数日前から、ようやく本格的に『仏教とアドラー心理学』(仮題、佼成出版社より今秋刊行予定)の仕事(ワーク)にかかっています。
構想はすっかり出来ていますし、ベースとして『サングラハ』に掲載した講義録もあり、夏休みの初め頃から、ぼつぼつ、断続的にやってはいるのですが、身の周りで優先しなければならないことがいろいろ起こり、なかなか集中できなかったのです。
ホフマン『アドラーの生涯』(岸見一郎訳、金子書房、2005年、7400円)という分厚い伝記を参照して講義原稿の伝記的な部分に手を入れる作業をしながら、以下のアドラーの言葉を読んで、アドラーのアイデアがいかに先駆的であったか、改めて感心しています。
「病気の子どもたちを治療することではなく、健康な子どもたちが病気にならないように予防することが、医学の論理的で高貴な挑戦である。」(アドラー「教育者としての医師」、1904年)
これは、1904年、100年以上前の論文です。
子どもたちの心の病・荒廃に対して、日本は100年以上遅れているのではないか、と思ってしまいました。
相も変わらぬ、断片的な知識の詰め込み、受験競争、「意図しない、しかし必然的な結果」としての劣等感、自信喪失、落ち込み、社会への怒りと敵意等々を抱いた若者の大量生産……掛け声だけは「教育改革」……、あーあ。
これは、翌1905年のアインシュタイン・一般相対性理論の持つ意味――エネルギー・レベルで見ると宇宙のすべては一体であるということ――が、日本の子どもたちに標準的な「普通教育」として伝えられていないことと対応しているように感じます。
もっとも2500年前のゴータマ・ブッダの「縁起の理法」の教えが人類の標準的常識になっていないのですから、100年くらいの遅れなど、驚いたり、嘆いたりするには当らないのかもしれません。
今度の本では、縁起の理法とアドラーの「共同体感覚」そして「勇気づけ」を統合的に理解し、現代人のための方便として使うといいのではないか、という提案をしたいと思っています。
提案が日本の仏教界、心理学界、教育界などに本格的に受け容れられるには、まだまだ時間がかかりそうですが――前著『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』への反応を見ていてもそう思われます――宇宙にはたっぷり時間があるので、焦らないことにしています。
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