環境問題と心の成長28

2009年12月29日 | 持続可能な社会

智慧と慈悲

 非二元段階という心の成長・発達の最終段階は、大乗仏教にのみ見られるものではないとしても、特に大乗仏教において典型的に現われていることは確かでしょう。

 例えば大乗仏教のもっとも初期の経典である『八千頌般若経』(ほぼ玄奘訳『大般若経』巻五三八―巻五五五、鳩摩羅什訳『小品摩訶般若波羅蜜経』の原典に相当する)には、次のような言葉があります。

 ……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。
 それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかないからである。彼には「私はあらゆる有情を解放しなければならない」という、こういう性質の諸誓願があるのである。
 菩薩大士が、「私にとって、いかかる有情も見捨てるわけにはいかない。私は彼らを解放しなければならない」と、このように意を決し、空性という、解脱への門戸である精神集中(空解脱門)を実行し、特徴なきことという、解脱への門戸である精神集(無相解脱門)を実行し、願望を離れることという、解脱への門口である精神集中(無願解脱門)を実行するならば、そのとき彼は巧みな手だて(方便)をそなえた菩薩大士である、と知られるのである。
              (『八千頌般若経Ⅱ』大乗仏典3、一七六―七頁、中公文庫)

 ここには智慧を得るという自利と慈悲という利他を一つのこととして探求するのが菩薩であり、菩薩には「あらゆる有情を解放しなければならない」という「諸誓願」があることがきわめて明快に説かれています。

 それは、般若経典の集大成である『大般若経』の「初分仏母品第四十一」に「……あるいはあらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである」(私訳、以下同様)と説かれているとおり、仏と衆生とすべての存在が一体・非二元だからです。

 求道者=菩薩にとって自らが覚者=仏陀になることを求めることと他の生き物すべてを救うということは別のことではなく一つのあるがままの真実の追求であるはずなのです。次の言葉は、そのことを端的に示しています。


 この時、スブーティ長老はブッダにこう申し上げた、「世尊よ、もしもろもろの有情や有情の作り出すことがみな結局のところ把握できないものだとしたら、もろもろの菩薩大士は誰のために般若波羅蜜多を修行するのでしょうか」と。
 ブッダはスブーティにこう告げられた、「もろもろの菩薩大士は真実の究極のあり方(実際)をよりどころ(量)とするからこそ智慧の実践(般若波羅蜜多)を行なうのだ。善現、もし有情の究極のあり方と真実の究極のあり方が異なっているならば、もろもろの菩薩大士は智慧の実践を行なうことはないだろう。有情の究極のあり方は真実の究極のあり方に異ならないからこそ菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なうのである。……スブーティよ、有情の究極のあり方と真実の究極のあり方とは二つでなく二つに分かれてはいないのだ。」
                       (『大般若経・初分不可動品第七十之一』)

 究極の状態(実際)においては、仏と菩薩と有情とあらゆる存在とは空であり一体であるのがありのままの真実です。ですから、本質的には智慧を求めることと慈悲を実行することは一つのことであり、「菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なう」のです。

 私は『大般若経』のこの部分に初めて出会った時、ここにこそ大乗仏教の原点があるのではないかと深く感動しました(そしてそれは仏教とキリスト教がもっとも深いところで一致する地点でもあると思います)。


菩薩の誓願

 智慧と慈悲が一つであるという原点からスタートして、慈悲の実践の具体的内容として「諸誓願」が立てられます。
 『大般若経・初分願行品第五十一』では三十一の菩薩の誓願が述べられています。

 頁数の関係でごく一部、前回の最後に書いた「現代の菩薩は、智慧と慈悲の実修―実践として必然的に環境問題に(も)取り組むことになるだろう。そしてそれは環境問題の根源的な解決のための大きな弾みになるはずだ」という結論に関わる三つの部分――第一願、第九願、第十七願――をご紹介しておきたいと思います。

 ……スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。
 「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。
 こう考えた後で、次のような願をなして言う。
 「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の衆生もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。
 スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕接近(隣近・りんごん)するのである。

 ……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……次のような願をなして言う。
 「私は渾身の努力をし……我が仏の国土の中にはこうしたもろもろの汚染されたカルマがないようにし、カルマによってできる大地、有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……

 ……菩薩大士が……もろもろの有情に四つの生まれの違い――すなわち卵で生まれるもの、母胎からうまれるもの、湿気から生まれるもの、自然に生まれるもの(化生)――があるのを見たならば……次のような願をなして言う。
 「私は渾身の努力をし……我が仏の国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう。」と。……

 すなわち菩薩が、有情・すべての生き物のためにまるで天界のように豊かで美しい国土を創り出そうと身命を惜しまず渾身の努力をするならば、その時すでに覚りに限りなく近いところにいることになる(隣近)、というのです。

 ですから当然、有情(といってもこの場合はほとんど人間でしょう)の悪しきカルマによる障害があって環境が美しいどころかはなはだしく汚染され荒廃している場合には、悪しきカルマを根絶し、美しく愛すべき環境へと変わるよう全力を注ぐのです。

 そして、そういう菩薩の渾身の努力は、いうまでもなく人間だけではなく生きとし生けるものすべて、四つの生命の種類すべてのためです。


菩薩と環境問題

 環境問題の解決のために必要な心の発達段階としては、当面、ヴィジョン・ロジック段階までで何とか見通しはつくとしても、それ以上の段階もあり、とりわけ非二元段階まで成長・発達・到達した、あるいはそれを目指す仏教者が多数現われ、誓願の実践として環境問題に取り組むということが起これば(すでに取り組んでおられる方もおられると思いますが)、それは多くの人々の指標となりモデルとなって根本的解決を急速に促進することになるにちがいありません。

 般若経典における大乗の菩薩の誓願は、現代の大乗の求道者すなわち菩薩にとってもおなじく誓願でなければならないのではないでしょうか。

 環境問題の解決、持続可能な社会の創出に尽力することは、現代の求道者の担うべき唯一ではないにしても最大の課題の一つであり、そしてそのことに「渾身の努力をし身命を顧みず」取り組むならば、その生き方そのものが覚りに限りなく近い、と般若経典に基づいて言っていいと思うのです。


*今年の11月末でほぼ3年かけて「大般若経」600巻を読み終えました。「読んでも読んでも終わらない」という感じでしたが、それでも毎日少しずつ読み続けていたら、いつかは終わったわけです。
 面白くていつまでも終わらないでもらいたいと思うような物語を読み終えたときのような、ちょっと残念なような、気抜けしたような気分です。
 読み終えて、この長大さの意味がわかったような気がしています。来年、そのことも書きたいと思っています。 




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環境問題と心の成長27

2009年12月25日 | 持続可能な社会


非二元段階の大乗仏教的表現

 心の成長の最後の最後の段階は「非二元(nondual)」段階で、ウィルバーは次のように表現しています。

 「以上が無形の元因段階であった。しかしエックハルトが言うように、元因段階が『最後の言葉』なのではない。人が、純粋な非顕現の、未生のスピリットのなかへの元因的な没入状態を打ち破ると、全顕現世界がふたたび生起する。しかし今度はスピリットの完全な表現およびスピリットそののものとして、である。無形のもの、そして顕現された形の全世界、空性と全コスモスは、ここで二つのものとして見られることはない。」(『進化の構造1』四八七頁)

 この段階の話は大乗仏教の伝えようとするものの中核で、ある意味で日常茶飯事といってもいいくらい頻繁に語られています。

 したがって大乗の仏典や論書からは無数に引用できますが、例えば『大品般若波羅蜜経』の注釈書である『大智度論』(伝龍樹作)には、「般若波羅蜜多の中に、或時は諸法の空を分別す、是は浅し。或時は世間の法は即ち涅槃に同じと説く、是は深し」(七十二巻)とあります。

 龍樹はきわめて明快に「空がわかった(という境地)は、それはまだ浅いのだ」としており、そこにとどまらず、さらに「この世のもろもろのものがすべて涅槃つまり覚りと同じだと言える(境地)、それが深いのだ」と言っているわけです。


禅的表現

 禅ではしばしばより詩的に表現されます。例えば中国北宋代の詩人・書家・政治家であり、禅者としても深い境地に達していたと評される蘇東坡の次の二行は、元因(真空)から非二元(妙有)への深まりを的確にそして美しく表現しています。

 到り得て、帰り来たれば別事無し
  廬山の烟雨、浙江の潮

 この詩が書かれる前の段階では、自己と他者、自己と全世界・全宇宙とが元々一体であり、他と並べて「一」と数えることさえもできないので、あえて言葉にするならむしろ「空」とか「無」とでも言うほかないという境地に「到り得」たのですが、ふたたび日常的な意識に「帰り来た」ったこの段階では、ある意味では「別事無し」つまり前と同じで、「廬山の烟雨」や「浙江の潮」という対象が見えるのです。

 日常的な意識つまり分別知では自分とは分離して向こう側にある対象として認識されていた「廬山の烟雨、浙江の潮」は、禅定体験・無分別智においてはまったく無あるいは空、廬山も無ければ烟雨も無く、浙江も無ければ潮も無く、もちろんそれを見ている主体・自我も無く……というふうに体験されますが、深い禅定からもう一度日常意識に戻るとそれぞれは決して分離はしていないけれどもくっきりと区別はあるものとして認識されます。

 「別事無し」というのはあくまでも禅的・詩的なレトリックであり、自己と他者、自己と全世界・全宇宙との区別はありありとありながら決して分離はしていないことが自覚されているのです。

 ここでは、自他分離的な観賞の対象としての「風景」が覚りの「風光」になっているといってもいいでしょう。

 分離していないことつまり根源的一体性としかし個別のものがそれぞれに区別できるものとしてあることを同時に自覚している状態を、大乗仏教では「般若後得智」あるいは「無分別後得智」と呼んできました。


道元禅師の表現

 禅定を実践しておられる方が体験されているとおり、深い禅定の中では分離した個々のものはもちろん自己と他者や外界との分離も意識されなくなります。

 といっても、熟睡、気絶、泥酔、陶酔・恍惚のような意味での無意識になるわけではなく、ありありと目覚めています。

 そうした心の状態がごく一時的なものではなく、決定的に全身心化したのが「無分別智」だといってまちがいないでしょう。

 あるいは、他と分離した実体としての自分の身心というものがあるという錯覚が完全に落ちたという意味で、如浄禅師―道元禅師の言葉を借りれば「身心脱落」といってもいいのではないでしょうか。

 そして道元禅師の場合、「身心脱落」体験がやがて「尽十方世界一顆明珠」や「悉有仏性」といった言葉で表現されるように、元因段階からさらに非二元段階・般若後得智へと深まっていきます。

 『正法眼蔵』は全巻すべて非二元段階の智慧すなわち「正法眼」の蔵ですから、これまた無数に引用できるわけですが、私の好きな句をいくつか引用させていただきます。

 尽十方界は、是(これ)自己なり。是自己は、尽十方界なり、回避の余地あるべからず。(『正法眼蔵・光明』)

 而今の山水は古仏の道現成なり。(『正法眼蔵・山水経』)

 而今の諸法実相は経巻なり。人間、天上、海中、虚空、此土、他界、みなこれ実相なり、経巻なり、舎利なり。(『正法眼蔵・如来全身』)

 おほよそ経巻に従学するとき、まことに経巻出来す。その経巻といふは、尽十方界、山河大地、草木自他なり、喫飯著衣、造次動容なり。この一一の経巻にしたがひ、学道するに、さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり。(『正法眼蔵・自証三昧』)


非二元段階の普遍性

 しかし重要なポイントを繰り返すと、こうした非二元段階に達したと思われる聖者・覚者は、仏教だけではなく、広くキリスト教、ヒンドゥー教、さらにはユダヤ教、イスラム教などの「神秘主義」と呼ばれる流れの中にも存在しているのです。

 ただ大きな違いは、非二元段階が存在しそれを目指すことが、仏教やヒンドゥー教では正統であるのに対し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ではしばしば異端とみなされてきたということでしょう。

 しかし、それらの宗教の中でも、たとえ異端とみなされ時に迫害されることがあっても、神秘主義的な流れは決して絶えることはありませんでした。

 また現代では、それらの宗教の神学者たちの中でも、自らの属する宗教の神話性が近代合理性の批判に耐ええないのではないかという反省とともに、理性を含んで超えるものとしての神秘主義的伝統の真剣な見直し・再発見がなされつつあります。

 そのことは、この段階への発達が元因段階同様、仏教内部だけで起こる特殊かつ特権的なことではなく、人類の心の普遍的な可能性だと考えられることを示しているのではないでしょうか。


非二元段階と環境問題

 そうした非二元的な意識においては、自己と世界・環境とは区別はできても分離していない・分離できない一体なるものですから、環境を大切にすることは自己を大切にすることと同じです。逆にいえば環境を破壊することは自己を破壊することと感じられます。

 そして、人間も含むすべての生きとし生けるもの・一切衆生が境環破壊によって受ける様々な被害・苦しみは自己の苦しみと感じられるため、他人事ではない身に迫った課題として環境問題に取り組まざるをえなくなるでしょう。

 次回・最終回は、連載全体のまとめとともに、「現代の菩薩は、智慧と慈悲の実修―実践として必然的に環境問題に(も)取り組むことになるだろう。そしてそれは環境問題の根源的な解決のための大きな弾みになるはずだ」という結論を、『大般若経』の菩薩論などを参照しつつ書かせていただきたいと思っています。



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サングラハ第108号がでました!

2009年12月24日 | メンタル・ヘルス

 今回は大変お待たせしましたが、ようやくサングラハ第108号を出すことができました。

 充実の連載記事に加え、新しい連載も始まりました。

 まだお読みになったことのない方で試しに一度読んでみたいという方には、無料で見本をお送りします。

 下記の表紙にあるメールアドレスに、ご住所ご氏名(差し支えなければメールアドレスも)を明記してお申し込みください。





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第31期講座案内

2009年12月22日 | 心の教育

 いったん回復に向かうかに見えた不況は、ドバイ・ショック、円高、デフレによってふたたび先行きが見えにくくなってきました。それに対して現政権がこれからどういう中長期のビジョンをもって国づくりをしていくのかはっきりせず、現代の日本人の心の不安定・不安は続いています。

 それに対して当研究所では「持続可能な国づくりの会」と協力しながら、これからの日本の向かうべき「理念とビジョン」の試案づくりをしてきました(これは『サングラハ』第109号に掲載予定)が、もう一方そうした状況を生き抜くメンタル・タフネスをどう身につけるかという課題もさらに大きくなっているように思えます。

 今期は、本格的なメンタル・タフネス=「生きる覚悟と死ぬ覚悟」をどう決めていくかのヒントとして、火曜日は『維摩経』の学びと坐禅、木曜日は「生と死を考える」の講座を企画しました。みなさんのご参加をお待ちしております。



  火曜講座:『維摩経』を学ぶ 1

            於 サングラハ・ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩5分)
                 火曜日 18時45分~20時45分 全6回
               1月①12日②26日 2月③9日④23日 3月9日 23日

 『維摩経』は、初期大乗仏教の代表的な経典の一つです。

 経典の主人公は、現代的にいうと創作上の人物で維摩詰(ヴィマラキールティ)といい、ゴータマ・ブッダと同じ時代の居士つまり在家の仏教徒です。

 在家の大商人でありながら、ブッダの弟子たちよりもはるかに深い覚りの境地にあったとされています。彼が病気で寝ているというので、ブッダに命じられて弟子たちが見舞いに行き、維摩詰と問答をするという筋立てを通して、大乗仏教の基本的主張である「智慧と慈悲」がどのようなものかが印象深く語られています。

「和の国日本」の建設を夢見た聖徳太子も注釈書を書かれたと伝えられており、今、研究所にかかわるみなさんと学ぶにふさわしいと思い、初の講義を試みます。ぜひ、ご一緒に学んでいきましょう。

 なお、『維摩経』全体を学ぶには6回では足りませんので、今回はその1とし、次期さらに続けていく予定です。


テキスト:コピーを配布します。

*講義の前に30分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。



  木曜講座:生と死を考える――キューブラー・ロスを中心に

        於 サングラハ藤沢ミーティングルーム
         木曜日 18時45分~20時45分  全5回
        1月①21日 2月4日③18日 3月④4日⑤18

 良かれ悪しかれ、あまりものごとを深く考えないでネアカ・ルンルンで暮らしていける時代が完全に終わったようです。

 また、たとえネアカ・ルンルンで過ごせるように見えた時代にも、人間はまちがいなく生きて死ぬ存在だったのです。

 今、きびしくなってきた時代のなかで、しっかりと腹を据えて生き死にするためには、改めて人間として生きて死ぬことの意味を深く考える必要があるのではないでしょうか。

 アメリカの精神医学者で臨床の現場を踏まえながら生と死の意味を深く洞察したことで知られるキューブラー・ロスの仕事を中心的なヒントとしながら、さらに、マルクス・アウレーリウス、パスカル、ニーチェ、大乗仏教などの洞察も参照しながら、ご一緒に考えていきたいと思います。


テキスト:コピーを配布します。

参考文献:キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』『「死ぬ瞬間」と死後の生』『死、それは成長の最終段階』(いずれも中公文庫)


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。


●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。


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