人類は宇宙の自己認識-自己感動-自己覚醒の器官である?

2005年11月30日 | 生きる意味

 さて、今日の授業で、「つながり・かさなりコスモロジー」の話はひとまず終了です(授業はまだ続きます)。

 繰り返すと、物質自体が一つにつながった宇宙の一部であり、しかもそれは生命のないモノにとどまってはおらず、やがて生命に進化し、さらに生命の中から心を持った存在を創発させてきました。

それが、「つながり・かさなりコスモロジー」の目で見た、物・生命・人間の本質です。

 だから、一人一人の人間は宇宙137億年の歴史を担っていて、宇宙と一体であり、「宇宙の子」だと確実に言えるのです。

 これは、気づくとすごいことです!

 しかし、このすばらしい事実に、人間はどのくらい気づいてきたでしょうか?

 えらそうに言っている私を含めて、ほとんどの人間が気づいてこなかったし、いまだに気づいていない、と私には見えるのですが、みなさんはどうお考えですか?

 そこで注目してほしいのは、11時59分54秒のゴータマ・ブッダの誕生です。

 ゴータマ・シッダルタ(出家前の名前)は、〈縁起の理法〉を覚って、覚った者=ブッダになったといわれています。

 〈縁起〉とは、すべてが縁=つながりによって生起しているということです。

 つまり、宇宙はすべて一つ、すべてはつながっているということですね。

 ゴータマ・ブッダはそのことにはっきり目覚めた人類のもっとも先駆的な存在であり、その目覚めを〈縁起〉という言葉で表現してくれたのだと言っていいでしょう。

 (インドでは、例えばその前にすでに『リグ・ヴェーダ』を書いた名前の知られていない賢者など、もっと前に気づいていた人もかなりいたようですが)。

 誤解しないでいただきたいのは、筆者はここで特定宗教としての仏教の宣伝をしたいわけではないということです。

 そうではなく、これまでの話のつながりからすると自然に、「宇宙は137億年かけて目覚めた人=ブッダを生み出した」ということになる、と指摘したいのです。

 (これは、会った時にK・ウィルバーが言っていた「宇宙は150億年かけて道元を生み出した。すごいと思わないか?」という言葉の転用です。著作権表示をしておきます。)

 これは、現代科学の知見を基に推測していることですが、ほぼ確実に事実と見なしていいのではないでしょうか?

 そして、このことが意味しているのは、人類という存在は、ブッダのように「宇宙と私は一体だ」という目覚めに到る可能性・潜在力を持っている、ということではないでしょうか?

 人類の意識の発達・進化は、原人のような呪術的な心や古代や中世の人のような神話的な心、あるいは近代・現代人のような合理的な心の段階でとどまるものではないようです。

 そして大まかな言い方をするとブッダと同時代に、中国の老子、孔子、ギリシャのソクラテス、イスラエルのイザヤやエレミヤといった旧約聖書の預言者たちなど、世界のいろいろな文明圏で多くの賢者が登場しています。

 哲学者カール・ヤスパースは、人類の思想にとってこの時代は「枢軸の時代」である、と言っています。

 それから、今から約2000年前、11時59分55秒には、イエスが生まれています。

 イエスという人は、一言でいうと「神と私は一体だ」ということを自覚した人だ、と私は捉えています。

 そして、イエスのいう「神」とは、神話的な、天上のどこかにいる、白いひげの光り輝く超能力のおじいさんなどではなく、「全宇宙(コスモス)」のことだ、と解釈しています。

 そうした人類史に現われた賢者たちが、表現はいろいろですが、内容としては口をそろえたように、人間と宇宙との一体性を語っているようです。

 しかし、人類全体の平均的な意識としては、まだほとんどそのことに気づいていません。

 でも、はっきりと気づいた人もすでに先駆的にかなりの数登場しているのです。

 そしてここで重要なことは、彼らはおそらく私たちと生理的に違う脳を持っていたわけではなく、ただ心・意識の働き方・気づきのレベルが深かっただけだ、と思われることです。

 もしそうだとすれば、人類、特にその心の進化は、まだ現代の私たちの平均的な意識で終わりではないということになります。

 すべての人が、「宇宙と私はつながって一つだ」、したがって、「他の人とも、他の生命ともつながって一つだ」という自覚に到る可能性を秘めていると思っていいのではないでしょうか。

 そういう自覚のことを〈宇宙意識〉と呼びます。

 しかも、ここで最後にもう一度思い出しておきたいのは、人間は心も含めて宇宙の一部だということです。

 ですから、人間が宇宙を認識するということは、宇宙の一部が宇宙を認識しているということです。

 それはつまり、宇宙が人間の意識を通じて自分を認識しているということになります。

 だとすれば、さらにいうと、「人間は宇宙の自己認識器官だ」ということにもなります。

 もしかすると、人間は、宇宙が「そうか!私は宇宙だったんだ!」と自己確認・自覚するために、宇宙自身の内部に創造したものなのかもしれません。

 ……と、この授業の元になっている『宇宙と私のつながりを考える』というテキストを書いた時点では、ここまで考えていました。

 その後で、「ところで、人間の心がしているいちばん価値あることは何だろう? 認識することだろうか? いや、それよりも、美しいものやすばらしいものに驚き、感動している時がいちばん価値あることをしていると言えるのではないか?」と思うようになりました。

 そういう視点から見ると、人間・私が何かに感動しているということは、感動している私もその何かも宇宙の一部ですから、宇宙のある一部が宇宙の他の一部に感動している、ということになります。

 つづめて言えば、「宇宙が宇宙に感動している」わけですね。

 だとしたら、もしかすると、宇宙は単純に一つの宇宙のままだと自分で自分を見て感動することができないので、自分の中にあたかも自分でないかのような部分を創って、自分で自分を見て感動することができるようにした、と考えることもできるのではないでしょうか?

 「心をもった存在・人間は、宇宙の自己感動器官である」と言っていい、と私は思うのですが、いかがでしょうか?

 さらにブッダなどのことまで考えると、「人間は宇宙の自己覚醒器官になるために意識進化の途上にある存在である」とも言えそうです。

 これは、もちろんもう現代科学の標準的仮説の紹介ではなく、それを元にして、それと矛盾しないかたちで、その先まで、私や仲間たちが考えていることです。

 ともかく人類は、そういう大変な可能性を秘めた、しかしまだ未完成の作品です。

 だから、まだ傑作か失敗作か最終的な結論を出すことはできないのではないでしょうか?

 どちらになるかは、これから人類の多数が「宇宙と自分のつながり」に気づいて、それにふさわしく生きるようになるかどうかにかかっています。

 そして、気づくかどうかは、まず一人一人の問題であり、課題であると、私はそういうふうに考えています。

 もし人類の――特にリーダーの――多くが、宇宙との一体性に気づいたならば、近代のもたらした深刻な3つの問題、環境破壊、戦争、ニヒリズムは、根本的に乗り越えることが可能になるのではないか、と思われます。

 「傑作か失敗作か」という二者択一的な問題設定をしておいて、「どちらとも言えない」という解答例を出すのは、ちょっとイジワルに感じた方もいるかもしれません。

 もしそう感じたら、失礼!! そんなつもりではなかったんですけどね。

 みなさんも、この解答例を参考にして、ご自分の答えを見つけてください。


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I have a dream!

2005年11月29日 | 歴史教育

 今日も朝から大学の授業で、ゆっくり記事を書けません。

 もったいぶるわけではありませんが、人間は宇宙の傑作か失敗作かという問いへの私の解答例はもう少し待って下さい。

 授業は、前期でほんとうの自信とは何かとコスモロジーが終わり、後期、仏教の心理学・唯識の概説も終わったところです。

 今年は残念ながらついてこられなくなった学生もかなりいますが、それにしてもついてくる学生はちゃんとついてきています。

 今日は「無住処涅槃」という大乗仏教の目指す究極の境地の話をしました。

 かなり高度な内容なのですが、大半の学生がしーんと聴き入ってくれました。

 個人の人生の「目標」や「夢」ももちろんあったほうがいい。

 しかしそれを超える、社会をよくしたいという「理想」というのがある。

 そのためには自分の人生すべてを捧げてもいいという心を「志」という。

 さらにもっとすごいのが、生きとし生けるものすべてが幸せになるまでは、あえて果てしなく生まれ変わり死に変わって輪廻し続けるという境地=無住処涅槃という大乗のコンセプトです。

 そういうすごい話が大乗仏教にはあるんですね…と。

 こんな今時受けそうもない話に聴き入っている彼らの様子を見ていると、聖徳太子や聖武天皇や行基…などの努力が千数百年をへて、伝わり実るかもしれないと、期待を抱かせられます。

 「美しい日本」を創りたい若者はいる、いてほしいと思いながら、仕事を続けています。

*写真は鞍馬の紅葉

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人間は宇宙の最高傑作か失敗作か?

2005年11月24日 | 歴史教育

 ところで、「人間は宇宙が137億年かけて作り上げてきた作品だ」、そして少し先取りして「労作だ」とも言いました。

 しかしよく考えてみると、作品といっても傑作もあれば失敗作もあります。

 いったい人間はどちらなのでしょう?

 「傑作」とか「労作」というに値するのでしょうか?

 人類史のポイントをごく大まかに見てみましょう。
 
 (この年表は、セーガンのものに増補訂正を加えたものです。数値は宇宙150億年といわれていた時のものですが、大まかな感じはつかめると思います。)

 12月31日の詳細

11時59分16秒   農業の発明、奴隷制の発生
              
11時59分33秒   新石器文明、最初の都市、森林破壊の始まり
      
11時59分49秒   シュメル、エブラ、エジプトに最初の王朝、占星術発達
 
11時59分50秒   アルファベットの発明、アッカド帝国
         
11時59分51秒   バビロニアのハンムラビ法典、エジプトの中期帝国
   
11時59分52秒   青銅鋳造、ミケネ文化、トロヤ戦争、オルメカ文化〔大型彫刻を残したメキシコ             文化〕、羅針盤発明
               
11時59分53秒   鉄鋳造、アッシリア帝国、イスラエル王朝、カルタゴ創設

11時59分54秒   老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ゴータマ・ブッダの登場
                          
11時59分55秒   ユークリッド幾何学、アルキメデスの物理学、プトレマイオスの天文学、ローマ             帝国、イエスの誕生、大乗仏教の興隆
    
11時59分57秒   インドでゼロと十進法、ローマ没落、イスラム帝国   
11時59分58秒   マヤ文明、中国の宋朝、ビザンツ帝国、モンゴル帝国、十字軍

11時59分59秒   ルネッサンス、ヨーロッパと明朝による探検航海、科学での実験の方法

現在すなわち新年   理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地化-地球化、世界大戦、             核兵器、環境破壊                    

 こうして見てみると、人間は、文明の始まった時にはすでに身分制、奴隷制をつくって、人が人を支配・抑圧・搾取するということを行なっていたようです。

 これは、どう考えても、あまりいいこととは言えないのではないでしょうか?

 そして長い間――たぶん5000年以上1万年くらい――そういうことを続けてきました。

 すべての人には生まれてきただけで人権があるという考えや民主主義が世界的な標準になったのはごく最近のことなのです。

 しかも、まだ世界中で完全に実現されてはいないのですね。

 一方では、人権のなかでも最低限であるはずの生理的な意味での生存権さえも十分保証されていない飢餓状態の人々が多数いる国々があり、もう一方では食べすぎてダイエットをしなければならない人のたくさんいる国々もあります。

 これでは、世界的な規模で平等・公平・公正が実現されているとはお世辞にもいえないではありませんか。

 また、古代の帝国の誕生はいうまでもなく戦争の結果です。

 残された文化遺産を見ると、確かに「輝かしい」と表現されるような面も確かにあるのですが、それらを作るための富の相当部分は戦争と搾取によって獲得されたもののようです。

 しかも、おそらくそれ以前の部族、氏族国家の頃から、人間は戦争をし続けてきたらしいのです。

 日本はここ50年あまり直接戦争に関わっていないので実感がないかもしれませんが、特に20世紀、人類はかつてない規模の世界戦争を2度も行なっています。

 そして、21世紀になっても、人類全体としては戦争を完全にやめることはできていません。

 それどころか、幸いにして広島と長崎以後は使われてはいませんが、いまや人類が何十回も絶滅・自殺できるほどの核兵器があるようです。

 もちろん、国際連盟、国際連合、その他、様々な世界平和の努力は行なわれてきています。

 幸いにして、今のところ、大規模な全面戦争は行なわれていません。

 しかし、「紛争」や「テロ」という名前の小規模の戦争は以前として収まらず、全面的な戦争の廃絶-恒久平和という人類の理想はなかなか実現するようには見えません。

 さらに、農業の発明以来、人間は様々な技術によって、自然をコントロールし、豊かな生活を作り上げてきましたし、その富を基礎にして様々な芸術・文化も創造してきました。

 しかし、古代文明は例外なくといっていいくらい、森林を滅ぼして自滅したようです。

 「文明の後には砂漠が残る」という言葉さえあるくらいです。

 特に近代文明は、2~300年の産業活動によって、自然を汚染し、自然資源を使いつくし、人類自身の生きる基盤を壊そうとしているのではないか、と私には見えます。

 人類の文明の繁栄は、どうも、自民族・自国民の搾取か、他民族・他国民の侵略・略奪か、さもなければ人間以外の自然の侵略・略奪・破壊によって築かれたという面があることは否定できないのではないでしょうか?

 こうして人類史をおおまかに見ただけでも、いったい人間は宇宙の傑作なのかそれとも失敗作なのかという疑問が浮かんできませんか?

 その答えは、当然、みなさんそれぞれが出すべきものですが、次回、最後に参考として筆者の解答例をお話しすることにしたいと思います。


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「ばらばらコスモロジー」と「つながり・かさなりコスモロジー」

2005年11月23日 | 生きる意味

 近代科学主義の世界観は、すべてをばらばらなモノに還元する傾向があるので、私はわかりやすくするために「ばらばらコスモロジー」と呼んでいます。

 私たちは、戦後教育の中でそうした近代科学主義的な世界観ばかり学んできたために、宇宙と自分を分離したものと思い込みがちです。

 しかし、これまで大まかに見てきたように、現代科学の標準的な仮説を総合して考えると、「宇宙と私たちはつながって1つ」というほかありません。

 ほんとうの全宇宙は今、事実として、いのちのないばらばらのモノだけで出来ているのではありません。

 宇宙は私たちとつながっていますし、そもそも私たちは宇宙の1部で、宇宙は私たちを含んでいるわけですから、宇宙は私たちのいのちと心を含んでいます。

 そういう意味で、現在の宇宙にはまぎれもなくいのちと心があるというほかありません。

 「宇宙にはいのちと心がある」というと、とたんに「え? 怪しい!」と反応される向きがあるかもしれません。

 しかし先にも言いましたが、これは、神秘的・オカルティックな意味で暗黒の空間に無数の星が輝いているという物質的な宇宙に生命とか意識といったものがある、という意味ではありません。

 より詳しく言うと、宇宙にはその一部としての私たちというかたちで、いのちと心がある、ということです。

 このことを遡ってよく考えると、宇宙は最初のビッグバンの時点で、すでに物質だけでなくいのちと心を生み出す潜在的可能性も持っていたと考えるほかありません。

 そして、エネルギーを基礎にして物質が創発し、物質を基礎に生命が、生命を基礎に心が、というふうに積み重なりながら創発・展開してきたのが宇宙137億年の歴史だ、ということになります。

 そのことを私自身に引き付けて考えると、宇宙は最初から私を生み出す潜在的可能性を持っていた、そしてその可能性は今現実性になっている、ということになります。

 そして私が今・ここにいるという現実から逆に遡って考え、やや比喩的な表現をすれば、「宇宙は始めから私を生みたかったから生んだ」ということも無理なく言えるのではないでしょうか?

 そういう世界観を私は「つながり・かさなりコスモロジー」と呼んでいます。

 これは非科学的なロマンチシズムなどではなく、現代科学の標準的な仮説を十分に含んだ上でその先まで考えている、そういう意味でとても現実的・合理的な宇宙解釈だと私は考えています。

 「私とは、すべてモノにすぎない宇宙の中で、ばらばらのモノが偶然にも組み合わさってこういう形になったモノにすぎない(そして、やがて解体してばらばらのモノになってしまうだけだ)」という自己観と、「宇宙は始めから私を生みたくて137億年もかけて生んでくれた(だから、生まれる前も、生きている今も、死んだ後も、宇宙とつながっており、宇宙に包まれているのだ)」という自己観と、どちらが人生に意味を感じさせてくれるでしょう?

 みなさんは、現代科学的で現実的・合理的な根拠があり、そして人生に意味があると感じさせてくれるコスモロジーと、近代科学的で限定された合理性があるにすぎず、そして人生を無意味だと思わせてしまうコスモロジーと、どちらがお好みですか?

 そして、どちらを選択することが、たぶん一回きりの人生を生きて死ぬ個人としての人間にとって、賢いことだと思われますか?

 学生たちには、こう言います。

 「僕は、いちおう思想の自由ということを重んじているから、もちろん、選択は諸君の自由だと思うよ。でも、どちらが妥当でかつ自分にとって得なんだろうね?」と。

 ネット学生のみなさんは、どちらを選択されるでしょう?

 ……ちょっと結論のまとめ風になってきましたが、コスモロジーの話はまだもう少し続きます。よろしければ、続けておつきあいください。

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なぜ、いのちは大切か?

2005年11月22日 | いのちの大切さ

 人間は、言葉をもった時から、「あれは何?」、「これはなぜ?」という問いを発するようになったと思われます。

 本来・生まれつき与えられた能力つまり「本能」だけで生きている生物が、物事やいのちそのものに疑問をもつということは考えられませんね。

 まあ、例えば、夏、地面を歩いているアリが何かにぶつかって、「これは何だろう? 食べられるかな?」といったふうに首をかしげ、触手をいろいろに動かしている、といったことはあります。

 でも、彼らが「オレは、何のためにこの暑い日盛りにこんなに苦労して働かなければならないんだ?」とか、まして「何のためにこんなつらい人生、いや蟻生を犠牲を払ってまで――これはつまらない駄洒落ですが――生きなければならないんだ? もう死んだほうがましだ」とか考えるとは思えません。

 「なぜ、いのちは大切か?」といった問いは、言葉を使って生きている人間だからこそ問う問いでしょう。

 そもそも「なぜ」も言葉ですし、「いのち」も「大切」も言葉です。

 言葉を使わなければ、問うことさえできません。

 進化の、言葉が創発した段階で、「なぜ、いのちは大切か?」という問いも創発したのです。

 ところで、「なぜ、いのちは大切か?」という問いと、「なぜ、人を殺してはいけないか?」という問いは、おなじ問題の表と裏だといっていいでしょう。

 「いのちは大切」だから、「人を殺してはいけない」ということになるのですね。

 では、「いのち」とは何か? 「大切」とはどういうことか? それが言えなければ、「人を殺してはいけない」ということも、はっきり言うことができません。

 「人を殺してはいけない」というのは、もっとも基本的な倫理であり、それをはっきりさせることができなければ、実はほかの倫理的なことがらもはっきり語ることはできません。

 そして、倫理を語ることができなければ、実は「こういうふうに生きるべきだ」、「こういうふうに生きるといいよ」と子どもを教育・指導することも、本質的にはできないはずです。

 現在そうしたことが曖昧なままでも教育が成り立っているように見えるのは、ある年齢までの大人の中では既成の倫理観が「当たり前」のこととして自明化されたままそこそこ共有されているからだと思われます。

 しかし、次第に若い世代ほど「当たり前」のこととして共有されなくなってきているようです。

 倫理観の共有がいちばん底のところで崩壊してきているのではないか? と私は考えています。

 やや哲学的に難しげな言葉でいうと、「自明性の喪失」・「自明性の崩壊」という状況です。

 教育に責任のある立場のみなさんには、ぜひ、この「自明性の崩壊」を自覚的に捉えて、根本的な対処の方法を考えていただきたいと願っています。

 現代の日本がそういう状況にあるからこそ、もう一度「いのちとは何か?」、とりわけ「人間のいのちとは何か?」が、共有できるかたちではっきりさせられる必要がある、と思うのです。

 そうしないかぎり、教育の崩壊状況――それが若年層における深刻な問題・事件を引き起こしている大きな原因だと思われますが――をとどめ、再建することは不可能ではないでしょうか。

 この公開授業の目指すところは、現代科学の成果をベースにしながら、宇宙=コスモスの複雑化の到達点としての「人間のいのちとは何か」を明らかにすることです。

 そういう試みを、「つながり-重なりコスモロジー」あるいは略して「コスモロジー」と呼んでいます。

 今回、あえてまたブログ・タイトルを変えさせていただき、そういった趣旨を直截簡明に示すものにしました。

 教育・思想に関わる方々、父母のみなさん、そして若者諸君に、メッセージが伝わることを心から祈っています。

*余談ですが、できるだけたくさんの人に伝えたいという意図で、今回、ブログのカテゴリーも変えてみました。
ブログ村の哲学ブログ部門では、お陰さまで早速1位になることができました。「つまらないプライド(マナ識)」と思いながらも、くすぐられて素直に喜んでいます。
 しかしもちろん主たる意図は、できるだけたくさんの人に伝わること、その結果たくさんの人が元気になってくれることです。
 ご賛同いただける方、ぜひ、クリックして協力してください。

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言葉の栄光と悲惨

2005年11月21日 | 心の教育

 ところで、人間が言葉を使って文化をつくることには、大きな長所と同時に短所があると思われます。

 世界の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という構造になっているそうです。

 とりわけ、名詞・代名詞を使って世界を見るということが問題なのです。

 言葉を使い始めた人間は、一つにつながった宇宙のあるかたちをもった部分に「名前」をつけて認識するようになります。

 例えば一本の木は、先祖のバクテリア―植物―その種の木の先祖という数十億年のいのちのつながりの中で、今、「一本の木」というかたちをしています。

 また、その木が生えているための大地、吸収するための大地に降った雨、二酸化炭素を吸収し酸素を排出するための大気、光合成によってエネルギーを得るための太陽の光……など無数のものとのつながりによって、ある一定の時にその場所で「木というすがた」を現わしています。

 それがほんとうのところではないでしょうか?

 つまり、時間的にも空間的にも、その木はその木ではないものによってその木になっているのですね。*1

 ところが、それを「木」という名前=名詞を使って認識したとたんに、大地とも雨とも大気とも太陽ともつながっていない「木そのもの」が、独立・分離的に存在すると見えてくるのです。

 もちろん、ある「木」は、他の木と区別はできますし、大地などほかの「モノ」とも区別できます。

 しかしよく考えると、分離はしていない、できませんね。

 自然のほかの部分と分離したら、木は枯れてしまう、それどころか、そもそも生えてくることさえできないのです。

 そういうふうに、人間の言葉には、ほんとうはつながっているものを分離していると見せてしまうという根本的な欠陥があるようです。

 区別・区分はあるし、できるが、分離はしていないし、できないはずの一つの宇宙を、「ばらばらに分離したモノの組み合わせ」と見せるのです。

 仏教は、言葉による分離的なものの見方を「分別知」と呼び、智慧というよりはむしろ根源的な錯覚・無知・「無明」と捉えています。

 その洞察は、どうも根本的に当たっていると私には思えるのですが、どうでしょう?

 とはいっても、分別知には一定の、そうとうな有効性があり、人間の文化、特に近代の科学と技術の基礎になっているといっていいでしょう。*2

 自然を「分析」して部分に還元し、その「仕組み=メカニズム」が「分かる」と、それを人間のつごうのいいように組み換えることもできるようになります。それが、「技術」の基本です。*3

(それが極限に達しつつあるのが「遺伝子の組み換え技術」だと思われます。)

 そういう意味で、言葉はまぎれもなく人間が形成してきた文明の基礎です。

 しかし同時に、ほんとうは一つにつながったものを分離していると見る見方から、人間同士の中に敵と味方という分離した見方→戦争、人間と自然・宇宙の関係に対立や利用という分離した見方→環境破壊が生まれてき、また「宇宙とつながった、宇宙の一部としての私」ということが忘れられ、「分離し・孤立し、やがて解体してしまう、ただのモノの組み合わせにすぎない、空しい私のいのち」というニヒリズム的な錯覚が生まれるのではないでしょうか。*4

 人間が言葉を持ったということは、大変な栄光と同時に、恐るべき悲惨をももたらしている、と私は思うのですが、みなさんはどうお考えになりますか。

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人類――言葉と道具と火を使う動物

2005年11月20日 | いのちの大切さ

 12月30日、霊長類の脳で前頭葉の初期進化が始まります。

 12月31日、宇宙カレンダーの最後の日になって、ヒト科に属す生物がようやく創発します。

 第3紀が終わり第4紀(更新世、完新世)に、いわゆる「人類」が創発しました。

 もう少しくわしくいうと――このあたりは説がいろいろでまだ学会でほぼ合意された「標準的仮説」というのがないようですが――午後0時30分、プロコンスルとラマピテクスが誕生しています。これは類人猿と人類の祖先ではないかといわれてきました。

 現生人類――生物学上の分類でいうと「ホモ・サピエンス・サピエンス」というんだそうですが――の登場は、宇宙カレンダーの最後の最後、説によってかなり幅がありますが、1000万年から200万年くらい前です。

 250万年前としておくと、午後10時24分、もっとも古く1000万年前でも午後5時半ころです。

 こういうふうに見てくると、人類は宇宙の歴史の中で、そして生命の歴史の中でもごくごく新米だということがわかります。

 考えてみると、人類の歴史はほんとうに短いのですね。

 だから、近代人がやってきたような偉そうな顔はあまりしないほうがいいんじゃないか、と私は思っています。

 しかしそこまでに、エネルギーから素粒子、素粒子から原子、原子から分子、分子から高分子、そして高分子から遺伝子つまり物質から生命が創発し、細胞、細胞から器官、生命の歴史の中で生命からやがて哺乳類的脳と心、それから霊長類的な脳と心、人類の脳と心が創発し……と、ずうっと大変な積み重ねが、やっと人間という存在に達しています。

 しかも、原人以来の人類の積み重ねが現代文明まで到達しているわけです。

 そういうふうに、いわば積みあげ重なって複雑化してきた、つまり高度に発達してきたのが人類です。

 ですから、そういう意味でいえば、やっぱり人間はすごいと思います。

 進化学者のG・C・シンプソン(『進化の意味』草思社)は、こういっています。

 「人間が動物であると認識することは大切であるが、人間独自の本質はまさに他のどんな動物にもみられない特徴の中にあることを認識することはさらに重要である。人間の自然における地位と、その地位のもつもっとも重要な意味とは、その動物性によってではなく、人間性(ヒューマニティ)によって規定される。」

 最初の人間が、大脳新皮質、特に前頭葉を発達させて、シンボルや言葉を使うことができるようになったのが、31日の午後10時24分、夜もやや更けてきたころです。

 石器つまり道具を使うことが普及したのが10時54分ころ。

 原人が火を使ったのが11時2分(最近の再調査では、北京原人は私たち現生人類の直系のご先祖様ではないという説が有力になってきているようです)。

 かつて、「人間は、言葉と火と道具を使う動物だ」といわれてきました。

 使わないと、人間らしい生活ができないのです。

 そういう、火を使う、道具を使う、言葉を使うという人間の条件がやっとそろったのが11時45分です。

 (これも最近の研究で、チンパンジーも例えば枝を細工して木の実をたたき落とす棒=「道具」として使うことがあるとわかったので、この定義は少しあいまいになりましたが)。

 その場合、それらを使うか使わないかも、今の私たちには選択の余地はありません。

 火(エネルギー)を使わない、道具を使わない、言葉を使わないという自由選択の権利はないし、必要ないのですね。

 積み重ねられてきた進化の遺産は相続しない権利はなく、相続する義務しかないし、それは不自由なことではなく、だからこそ生きられるのです。

 どれもそうですが、特に言葉はそうです。

 言葉を中心とした「文化」なしには、人間は人間らしく生きること、それどころか生きることそのものができません。

 かつて「ブッシュマン」と呼ばれてきた「サン族」のようなきわめて原始的な生活をしている人でも、この件に関してはまったくおなじです。

 言葉や文化を担った存在であるという点についても、私たちは自由ではないのです。

 それこそ人間が人間であるための条件・「人間の条件」なのです。*

 言葉と文化によって、人間は環境と本能にしばられた〈動物〉から、さまざまな生き方の選択の幅・自由を獲得した〈人間〉になったと考えてまちがいないでしょう。

 これもまた、大きな進化の飛躍です。

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宇宙の労作としての脳と心

2005年11月19日 | いのちの大切さ

 少し戻りますが、12月25日頃、最初の哺乳類が登場しています。

 哺乳類では、私たちの脳でいうと脳幹の上にある大脳辺縁系が大きくなってきますが、この大脳辺縁系に感情の中枢があるといわれています。

 それから、12月29日になって最初の霊長類が生まれ、12月31日にやっとヒト科の生物が生まれるのです。

 ここで、ヒトがヒトになる(「ヒト化」といいます)決定的条件としての、直立二足歩行→前肢が自由になり手になる→手の働きで大脳が刺激され大きくなる→大脳の新皮質や前頭葉が発達する→言葉を使えるようになる→文化が生まれる、ということが始まったようです。

 普通人間的なものとされている思考と意識の中枢が前頭葉あたりにあることは、それを切除してしまうと物事を考えたり決定できなくなることからしても、脳科学的にはほぼまちがいないようです。

 心をすべて脳の働きに還元できるとは思えませんが、私たちが普通にわかっているこの意識・この心がこの脳の働きに支えられていることは確かでしょう。

 それは、例えばすばらしい名画が絵の具とキャンバスを素材にしているのといくらか似ているかもしれません。

 確かに素材にはなっていますが、名画が元の絵の具とキャンバスに還元できないことは明らかです。

 すばらしく美しい絵の描かれているキャンバスの裏を見て、「ただの板じゃないか」といったり、表を見ても、「こんなキャンバスと絵の具なんか、画材店に行けば、たったの○○円で買える」とか、ましてばらばらに切り裂いて「ただのモノの寄せ集めにすぎない」などといったとすると、それは美術がまるでわからないあまりにも無趣味であまり賢いとはいえない態度です。

 それに似て、「心は脳の働きにすぎない」というのはとても短絡的な考えだ、と私は思っています。

 心は確かに脳の機能を基礎にしているが、それを超えた性質を持っていることは確かです。

 話はもっと複雑ですが、少しわかりやすく単純化していえば、パソコンのソフトとハードの関係にも似ているかもしれません。

 ともかく、何より大事なことは、それはただのモノの寄せ集め・組み合わせというより、宇宙が137億年かけてより複雑に練りあげてきた、いくつもの創発的な出来事が積み重なった高度な達成、比喩的にいえば宇宙の作品・労作だということです。

 例えば私たちの脳は、無脊椎動物の神経組織から爬虫類の脳幹、哺乳類の辺縁系、霊長類の新皮質と前頭葉という進化の積み重ねを受け継いでいる、といわれています。

 無脊椎動物からだと7億年、霊長類からでも6~8000万年です。

 逆に遡れば、生命の40億年、地球の46億年、銀河系の100億年、そして宇宙の137億年のつながりとかさなりによって、今ここにいる私の体と心があるのです。

 宇宙の歴史をたどっていると、私がボキャブラリー貧困のせいか、その壮大さ、すばらしさを表現する言葉がうまく見つからず、「すごい!」を連発してしまうのですが、私にまでつながってきた宇宙の歴史はほんとうにすごいというほかありません。

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破壊と創造――種の絶滅について

2005年11月18日 | いのちの大切さ

 先に恐竜の絶滅の話をしましたが、同じ頃、恐竜と共に「変温動物」である多くの爬虫類も、寒さに耐えることができず絶滅しました。

 これは、恐竜や爬虫類のそれぞれの種から見ると、とても悲惨なことが起こったように見えます。

しかし、進化の歴史の中では、こういう大量絶滅はまれなことではなく、生命40億年の歴史では少なくとも13回、最近6億年でも6回も起こっているそうです。

 そして不思議なことですが、「大量絶滅」は生命の「全滅」ではなく、大量絶滅の後にかえって新しい種の進化が起こっているのだそうです。

 それまでの種が絶滅することで、その種が占めていたなわばり(「生態学的ニッチ」と呼ばれます)が空き地になり、そこに生き残った種が新しい進化を遂げながら入り込んでいくということ(「適応放散」)が繰り返し起こるのです。

 つまり、個々の種から見れば悲劇というほかない出来事が、生命全体の進化を促進するらしいのです。

 いったい、これはどう考えればいいのでしょう?

 宇宙が一つであり、一貫して自己組織化・複雑化という方向に進んでいるとすれば、一見破壊に見えることが、次の創発の準備になっているのではないか、と考えることもできます。

 もっと古い例でいえば、超新星の爆発、つまり星の死が、やがてより複雑な原子からなる新しい星の誕生を準備したのと同じように、古い生命の種の死が、新しい生命の種の創発を準備したのかもしれません。

 もっと古い例をあげると、そもそも水素原子が核融合を起こしてヘリウムになるということ自体、個々の水素原子から考えると圧力で潰れるのですから破壊です。

 しかし、個々の原子が壊れるからこそ、新しい元素が創発するのですね。

 もし、破壊が次の創発の準備であり、死が次の誕生の準備だとすれば、根源的には宇宙には不条理はない、ということになります。

 ともかく、恐竜や多くの爬虫類の絶滅がなければ、次の時代の哺乳類の繁栄はなく、哺乳類の繁栄と進化がなければ、霊長類の誕生もなく、したがって人類の誕生もありえません。

 膨大な数の種の誕生と死という大きな流れの中に、人類も、私たちの先祖も、そして私も置かれています。

 生命4〇億年の歴史、宇宙137億年の歴史は、こういうふうに今ここにいる私たちにまちがいなくつながっているようです。

 そういうことに気づいた時、私たちの心には大きな感動と、そして自分を超えた大きな何ものかへの畏怖・おそれの念が湧いてきます。

 最後に、前に引用した本の言葉をもう1カ所引用しましょう(『人類の長い旅』147~8頁)。

 「あなたのからだのなかの生命を、ほんとうのはじまりまでたどりたいのなら、あなたは、先祖の家系図をさらにさかのぼって、何万年もむかしの原始的なホモ・サピエンス・サピエンス、もっとむかしのホミニド、そのむかしの霊長類、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、ヒモムシ、最初の真核細胞、そして最後には、海のなかで自分の複製をはじめてつくった細胞まで、たどりつかねばなりません。

 はじめての生細胞からあなたまでの生命の流れは、とぎれることなくつづいています。

 あなたのからだのなかの生命は、35億年のあいだ、とどまることなくつづいてきたのです。

 あなたは生命の木のいちばんあたらしいえだのさきにいて、地球上の他のすべてのいきもののえだと、その根もとではつながっています。わたしたちのいのちのはすべてもとをたどれば、何十億年もむかしの原始の海のなかの、最初の生細胞からはじまったのですが、それをさらにさかのぼれば、最初の生細胞をつくったアミノ酸と核酸塩基、さらに原始の大気のなかでくっつきあった分子、さらには、よりあつまって地球をつくった原子、そのまえにはこの原子のもととなった超新星、そのまえには、初期の星をつくった水素原子とヘリウム原子、そして空間の微粒子、そして最後には、すべてのみちすじのはじめとなったビッグ・バンにいきつきます。

 わたしたちのからだをつくっているすべての材料は、150億年むかし、わたしたちの宇宙がはじまったまさにその時にうまれたものなのです。

 自分のてをよくみてごらんなさい。そしてそのなかの原子がいままでにとどってきた旅について考えてみてください。

 そして、これからその原子たちがたどらなければならない旅についても、考えてみてください。」

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*写真はNGC2403付近の超新星、NASA提供
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恐竜の絶滅――エレガント化するコスモス?

2005年11月16日 | いのちの大切さ

 12月26日(ジュラ紀)、それまで昆虫が飛んでいただけの空に鳥が飛びはじめます。鳥類の創発です。

 この頃の鳥は、私たちの目から見るとかなりグロテスクな姿をしていたようですが、可愛らしい小鳥たちもこういうご先祖さまから進化したのだと思うと、とても不思議な気がします。

 ここで注目すべきことは、それまで1億年以上、圧倒的な繁栄を誇っていた恐竜が、12月28日から30日(白亜紀末)にかけて絶滅したということです。

 そして、ちょうと恐竜が絶滅しはじめた頃、地上には花が咲き始めるのです。

 いろいろな推測がなされてきましたが、最近の有力な説では、大型の隕石か彗星が地球に衝突し、巻き上がった大量のチリやガスで成層圏が覆われ、太陽の光が遮られて、地表が急激に冷えたことが最大の原因のようです。

 植物は育たなくなり、その結果大量の植物を必要とした草食性の恐竜が絶滅し、それを食べる肉食性の恐竜も絶滅したのではないかと考えられています。

 地上に花が咲きはじめたことも、恐竜の絶滅に影響を与えているという説もあるそうです。

 それは、スギなどのような裸子植物は風で花粉を撒き散らすことで受粉し、子孫を残すため、なるべく高く伸びたほうが有利なのです。

 ところが、そのために高く伸びたら、それに合わせて恐竜の首も伸びて、ばりばり食べられてしまうようになったらしいのです。

 そこで、植物は被子植物になって、昆虫を花と蜜で誘って受粉を手伝ってもらうという戦略を編み出したようです。

 そうすれば、背丈が低くてもいいので、いったん首が伸びた恐竜にはとても食べにくくなった、ということのようです。

 花が咲くようになったことが、恐竜の食糧難をもたらした、という面があるらしいのです。

 不思議で面白いことですね。

 このあたりのことを学びながら、私は、鳥や花がいない地球のままだったら、どんなにかつまらないのではないか、と思いました。

 そして、コスモスの自己組織化・自己複雑化は、もしかするとより美しくエレガントなものを生み出すという方向に向っているのではないか、という気がしてきたのです。

 鳥や花の進化も、どうもそうなっているような気がするのですが、これは科学者の共通見解ではなく、あくまでも私の感じです。

 しかしそれにしても、「ゆっくり、じっくりと時間をかけながら、自己をますますエレガントに装っていくコスモス」とか「ゆったりと花開いていくコスモス」というイメージは、実に素敵だと思われませんか?

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若者は希望の星

2005年11月15日 | 心の教育

 今日も大学の授業と自分のところの研究所の講座とで、一日働いています。

 授業が終わって、将来政治家になりたいという頼もしい女子学生と立ち話をしていて、「授業はどう?」と聞くと、たぶんお世辞ではない輝いた顔で「すごく楽しいです」と答えてくれました。

 彼女は、まずニュースキャスターになって、知名度を上げ、それから政治家を目指すのだといっています。

 先日、すでに、キャスターになるべくオーディションを受けて合格したと報告してくれました。

 一緒に話していた男子学生と一緒に、「やったね! すごい!」と絶賛しました。

 今日、別れ際に、「政治家になるんだったら、今伝えているようなことをちゃんと身に着けて、人間性を深めてからにしてね」というと、ごくストレートに「はい」と答えてくれました。

 きわめてしっかりした、しかしとても可愛い子です。

 「世の中をよくしたい」という夢に向かって真っ直ぐ着実に歩を進めています。

 悲しむべき問題を起こす若者も増えていますが、一方こういう若者も登場する時代になってきたのかなととても期待していて、できれば育てさせてもらいたいな、と願っているところです。

 私たち上の世代にとって、若者は「みんな星の子」であり、だから「みんな希望の星」であって欲しいものです。

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ご縁・つながりを大切にする心

2005年11月14日 | 心の教育
 
 仏壇を通じて日本の心をお客さまに届けたいという願いを本気で持っている会社があります。*

 ご縁があって、その会社の理念・社員教育に関する顧問をさせていただいています。

 今日は、その打ち合わせで東京に行ってきました。

 大切な人を亡くされた方のお気持ちを深く汲みながら、そのお気持ちにいちばんふさわしいお仏壇をどうお勧めするか、真剣に考えておられます。

 ビジネスと真心をどう一致させるかを真摯に追求しておられる姿勢に共感して、私としては初めて特定の会社との関係を持って1年半あまりになりますが、これまで期待を裏切られることはありませんでした。

 これまで、いくつかかなり大きな会社との接触はありましたが、こんなに本気なところはありませんでした。

 率直にいって、珍しい会社だと感じています。

 何度も話し合いながら合意したのは、「ご縁・つながりを大切にする心」こそ、失ってはならないはずなのに、今日本人が失いつつある「日本の心」である、という点でした。

 それは、一見ありふれた日本の通俗的な道徳のきれいごとにすぎない、と見えるかもしれません。

 私も、かつて進歩的知識人の端くれぶって、そう思っていたのです。

 しかし、このブログで長々と書いているように、学んでみると、それはまったくの無知による傲慢な偏見にすぎませんでした。

 とても大切な「日本の心」だったのです。

 若気の至りとはいえ、お恥ずかしいかぎりです。

 もし、現代の日本人に「ご縁・つながりを大切にする心」が生きていたら、親殺し、子殺し、友達殺しなど、起こるはずがないのではないでしょうか。**

 「切れる」という言葉がありますが、まさに心の中でつながりが切れた・見失われた時、自分がコントロールできなくなり、人はもちろん自分をも傷つけるような行為をしてしまうのだ、といって間違いないでしょう。

 そういう現代人の心の荒廃を癒し、「ご縁・つながりを大切にする心」を再発見してもらうための道筋がコスモロジーです。

 ご縁・つながりを大切にする心=コスモロジーの心です。

 それを、どう、多くの日本人―年長の世代にも若い世代にも―にわかっていただくか、大きな課題を共有しながら、真剣に話し合ったことでした。

 帰り道、東京駅丸の内北口のイルミネーションがとてもきれいでした。


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なぜ人を殺してはいけないか

2005年11月13日 | いのちの大切さ

 まだ容疑の段階だが静岡の母親毒殺未遂事件、そして11日の町田の女子高校生殺害事件と、若い世代による事件が続いていて、とても悲しくとても残念である。

 昨日、横浜でのカウンセリング研究会の終了後、ご一緒に食事をしていた受講者の中に、おなじ町田の高校に行っているお子さんをお持ちの方がいて、「子供がかなり動揺していますので」と早めに帰っていかれた。

 遠慮しておられたのだろう、食事の時には話題に出されなかった。

 しかし、「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えができなければ、根本的な意味での教育はできないのではないでしょうか、という私の話に深くうなづいておられたのは、そのためもあったのだろうと思う。

 そして、「次回、まさにそのテーマでお話しします」と言うと、みなさんが「すごく期待しています」と答えて下さった。

 こうした事件が起こるたびに、教育関係者の方が言われるのは、「2度とこういうことの起らないように、いのちの大切さの教育をしなければならない」ということである。

 そしてジャーナリズムでは、そうしたことをテーマにした報道企画がいろいろ組まれたりする。

 しかしそういうことが問題ないし話題になってから、もう何年が経つのだろうか。

 私はいくつかの大学で年間6~800名の学生を教えているが、毎年行なっているアンケート調査の1項目である「人生には、意味があると思いますか。あるとしたら、どんな意味だと思っていますか?」という問いに、はっきりと「ある。こういう意味だ」と答えることのできる学生は30%を越したことがない。

 それどころか、ほとんどの場合、10%程度にすぎない。

 あえて大学名も公表しておくが、北は青森公立大学(集中講義)、南は四国学院(集中講義)、そして法政大学の文学部と社会学部(通常授業)、武蔵野大学の人間関係学部(通常授業)と、地域もいわゆる大学のランクも様々であるから、統計データとしては、無作為に採ったサンプルに近いと思う。

 こうした調査と私の接しえたかぎりでの情報からすると、どうも日本の教育界――学校教育だけでなく家庭教育でもマスコミの教育的機能の面でも――全体としては、「いのちの大切さ」=「生きる意味・人生の意味」、そしてそこから必然的に導き出される「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えは提供されていないのではないだろうか。

 「提供」といったのは、それは大人が次の世代・子どもに提供する責任のあることだと思うからである。*

 それどころか、学生(かつての学生つまり社会人も含め)への聞き取りで、典型的に報告されるのは、大人からは答えはもらえなかったということである。

 小さい時には、「なぜ生きているか? 死んだらどうなるのか?」ということを大人(親や先生)に聞いたら、「そんなこと考えてないで、遊んできなさい」と言われたという。

 そして、中高生くらいでおなじ問いをしたら、「そんな暗いこと考えてないで、将来のために勉強しろ」と言われたという。

 さらに大学生になって大学教師に聞いたら、「そんなことは、自分で考えなさい」と言われたとか、もっとひどいのだと授業で、「生きることには意味がない」とか「意味なんてものは人間が勝手に作り出したことにすぎない」という話を聞かされたという。

 「いのちの大切さの教育」など、どこでも行なわれていなかったのではないだろうか。

 あえて私に言わせてもらうと、これは大人の責任回避である。まったく無責任というほかない。

 「いや、いのちは大切だ、命を大切にしなさい、という話はしてきた」と言われる向きもあるかもしれない。

 しかしただ「大切だ」と言えば、子どもが「そうか、大切なんだ」と納得するのなら話は簡単なのだが、そうではないところに根本的な問題がある。

 「なぜ」という問いに、「~だから」という納得のできる答えをする責任を、大人は問われていながら、それに答える努力を十分できていないのではないだろうか。

 (大人だって教わっていない、というやむを得ない事情もある。)

 ここはブログという媒体なので、自己宣伝だと思われることを恐れずあえて言いたい。

 毎年、私の授業に1年間ついてきてくれた(もちろん残念ながら途中で脱落する学生もいる)学生の例年の平均90%が、「人生には、意味があると思いますか?」という項目に、0から10までのスケールで5以上の自己採点をするのである。

 それどころか、平均25%が「10」と書く。

 そして、コメントの欄に「こういうことをもっとたくさんの人に伝えたい」ないし「たくさんの人に伝えてください。先生、頑張ってください」と書く学生がたくさんいる。

 もっともうれしかったコメントの一つには、「私はこういうことを教わりたかったんだと思う」というのがあった。

 「そう、私はそういうことを教えたかったんだよ」と答えたものである。

 そこで、いろいろ本を書いたり、頼まれた講演はほとんど断らず出かけ、自分の研究所でも講座やワークショップを頻繁に開催し、そしてもっと広く伝えたくて、とうとうブログも始めたというわけである。

 残念ながら、「なぜ」という深い問いに答えるのに、3分というわけにいかないので、長々と書き続けている。

 しかし、要点は2つ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、ちゃんと見さえすれば、事実としてとてもすばらしいものなんだから、落ち込んだり、死んだり、殺したりする必要はないんだよ」ということ、

 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、宇宙の137億年の進化の営みが積み重ねられたすごいものなんだから、それこそ宇宙的・絶対的な意味があるんだよ」というメッセージである。

 このメッセージは、単に情緒的なものであるだけでなく、誰でも確認-合意できる事実と現代科学と臨床心理学と論理の裏づけがしっかりある、と私は思っている。

 だから、実際、多くの学生たちが納得してくれるのだと思う。

 だが、今のところ、なぜか――分析すればわかる理由はあるのだがここでは省略する――日本の教育界にも、父母たちにも、マスコミにもまだ十分理解されていない。

 (私が執筆・監修したサブ・テキスト2冊が東京都内の4つの私立高校で使われている、大学の臨床心理学の授業でコスモス・セラピーを実施して効果を挙げている方が2人いる、といううれしい例外はあるが。)

 そして、だから、多くの子どもたち・若者たちのところに届いていない。

 そして、かなり多数の子どもたち・若者たちが、依然として、落ち込んだり、すねたり、つっぱったり、引きこもったり、病んだり、非行・犯罪に走ったりしている。

 それが、歯がゆく、口惜しく、悲しく、残念でならない。

 私は、自分のやっていることが唯一だとも絶対だとも思っていないし、万能の方法をつかんでいるとも思っていないが、コスモロジー教育-コスモス・セラピーは、そうした問題に対して、事実、相当に有効だということは実証してきたつもりである。

 だから、社会的提案を続けてきたし、これからも粘り強く続けていく覚悟である。

 もちろん、批判や修正-増補の提案はいくらでもお受けしたい。

 もし万一、完璧によりよいものがあれば、私の提案は取り下げてもいい。

 心ある、つまり本当の意味で後の世代への責任を取るつもりのある大人のみなさんに、ぜひ、知るだけでも知ってほしいと思うのである。

 そして、子ども・若者のみなさんには、親や教師やマスコミが教えてくれなくても、その鋭い直観力と判断力を働かせて、まず自分の力で見つけ、そして本当に自分の存在の意味を明らかにしてくれるメッセージなのかどうかを判断してほしいと願っている。

 悲しさや残念さに共感してくださり、提案に賛同して下さる方は、この文章そしてこのブログ全体の文章を自由に使って――コピー、引用、リンク、論評などなど――口コミ、ブログ・コミに、ぜひ参加していただきたいと思う。

 最後に、あまりにも若くして亡くなった古山優亜さんとご家族の方に心からの哀悼の意を表したい。

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今日の仕事

2005年11月12日 | メンタル・ヘルス
 今年は紅葉が遅いし、あまりきれいになりそうにないかなと思っていたら、一晩の冷たい雨でいい色に染まりました。

 渋みのある茶の入った落ち着いた赤、鮮やかなオレンジ、シックな黄褐色などなど。

 言葉でうまく表現できないくらい微妙で美しい色がとりどりです。

 今朝は少し早めに起きて、横浜にコスモス・セラピーの講演に出かけます。

 どんな「星の子」のみなさんに出会えるかと、楽しみです。

 今日もきっと感動が伝わるだろうと思っています。

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教え子たち

2005年11月11日 | 心の教育

 昨日今日と大学の授業でした。

 いのちはある意味で40億年生きっぱなしで連続しているんだけど、個体として与えられた時間は有限だから、どうでもいいことや、つまらないことや、ましていけないことをして、つぶしていいような暇は、人生には実はないんだよ。

 と、コスモロジー風お説教をしましたが、学生たちは真剣に聴いてくれたようです。

 4月から夏休みを除くと約6ヶ月、少し脱落していく学生も残念ながらいますが、かなりの割合の学生がしっかりと授業についてきてくれます。

 目を輝かせて、真剣に聴き入る子もいます。

 こちらが伝えたいものを受け止める若い世代を見ていると、精神的な子孫、まさに「教え子」だと思うのです。

 やっぱり、「教師と○○○は三日やったらやめられない」とまたしても思いました。

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