関する大きな問い)」への答えを聞けたと感じてくれた学生もいます。
次のケースは、社会学部1年の女子学生のものです(改行、表記に若干手を入れてあります)。
私が「自分はどうして生きているのだろう」と考え始めたのは、ちょうど小学3年生のときでした。夜眠れないとき目をつぶり、私が生きている意味ってあるのかなと思うと、悲しくてたまりませんでした。今でも、泣き疲れて寝てしまうまで考えていたのを覚えているほどです。まるで宇宙のブラックホールに飲み込まれたかのように、私はただ、あてもない答えを探し続けました。
考えても考えても自分が納得する答えはまったく見つからず、友人や親にも「自分がなぜ生きているのか」について悩んでいるなどと言ったら「どうせ馬鹿にされるだろう」と思い、ずっと自分の生きている意味をあいまいにしてこれまでの人生を生きてきました。
でも、先生の講義を始めて受けてみて、もやもやとしていた私の視界がパァーっと明るくなるのを鮮明に感じました。最初は、自分の考えを宇宙レベルで考えていくことが少し難しかったですが、講義を重ねていくうちに少しずつ私の心の中のしこりも取れていきました。なかでも、「人間は一人なんかじゃない。だって百五十億年前から積み上げられた成果からできたのが君達ひとりひとりなんだから。自分も友達も植物も動物も建物も地球も、みんな元をたどればひとつの宇宙から始まったんだからね。」と言われたとき、落雷が落ちたような衝撃を受けました。
今まで、私は「人間は一人で生まれ、孤独の中で一人で死んで、何もなくなる。」と、生命のつながりを全く意識せず、全てのものを個別で見ていました。ですが、先生の授業を受けてみて、何に対しても「つながり」を意識するように自分の心の中で心がけていきました。すると、「ご先祖様から伝えられてきた命がなかったら、今、私は生きていない。生きているだけでも素晴らしいことなんだ、せっかくの人生なのだし、新しいことに挑戦してみよう。」とだんだん視野が開けるようになってきて、自信も自然とつくようになりました。卑屈でいいかげんだった私の性格が、何事にも感謝できるようになったのは、先生の講義のおかげだと思います。もっと早く先生の講義に出会えてれば、私も生きる自信がもっとついていたかもしれません。
私のように自分の存在価値や自信がなくて助けを求めている人がたくさん居るはずです。そんなときは、先生に教わったコスモロジーを教えてあげて、自信を一緒に回復させてあげられたらいいなと思っています。
本当に先生には感謝しきれないです、ありがとうございました。後期の授業も引き続き楽しみにしています。
ぜひ聞きたいことでありながら、「聞いても、どうせ答えてもらえないだろう」とか、もっとひどいと「聞いたら馬鹿にされるだろう」と思って、親や教師などまわりの大人や、友達にさえ聞けない、話せないままで、「ずっと自分の生きている意味をあいまいにしてこれまでの人生を生きてきました」という人がきわめてたくさんいます。
聞かれた親や大人も答えをもたないまま、何とかやりくりして生きてきたという方が大多数でしょう。
それは戦後日本――広く言えば近代――の文化状況・コスモロジーの状況からすると、やむをえないことだったと思います。
しかし私の考えでは、そうした問いに答えることは大人の責任ではないかと思いますし、大人にも答えがないという状況は本質的にはもう終わっています。
「大学の授業の中に、特定の価値観を持ち込むのはまずいのではないか」という批判もありうるでしょう。
しかし私は、「特定の価値観を押し付けるのはまずいが、生きる意味を感じることのできるような価値観を、ありうる一つの価値観・一つの世界解釈のかたちとして提案することは、まったく問題がない。どころか、若者たちは大人に対して、切実にそれを求めている」ことを確認してきています。
「私はこう思う。こういう理由でいいと思う」と提示・提案して、選択はもちろん自由に任せるのです。
価値相対主義や脱構築が流行した時代状況の中で、そうしたはっきりした価値観の提示には出会ったことがないのでしょう。私のアプローチに初めて出会った学生の典型的な反応の一つは次のようなものです(同じく1年の女子学生)。
初めて、この授業を受けたとき、「これはまさに宗教だ」と思った。「先生の考えに洗脳させられるのではないか」とも思った。
しかし、2回、3回と授業を受け、また『生きる自信の心理学』を読み進めていくことで考えが変わっていった。先生が授業や本の中でおっしゃっていることは、すごく順序だっていて分かりやすく、私の中にスーッと入っていった。
「私たちと宇宙が一体」だなんて初めのうちは理解できなかったが、ひとつ謎がとけるとスルスルとひもがとけていくように理解できたので、「私たちと宇宙が一体だ」ということを今では違和感なく受け止めることができるようになったと思う。
たった半期の授業だけで、物事の考え方がこんなに変わった自分に驚いた。後期の授業を受けることによって更に考え方が変わるのかもしれないと思うと楽しみだ。
もう少し、理論的な問題について論じておきます。
確かに、教育の場に特定の価値観や、まして宗教の教義や特定の主義のイデオロギーを持ち込むことはきわめて危険です。
客観的な知識の伝達にとどめておくほうが、一見妥当で無難に思えます。
しかし、「生きることに意味はあるか。ないのではないか」という問いは、心理的・精神的、つまり主観的なものです。
主観的なものへのアプローチを避けることによっては、子ども・若者たちの心理・主観としてのニヒリズムやエゴイズムの問題は解決できるどころか、悪化・深刻化していくだけです。
教育つまり子どもを教え育む営みとして、それを放置することは妥当でも無難でもないのではないでしょうか。
幸いにして現代科学のコスモロジー(の一つの解釈)を伝えることは、知識の部分ではきわめて客観的なものですし、加えて「あくまでも一つの解釈である」ことも伝えれば、特定の価値観を押し付け、思想・信教の自由に抵触する危険も避けることができます。
とはいっても、教師-学生という関係性からして、こちらは意図していなくても押し付け的に機能してしまうという危険はゼロではないでしょう。
しかし若者たちの心の状況を考慮すると、つながりコスモロジーという特定の価値観を押し付けることになる危険より、若者たちの心の荒廃がますます悪化・深刻化する危険のほうがはるかに問題だと考えるので、私はあえてこうしたアプローチを採り続けています。
読者、とりわけ親御さんや教育関係のみなさんは、どうお考えでしょうか。
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