智慧と慈悲
非二元段階という心の成長・発達の最終段階は、大乗仏教にのみ見られるものではないとしても、特に大乗仏教において典型的に現われていることは確かでしょう。
例えば大乗仏教のもっとも初期の経典である『八千頌般若経』(ほぼ玄奘訳『大般若経』巻五三八―巻五五五、鳩摩羅什訳『小品摩訶般若波羅蜜経』の原典に相当する)には、次のような言葉があります。
……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。
それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかないからである。彼には「私はあらゆる有情を解放しなければならない」という、こういう性質の諸誓願があるのである。
菩薩大士が、「私にとって、いかかる有情も見捨てるわけにはいかない。私は彼らを解放しなければならない」と、このように意を決し、空性という、解脱への門戸である精神集中(空解脱門)を実行し、特徴なきことという、解脱への門戸である精神集(無相解脱門)を実行し、願望を離れることという、解脱への門口である精神集中(無願解脱門)を実行するならば、そのとき彼は巧みな手だて(方便)をそなえた菩薩大士である、と知られるのである。
(『八千頌般若経Ⅱ』大乗仏典3、一七六―七頁、中公文庫)
ここには智慧を得るという自利と慈悲という利他を一つのこととして探求するのが菩薩であり、菩薩には「あらゆる有情を解放しなければならない」という「諸誓願」があることがきわめて明快に説かれています。
それは、般若経典の集大成である『大般若経』の「初分仏母品第四十一」に「……あるいはあらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである」(私訳、以下同様)と説かれているとおり、仏と衆生とすべての存在が一体・非二元だからです。
求道者=菩薩にとって自らが覚者=仏陀になることを求めることと他の生き物すべてを救うということは別のことではなく一つのあるがままの真実の追求であるはずなのです。次の言葉は、そのことを端的に示しています。
この時、スブーティ長老はブッダにこう申し上げた、「世尊よ、もしもろもろの有情や有情の作り出すことがみな結局のところ把握できないものだとしたら、もろもろの菩薩大士は誰のために般若波羅蜜多を修行するのでしょうか」と。
ブッダはスブーティにこう告げられた、「もろもろの菩薩大士は真実の究極のあり方(実際)をよりどころ(量)とするからこそ智慧の実践(般若波羅蜜多)を行なうのだ。善現、もし有情の究極のあり方と真実の究極のあり方が異なっているならば、もろもろの菩薩大士は智慧の実践を行なうことはないだろう。有情の究極のあり方は真実の究極のあり方に異ならないからこそ菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なうのである。……スブーティよ、有情の究極のあり方と真実の究極のあり方とは二つでなく二つに分かれてはいないのだ。」
(『大般若経・初分不可動品第七十之一』)
究極の状態(実際)においては、仏と菩薩と有情とあらゆる存在とは空であり一体であるのがありのままの真実です。ですから、本質的には智慧を求めることと慈悲を実行することは一つのことであり、「菩薩大士はもろもろの有情のために智慧の実践を行なう」のです。
私は『大般若経』のこの部分に初めて出会った時、ここにこそ大乗仏教の原点があるのではないかと深く感動しました(そしてそれは仏教とキリスト教がもっとも深いところで一致する地点でもあると思います)。
菩薩の誓願
智慧と慈悲が一つであるという原点からスタートして、慈悲の実践の具体的内容として「諸誓願」が立てられます。
『大般若経・初分願行品第五十一』では三十一の菩薩の誓願が述べられています。
頁数の関係でごく一部、前回の最後に書いた「現代の菩薩は、智慧と慈悲の実修―実践として必然的に環境問題に(も)取り組むことになるだろう。そしてそれは環境問題の根源的な解決のための大きな弾みになるはずだ」という結論に関わる三つの部分――第一願、第九願、第十七願――をご紹介しておきたいと思います。
……スブーティよ、菩薩大士が布施波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が飢え渇きに迫られ、衣服が破れ、寝具も乏しいのを見たならば、スブーティよ、この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。
「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。
こう考えた後で、次のような願をなして言う。
「私は渾身の努力(精勤)をし身命を顧みず布施波羅蜜多を修行して、有情を成熟させ仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させて、一刻も早くこの上なく正しい覚りを実証し、我が仏国土の中にはこうした生きるために必要なものが欠乏しているもろもろの有情の類がおらず、四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天では種々のすばらしい生活の糧が受けられているように、我が仏国土中の衆生もまたそのように種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」と。
スブーティよ、この菩薩大士は、このような布施波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りに〔すぐ隣りといってもいいところまで〕接近(隣近・りんごん)するのである。
……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……次のような願をなして言う。
「私は渾身の努力をし……我が仏の国土の中にはこうしたもろもろの汚染されたカルマがないようにし、カルマによってできる大地、有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……
……菩薩大士が……もろもろの有情に四つの生まれの違い――すなわち卵で生まれるもの、母胎からうまれるもの、湿気から生まれるもの、自然に生まれるもの(化生)――があるのを見たならば……次のような願をなして言う。
「私は渾身の努力をし……我が仏の国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう。」と。……
すなわち菩薩が、有情・すべての生き物のためにまるで天界のように豊かで美しい国土を創り出そうと身命を惜しまず渾身の努力をするならば、その時すでに覚りに限りなく近いところにいることになる(隣近)、というのです。
ですから当然、有情(といってもこの場合はほとんど人間でしょう)の悪しきカルマによる障害があって環境が美しいどころかはなはだしく汚染され荒廃している場合には、悪しきカルマを根絶し、美しく愛すべき環境へと変わるよう全力を注ぐのです。
そして、そういう菩薩の渾身の努力は、いうまでもなく人間だけではなく生きとし生けるものすべて、四つの生命の種類すべてのためです。
菩薩と環境問題
環境問題の解決のために必要な心の発達段階としては、当面、ヴィジョン・ロジック段階までで何とか見通しはつくとしても、それ以上の段階もあり、とりわけ非二元段階まで成長・発達・到達した、あるいはそれを目指す仏教者が多数現われ、誓願の実践として環境問題に取り組むということが起これば(すでに取り組んでおられる方もおられると思いますが)、それは多くの人々の指標となりモデルとなって根本的解決を急速に促進することになるにちがいありません。
般若経典における大乗の菩薩の誓願は、現代の大乗の求道者すなわち菩薩にとってもおなじく誓願でなければならないのではないでしょうか。
環境問題の解決、持続可能な社会の創出に尽力することは、現代の求道者の担うべき唯一ではないにしても最大の課題の一つであり、そしてそのことに「渾身の努力をし身命を顧みず」取り組むならば、その生き方そのものが覚りに限りなく近い、と般若経典に基づいて言っていいと思うのです。
*今年の11月末でほぼ3年かけて*「大般若経」600巻を読み終えました。「読んでも読んでも終わらない」という感じでしたが、それでも毎日少しずつ読み続けていたら、いつかは終わったわけです。
面白くていつまでも終わらないでもらいたいと思うような物語を読み終えたときのような、ちょっと残念なような、気抜けしたような気分です。
読み終えて、この長大さの意味がわかったような気がしています。来年、そのことも書きたいと思っています。
↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。
人気blogランキングへ