般若経典のエッセンスを語る59――すべては名によって仮のものが実体に思える

2024年10月14日 | 仏教・宗教

 以上、まず般若経典のエッセンスが非常によく表われていると思われる個所をご紹介してきた。これまで述べたことがおわかりいただけばもう終わりと言ってもいいくらいだが、般若経典自体はまだ果てしなく語っているので、筆者ももう少し引用しながら解説していこうと思う。

 次に「三仮品第七」という個所をご紹介したい。タイトルの意味は、私たちがものごとを実体的に捉えてしまう元は物事を名前で呼ぶことにあるということ、つまり名詞を使って把握し、名詞を使って把握して感受・認識し、それによって実体的な存在があると思ってしまうということである。

 これについて『昭和新纂国訳大蔵経』版の註に「……名・受・法の三、皆悉く仮説(けせつ)なるを説くなり」とある。

 先ほど木の話をしたが、「木」という名前(名)を使って木を見る。すると私たちはそれを「あそこに木がある」と感受・認識する(受)。そして感受・認識すると、「木」という実体的な存在(法)があると思う。これが「名―受―法」ということである。

 もちろん仮に、確かに木は空気ではないし、木は大地ではないし、木は雨ではないし、木は太陽ではないという「区別」はできる。区別を付けるという意味で名付けることは仮には許容されるのだが、しかし名付けたとたんに、木が木だけで存在するように見え、感受・認識され、それどころか木という実体があると思えてしまう。

 そういうふうに仮に名づけたり認識したりするのは、常識的には当たり前だし何の問題もないように思えるのだが、しかし深く洞察していくとそれは実体ではない。だから、この三つの事柄はすべて「仮に」ということなのだ、と述べられている。

 爾時仏慧命須菩提に告げたまはく、『汝当に諸の菩薩・摩訶薩に般若波羅蜜を教ふること、諸の菩薩・摩訶薩の成就すべき所の般若波羅蜜の如くすべし。』即時に諸の菩薩・摩訶薩及び声聞大弟子諸天等此念を作さく、『慧命須菩提自ら智慧力を以て、当に諸の菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説くべきや』と。是の仏力の為に、慧命須菩提諸の菩薩・摩訶薩大弟子諸天の心の所念を知り、慧命舎利弗に語らく。

 ある時、ブッダがスブーティ長老に告げて言われた、「修行をしている菩薩たちに般若波羅蜜を教えるときには、菩薩たちが完成・成就する、そういう般若波羅蜜のように教えなさい」と。

 この時にまわりで聞いていた菩薩や声聞たちとは、ブッダの声を聞いて修行し覚るというつまり直弟子のことである。その直弟子の中でも主要な十人を大弟子という。それからこうした説法の場には必ず天人や、仏教・インドの神話的な動物や一種の鬼、あるいは龍神などといった、さまざまな存在までが聞きに来ることになっている。これらがみな疑問を持ったというのである。「ブッダがいわば『語りなさい』と言ったので、スブーティがこれから語るのだが、これは自分の智慧で語るのか。スブーティが自分の智慧で『私はこう思っている』という話をするのか」と。

 スブーティはブッダの覚りの力を被っていて、その中には他人の心がわかる「他心通」という神通力があり、その他心通でみなが思っていることを「彼らは私が『ブッダとは別に自分の意見を偉そうに述べるのか』と疑っているな」と洞察したという。

 この個所について、般若経典は大乗経典であり、声聞にあたる部派仏教の人たちが「大乗は勝手に新しい説を説いているのではないか」という疑念を持っていることに対する大乗の自己弁護という面があるのではないか、と筆者は解釈している。

 疑問・疑念に対して、「そうではない」と、代表者に語ることによって全員に語るという形で、スブーティがシャーリプトラに言う。

 『諸の仏弟子の説く所の法、教授する所皆是れ仏力なり。仏の説く所の法と法相と相違背せず、是善男子、是法を学び、是法を証するを得、仏説は燈の如し。舎利弗、一切の声聞辟支 仏実に是の力無くして、能く菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説かんや。』

 「弟子たちが説く教えや教授することはみな、ゴータマ・ブッダの神通力のおかげを被ってのものなのだ。だから勝手な意見を言っているのではない」、つまり「私はゴータマ・ブッダの力をいただいて語っているので、私の個人的な思想を述べているのではない。ブッダが語ったのと異なる新しいことを言っているのではない」と。

 それが成り立つのはなぜかというと、ブッダが覚っても覚らなくても、語っても語らなくても、真理は元からあるのであり、それをブッダは覚り語られたのであり、まったく同じ真理を私も覚ったのだから、それは「ブッダの神通力を私がいただいた」という表現をしてもいいし、そういう表現のほうが弟子たちの抵抗が少ない。「ブッダが覚ろうが覚るまいが、私が覚ったのだ。私が覚ったことを語るのだ」と言うと、仏弟子たち、すなわち部派仏教の人たちに大きな抵抗が出るので、それを和らげるために、「これはブッダの神通力をいただいて語るところで、ブッダがお説きになる真理あるいは真理の姿とまったく矛盾しないのだ」という表現を取っているのではないか、筆者は推測している。

 「みなさん良き家の出の男性たちはこの教えを学んでこの教えを覚ることができる。その仏の説くところは、灯火(ともしび)のようなものだ」」とあるが、この場には男性の修行者たちしかいなかったのだろうか。そうではないと思われるがそれはともかく、ローソクが一本あるとする。そこにもう一本ローソクを持ってきて火をつけると灯火は二本になる。しかし、この両方の灯火は同じ灯火である。このローソクからこのローソクへと火がついて形は二つになっているけれど、同じ灯火なのである」と。

 つまり、たくさんの灯火が灯っているその元はゴータマ・ブッダという方の覚られたことだとしても、それはブッダ独占のものではない。原始仏典の中でブッダ自身が「私の歩んでいる道は昔からあり、私が作った道ではない。私が再発見したのだが、実はこれはずっと昔からある道なのだ」ということを語っている。それと同じことで、大乗はブッダからこうして灯火が灯火へ伝わる如く受け継いでいるのだ、と。

 そしてシャーリプトラに、「弟子たちが、まさに灯火から灯火へというふうな覚りを得ることができていないとしたら、菩薩・摩訶薩のために分別を超えた智慧を説くことができるだろうか」と言う。

 爾時、慧命須菩提、仏に白して言さく、『世尊、説く所の菩薩、菩薩の字、何等の法を菩薩と名くるや。世尊、我等是法を菩薩と名くるを見ず。云何が菩薩に般若波羅蜜を教へんや。』

 「般若波羅蜜を正しい仕方で教える」という話をしているのに、これは非常に逆説的(パラドキシカル)な表現である。「世尊・ブッダよ、ここで説かれているところの菩薩ということ、それから菩薩という言葉は、どういう存在を菩薩と名付けているのでしょうか。私たち――つまりほんとうに般若波羅蜜を体得している人間――は、特定・個別の存在として菩薩と名付けるようなものが存在するなどということは思いない。一体だから、分離した先輩の菩薩が、分離した後輩の菩薩に、分離した般若波羅蜜を教える、などということはない」と。ゴータマ・ブッダに「そうですね?」と確認しているわけである。

 仏須菩提に告げたまはく、『般若波羅蜜亦但だ名字のみ有り、名けて般若波羅蜜と為す。菩薩と菩薩の字も亦但だ名字のみ有り、是名字内に在らず外に在らず中間に在らず。須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 「般若波羅蜜」とは、いちおう名前として何か言わないと伝わらないので名付けたものだ、と。例えば本書に「般若経典のエッセンスを語る」などと名前を付けなければ、読者に本書の存在をお知らせできないようなものである。「○○の講義をする」という言葉を使わないことにはそもそも講義の場が始まらないので、仮に「般若波羅蜜」というものがあることにしておいて、「その説法をします」と言えば、「では、行って聞いてみようか」という話になる。「そのために、仮に言葉を使って般若波羅蜜があるかのごとく言うだけだ」と。だから、般若波羅蜜という言葉があって、般若波羅蜜と言ってはいるが、ほんとうは般若波羅蜜というものは実体としてはないのだという。

 それから、菩薩という存在、菩薩という名前、これもただ名前を付けているだけだ、と。菩薩という名前のことを考えてみると、これは中にあるわけではないし、外にあるわけではないし、中間にあるわけでもない。ただ「分離はしていないけれども区別はある」ということを表現するために使っているので、実体的に私の中にあったり、そうではなく向こうにあったり、その中間にあったり、という意味で存在するものではない。だから物理的な存在ではなくて、精神的存在といえば精神的存在だけれど、それもまた仮にそう言っているだけだ、と。

 そして、「私・我(われ)」という言葉を使う。ところが私という存在は、ご先祖さまの縁、お父さん・お母さんの縁、食べ物の縁、水の縁、空気の縁、等々々が和合して、しかも形が変わりながらある一定時間似た形を保っているだけである。

 とはいっても、高齢になった人が、生まれてすぐ産湯を浸かっているアルバムの写真をしみじみ見ても、今の自分とは似ても似つかないと感じたりするものである。親から「これはおまえの生まれたときの写真だよ」と言われているから、「私はこんなふうだったのか」と思うだけで、今の私とはまるでといっていいくらい似ていないこともある。それどころか、老人になって若い頃の自分の写真を見ると、ある程度面影はとどめていても、そうとうに変わっていたりする。そういうふうに変化してきているものを同じ「私」と思うのは、言葉による記憶がまとまって集積されているからなのである。

 それは、アルツハイマー病等で言葉の集積回路が壊れてしまうと、親しい人の名前や関係を表わす名称がわからなくなり、さらに進むと悲しいことに自分が誰なのかもわからなくなったりして、人格性が失われていくという例からも、言葉の集積によって変わらない一定の人格が想定されているだけだということがわかるのではないだろうか。

 この私という存在も、いろいろな縁が合わさって・和合して、いちおう仮にはある。その元になる名前にはそもそも実体などというものはないから、生まれもせず滅びもしない。何かが実体としてあるであれば、それが生まれたとか生まれないということもあるだが、そもそもそういうものではないので、不生不滅だ、と。しかし約束事としての言葉で世間は成り立っているから、いちおう仮に「世間の名字を以ての故に説く」だけだ、と。ただ世間・社会の約束事の言葉として説くのであって、ほんとうにはそういうものが実体としてあるのではないという。

 それについてさまざまな例を挙げ、菩薩に関しても同様だという。菩薩とはボーディサットヴァ、覚りを求める人・存在であるが、もちろんさまざまなご縁で存在・人間になっていて、たまたまあるご縁で、「覚りの世界がある」「般若波羅蜜多がある」と聞いて、ほんとうは掴むものではないのだが、「ああ、それを掴みたい」と思っている。そうしたことがすべて和合によって縁起的に現われているのを仮に「菩薩」という名前で呼んでいるだけだ、と。
そのようにすべてのことは仮に名前でそう呼んで言うだけなのだ、と。

 経文ではこうしたことが長々と述べられているが、省略して先に進むことにしよう。

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般若経典のエッセンスを語る58――瞑想と智慧と菩薩は別のものではない2

2024年10月13日 | 仏教・宗教

 対話は続く。

 舎利弗須菩提に語らく、『若し三昧菩薩に異ならず、菩薩三昧に異ならず、 三昧は即ち是れ菩薩、菩薩は即ち是れ三昧ならば、菩薩云何が一切諸法、是れ三昧と知るや。』
 須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と

 シャーリプトラがスブーティに語った、「そういうふうに菩薩と三昧が一体だというのなら、菩薩はすべての存在がまた三昧なのだと知ることができるだろうか」。スブーティが答えて言う、「もし菩薩が三昧に入ったなら、その時には次のような思いはない。『私はこの教えによってこの三昧に入った』と。こういうわけで、シャーリプトラよ、この菩薩はもろもろの三昧において知ることも思うこともないのである」と。
 最後の「知らず念ぜざるなり」とは 「認識したりイメージしたり思ったりはしない」ということである。思考もイメージもまったく消えている状態が三昧であり、それが菩薩ということなのであり、それが般若波羅蜜ということなのだ、と。

 つまりほんとうに瞑想状態になっていたら、「これこれの事柄や教えや真理によって三昧に入ったのだ」といったことは考えない。智慧つまり般若波羅蜜と三昧と菩薩はまったく一体のものなのであり、まったく一体という時には、実はもはや思考が完全に働いていない。私とは別に、外に存在すると思っている一切諸法もまた三昧状態すなわち一体であるから、そこではまったく「知らず念ぜざるなり」「都て分別の念無きなり」という状態なのだ、と。

 私たちはどうしても分別をしている状態でいろいろなことを思うので、「三昧」とか「般若波羅蜜」「菩薩」と名詞で語られると、それぞれが別のものだと思ってしまうし、まして「一切諸法・すべての存在」と言われると、私とはまったく別に多様な万物があると思ってしまうのだが、そうではなく、それらがすべて一体だといわば体感することがサマーディなのである。だからサマーディはまさに菩薩そのものであり般若波羅蜜そのものなのだ、と。

 次は、シャーリプトラが聞き、スブーティがまた答える。

 舎利弗言はく、『何を以ての故に、知らず念ぜざるや。須菩提言はく、『諸の三昧所有無きが故に、是菩薩、知らず念ぜざるなり。』

 いちおう相対的に区別すると「諸の三昧」つまりいろいろなタイプの瞑想法があるのだが、どの瞑想も「所有無き」ということが根本・基本である。この「所有(しょう)」は所有(しょゆう)という言葉の語源である。所有とは、「実体的に持つことができるもの」「実体的存在」のことで、つまり実体という意味である。「有(う)」だけでも実体という意味であるが、特に把握し獲得するというニュアンスが所有にはある。そういうことができるような意味での存在はない、あらゆる事柄について実体的な把握ができない、というのがほんとうの姿なのだと覚ろう・覚る・覚っているのがサマーディであり瞑想であるから、当然、個別の実体的なものを認識したりイメージしたりはしない。もうまったくそういうことがなくなるのがサマーディである、と。

 私たちはなかなかそうした純粋なサマーディに入れないし、もちろん日常のいろいろなイメージや言葉が巡っている状態は全然サマーディではない。

 そこで、入り口のところでいろいろな工夫をし、深めていくわけである。最初の入り口として「ひとー、つー」と呼吸を数えるとか、呼吸と数を数えるのにある程度集中できるようになったら、次は「無」という言葉と呼吸にひたすら「むー…、むー…」と集中する。

 しかし、それができるようになっても、そこにまだ「無」が残っている。そこで、その「無」もやめてひたすら心の眼で呼吸を見つめるのであるが、そこでもまだかすかに「見ている私」と「見られている呼吸」という微妙な二分法残っている。さらに、もう言葉がないのをあえて言葉にすれば「ただ坐っているだけ」というか。しかし、ただ「坐っている」と言うと「立っている」や「寝ている」とやはり分別されているので、あとで日常意識に戻ってその瞑想のことを語るとしたら、いわば「ただあるだけ」「ただ存在しているだけ」というふうになるだろう。

 といってもそれは実体ではないので、ふつうの意味で認識をするとかイメージ的に捉えるということでない。しかしもちろんのこと、うっとりとしているわけでもなければぼんやりとしているわけでもなく、ましてや意識を失ってしまっているのではない。

 さとりは「悟り」とも表記するが、むしろ「覚・目覚める」と表記するほうが適切だと筆者は考えている。寝てしまっていたら目覚めにならない。はっきりと目覚めているけれども、そういう言葉が働かずイメージが働かない状態で、あえて言えばすべての存在と自己との一体性を実感している。

 しかしそれもすべて言葉で言っていることで、だから「一切の存在と自分があって、一体化する」といった表現になりがちだが、ほんとうはもともと一体であることに気づくだけなのである。

 ここまで、「ほんとうの瞑想とはこういうことですね」と二人でブッダに代わってやり取りをしているわけである。すると、そのやり取りを仏さま・ブッダが聴いていて、褒めて言ってくださった。

 爾時、仏讃じて言はく、『善い哉善い哉、須菩提、我が説けるが如く、汝無諍三昧を行ずること第一なり。此義と相応せり。菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を学すべし。禅那波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀那波羅蜜、四念処乃至十八不共法も亦是の如く学すべし。』

 学ぶときにはこの三昧と同じように、決して知的なあるいはイメージ・情感的な把握の仕方をしないで、実体はないのだと目覚めるというふうに修行しなさい。般若波羅蜜を学ぶときに、「般若波羅蜜があって、それを私が獲得する」という思いになったら、それはもう学び方が間違っているのだ、と。

 毘梨耶は訳すと精進で、「私が精進する」と思ったら、それはほんとうの精進ではない。
 羼提波羅蜜は忍辱で、「私があいつのやったことを我慢する」、つまり「私」と「あいつ」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの忍辱にならない。
 尸羅とは戒律で、「私がこの戒律を実行する」と思って実行する戒律の仕方は、ほんとうの学び方ではない。
 檀那波羅蜜は布施である。サンスクリットではダーナといい、それが漢訳されると檀那になる。転じて布施をしてくれる人のことも指すようになり、そこから転じて女性の世話をしたり店の人を世話する人を「檀那」と呼ぶようになったようだ。今の若い女性にパートナーのことを「うちのダンナ」と言う方がいるようだが、それも「檀那」からきていると思われる。そういうふうに、日本語ではいろいろな仏教用語が俗化している。それはともかく、「私が誰かに何かをしてあげる」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの布施ではないということである。

 つまり、六波羅蜜それぞれすべてを、自己と他の完全な一体感の中で実行するのがほんとうの学び方で、そういう学び方をするともはや心の中に対立がなくなり、もちろん他との対立もまったくなくなる。それを「無諍三昧」といい、すべてものと一体になってしまうと、心理的にも現象としての人間関係にも、葛藤・争いがまったくなくなってしまうという。

 スブーティを、ブッダは「おまえは一切のもの、自分自身とさえも争わないというサマーディを実践することにおいて、わが弟子の中でも最高だ」と誉め、「おまえの言うとおりだ」と言う。
 ここでは長くなるので「四念処乃至十八不共法」の解説は省略することにする。
 
 ともかく、菩薩が修行をするとき、ふつうの人のように「私が勉強して~を獲得する」「~を自分のものにする」といった学び方をするのでは、そもそも学び方が間違っている。学ぶ人と学ばれることの分離感があるかぎり、それはもう仏教の学びではないのだという。

 しかし、仏教についてもふつうの教養の学び方をしてしまうと、「私が知らないことがあって、それを私が勉強して、私は知識を獲得し、私は前より偉くなった」というふうになってしまう。

 しかし、仏教の学びは本来そうではなく、妄想から離れて自分の本質に目覚めていくのであり、獲得するのではなく、目覚めていくだけなのである。もともとそうなのだから、今までと違って偉くなるというのではない。しかし、あえて偉いと言えばもともと偉い。宇宙と一体であるから、宇宙的に尊いと言ってもいい。けれども他者とすべて平等であるから、実はもう偉いも偉くもない。もともとそういうことなのだと気づいていくだけなのであって、獲得をするという学び方では、そもそも学び方が違うのだ、と。

 舎利弗仏に白して言さく『世尊、菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為すや。』仏舎利弗に告げたまはく、『菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為す、……』

 スブーティがそう言われたので、シャーリプトラが確認のために「つまりこういうふうな学び方がほんとうに般若波羅蜜・智慧を学ぶことなのですね」とブッダに聞いて確かめる。
 
 もうまったく一体平等、差別なしだから、「私が何かを獲得する」「私が何かを誰かにしてあげる」「私が誰かのしたことを我慢する」といった差別・分離に基づいてするのではない学び方こそ、ほんとうの般若波羅蜜を学ぶことなのだということが語られていて、般若経典の要点というかエッセンスが、こういうところに現われている。

 この一切と平等だという三昧あるいは智慧が、最初に述べた慈悲となって働きはじめる。しかし、菩薩にはレベルとしては初心から最上級まであって、観音菩薩も菩薩であり、私たちも本気で修行を始めたらいちおう菩薩なので、レベルの差は驚くほど大きいのだが、それはともかく、初心の菩薩はここを目指して、自らの本質に、そして宇宙の本質に気付いていくのだ、と。獲得するのではない。三昧とは、気づけば気づくほど、般若波羅蜜と菩薩と一切諸法と一切衆生と、すべて一体なのだということに、深く深く気づいていくことである、と。

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般若経典のエッセンスを語る57――瞑想と智慧と菩薩は別のものではない1

2024年10月12日 | 仏教・宗教

 前回、菩薩・摩訶薩・菩薩大士の大乗とは、要するにサマーディ・三昧だと いうこと、その三昧について三三昧ということをお話しした。私たちの坐禅も三昧の入り口としてやっているわけだが、「三昧に入る」ということを考えるとき、私たちは「私が三昧に入っている」「私が三昧から出た」といった捉え方をする。それに対して、本格的な菩薩が三昧に入るとはどういうことかが語られているのが、次の個所である。

 慧命須菩提仏心に随ひて言はく、『当に知るべし諸の菩薩・摩訶薩、是三昧    を行ずる者は、已に過去の諸仏の授記するところたり。今現在十方の諸仏も亦是菩薩に記を授く。是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 三昧とは最後のところにあるように基本的には「分別の念無きなり」ということ、「あれ」「それ」「これ」といった分離的な思考がまったく休止している状態が三昧に入っているということである。
実は三昧にもいろいろなタイプがあって、他のところでは百八三昧、つまり大乗仏教の三昧の種類は細く挙げていくと百八あると言われている。これはおそらく百八の煩悩をそれぞれ消す百八つの三昧という意味もあるのだろうし、一つ一つの名前を見ていくと、「確かに瞑想にはこういう側面があるな。こういう側面もあるな」と気がつくのだが、今回はエッセンスの講義なので百八つそれぞれの解説はしない。しかしどの三昧であれ、まず言われていることは「分別の念無きなり」ということである。

 スブーティという、空の理解ではお釈迦さまの十大弟子の中で最高とされた人が、しかも仏の心に従って代わって言う、という設定になっている。

 もろもろの菩薩・摩訶薩はこうした三昧・瞑想を実践する。そういう者は、すでに過去の諸仏に「やがて必ず覚りを開く」という証明・保証をしてもらっているのだ、と。

 般若経の他のところでは、私たちがこういう経典に出会うこと、あるいは坐禅ができるようになることは、たまたまではなく前世でそれができるようになるためのカルマをちゃんと積んできからだと言われている。しかも、本格的な三昧をする菩薩・摩訶薩であれば、すでに過去世において「あなたはやがて覚る」という保証を得ている。また過去がそうであるから、まして今現在、菩薩が三昧を実践しているということは、ありとあらゆる諸仏が「やがてあなたは必ず覚りを開く」という保証・証明をしてくれていることなのだ、と。

 しかしそう言いながら、実は菩薩がほんとうに三昧を実践しているときは、「いろいろな種類の瞑想法がある」とか、あるいは瞑想法ということそのものを考えない。つまり分別的な思考で瞑想ということを考えないのだという。
また、「これから瞑想に入るのだ」とか「今瞑想に入ったところだ」「もう私は本格的に瞑想状態になったぞ」といったことを思っている間は、ほんとうの瞑想・三昧ではない。なぜならば、「今から瞑想に入る」「本格的に入ってきた」「すごく深くなったぞ」というのは、すでに日常的な意識と瞑想状態の意識とを分けて分別して捉えているからである。

 ほんとうの菩薩の三昧には、そういう分別はまったくない。坐禅中に「自分が坐禅をしている」、さらには「坐禅をしている」とか「自分」という意識がまったくなくなり、あえて言葉で言えば、ただ「そこにある」だけになる。その「ある」にも、「私」とか、この私で言えば「岡野守也」とか、そういう名前はなく、言葉が働いていないのだからほんとうは言葉で表現できないのだが、あえて言えば「サムシングがあるだけ」、そういう状態になるのがほんとうの三昧であり、そういう三昧を実践する菩薩・摩訶薩は必ず覚りを開く、あるいは、そういう三昧に入っているということは実はもう覚りを開いている、と言ってもいいわけである。

 すると、シャーリプトラがスブーティ・須菩提に質問をする。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏    に従ひて記を受けたりや。』須菩提報へて言はく『不、舎利弗、何を以ての故に。

 智慧第一と解空第一の二人が問答をするのだから、これはすごく深い問答である。
 「住する」は「そこにしっかりとどまる」「それをしっかりと維持する」といった意味である。シャーリプトラが、「菩薩・摩訶薩がこのさまざまな瞑想法をしっかりと維持しているのは、すでに過去の仏に『おまえは必ず覚れる』という証明を受けたということなのか?」という質問をする。

 これはわかっていなくて聞く質問ではなく、この後のより深い言葉を誘発するための言葉であり、聞く形式によってより深い答えを引き出すのである。スブーティとシャーリプトラはお互いにもうわかり合っていて、その二人が問答しているのを、周りの人が聞いて学ぶのであり、そのためにスブーティが答える。「いや、シャーリプトラよ。そういうことではないのだ」と。なぜかと言うと。

 般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 すでに紹介した個所と同じことを繰り返しているだけに読めるかもしれないが、しっかり見ていくときわめて丁寧に事柄を明らかにしていることがわかる。日本的に言えば、インドの人の思考法は確かに非常にくどいというか丁寧すぎると言えなくもないが。

 「この般若波羅蜜というのは瞑想と異ならない」。瞑想とはつまり分別知を完全に休止させてしまうことだから、分別を超えた智慧は即三昧ということである。「三昧に入るということは般若波羅蜜を得るということである」。言葉は違っているが、実は同じ事柄なのだ、と。そしてこの言葉を超えた智慧を得る、あるいは言葉を超えてしまう瞑想をするのが菩薩なのだから、実はそれはもうまったく一体のことなのだ。だから「般若波羅蜜と瞑想と菩薩は、ある意味ですべて同じことだ」というのである。

 私たちはどうしても、菩薩は菩薩として個別の人間性を持っていて、ある人が菩薩だということは、それはその人が般若波羅蜜を得ていて、かつサマーディをやっていることだと思いがちであるし、それから、特定の菩薩という人格とは別にどこかに般若波羅蜜があり、別に三昧があると思いがちである。しかしそうではなく、「般若波羅蜜は即ち是れ三昧」であり、「三昧は即ち是れ般若波羅蜜」であり、「菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧」なのだ、という。

 私たちは抽象的に言葉で捉えることで、「般若波羅蜜」や「三昧」という個別のものが「菩薩」とは別にあって、「菩薩がそれを修行する」あるいは「それを獲得する」というふうに考えてしまいがちだが、そうではなく、「もうそれそのものが菩薩なのだ」と。しかし、仮に言葉ではいちおうそれぞれを区別して言うほかないのである。

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『サングラハ』第197号が出ました

2024年10月06日 | 広報
目次

 ■ 巻頭言 …… 2
 ■ 近況と所感 ……岡野守也 … 3
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(4) ……岡野守也 … 6
 ■ サンカーラの発見(1) ……羽矢辰夫 … 16
 ■ グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
  ――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(12) ……増田満 … 18
 ■ 私のサングラハでの学び(7) ……毛利慧 … 22
 ■『サングラハ』に入会して(1) ……杉山喜久一 … 24
 ■ 森のさんぽとコスモロジー ……横山昌太郎 … 28
 ■ サングラハと私(12) ……三谷真介 … 32
 ■ 講座・研究所案内 …… 43

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