さて、唯識によるインフォームド・コンセントの手続きを続けましょう。
私たちは、熟睡したり、泥酔したり、気絶したり、昏睡状態になったりすると、意識がなくなります。
もちろん五感もほとんど働かなくなります。
思わず知らず自分にこだわってしまうというマナ識でさえ働きません。
(眠りが浅かったりすると、目が覚めてから、どうもマナ識的欲望から生まれたにちがいないという気のする変な夢を見たりすることはありますが……。)
8つの心の領域・八識のうちの7つまでは休止してしまいます。
しかし、目が覚めたり、酔いが醒めたり……すると、意識が戻ります。
意識が戻ると、マナ識の働きも戻ります。
さて、熟睡、泥酔、気絶、昏睡状態の時、意識はどこに行っていたのでしょうか?
戻ってくる以上、完全に無くなっていたのではなく、どこかに行って、休んでいたと考えるほかありません。
唯識学派の人々は、1つ、そういう日常的な事実に基づいて、そこから意識が出てきたり、そこに意識がこもったりするような、マナ識よりも深い心の底を想定するほかないと考えたのです。
わかりやすく譬えれば、朝、仕事が始まる時に車を出し、夜、仕事が終わったらまた入れておく、車庫のような、心の倉庫・蔵があるというわけです。
誰でも知っている「ヒマラヤ山脈」というのがありますが、これは「ヒマ=雪」の「アーラヤ=蔵」という意味です。
その「アーラヤ」という言葉を使って、そういう心の奥の蔵は「アーラヤ」識と呼ばれました。
それは、意識的な心ではありませんが、その元になっているのですから、より根源的な心・識といってもいいでしょう。
そういう意味で、「識」を付けて、アーラヤ「識」といわれるわけです。
こういうふうに説明されると、「アーラヤ識」が唯識学派とか仏教にだけ通用する特殊なコンセプトではなく、人間誰にでもある心の深層領域を指し示す普遍的な言葉であることが理解できるのではないでしょうか。
(学んでみると、こういうふうに、仏教の核にある教えは、非常に哲学的・理性的で普遍・妥当性の高いものであることが納得できます。)
*写真は、松江風土記の丘の縄文住居の復元
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