
トランスパーソナルな段階の否認
前回述べたように、ウィルバーは、心の成長におけるプレ・パーソナルな段階とトランス・パーソナルな段階を明確に区別し、人間にはパーソナルな段階を超えてトランスパーソナルな段階へと成長する可能性があると主張しています。
しかし、そこで問題になるのは、現代の欧米や日本などの先進国の文化のなかでは、トランスパーソナルな段階が必ずしも社会的に認知されていないということです。
先進国社会の主流(例えば政府)の考え方は、近代主義・合理主義がベースになっているため、「信教の自由」というかたちで宗教が社会のなかに存在することを容認はしていますが、基本的に主観的、前近代的、非合理的、つまりプレ・パーソナルなものとみなしており、社会の精神性の主流になることは認めていません。
ですから、社会の主流によって行われる公的な教育の背後にある心の発達論には、社会に適応できる自我の確立つまりパーソナルな段階までしか含まれていませんし、当然、日本の教育界・学校ではトランスパーソナルな段階への成長を促進するような教育は行われていません。
それどころか、プレ・パーソナルな段階と混同されたままむしろ否認され禁止されています。
そのことをもっともよく示しているものの一つが、改正前の教育基本法第九条でしょう。念のために引用しておきます。
第九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
②国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
この条項は、第一項に「宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」とあるにもかかわらず、施行時から最近まで一貫して、実際的にはほとんど第二項のほうだけが機能してきたのではないでしょうか。
つまり「学校で宗教の話をしてはいけない」というふうに理解され、タブーのように機能してきたのです。
したがって、宗教立の学校に行った場合を除けば、一般に日本の子どもたちはプレ・パーソナルな面もトランスパーソナルな面も含め宗教に触れる機会がほとんどないまま大人になっていきます。
そうした状況は、教育界だけでなく思想界やジャーナリズムなど文化一般においても基本的には同じであり、したがって日本ではトランスパーソナルな段階へと人間成長を促進するような文化装置がほとんど存在していません。
それに対して既成宗教の内部には、私の知るかぎりどの宗教もどの宗派でも、プレ・パーソナルなものとトランスパーソナルな体験が区別されないまま混在していて、社会の主流に対して理性を含んで超えるようなトランスパーソナルな段階があることを説得的に主張できる状況にはないようです。
そのことは、環境問題を根本的かつ総合的に解決するための不可欠の内面に関わる要素が欠けているということであり、まさに根本問題だ、と私には思われます。
アメリカにも共通する近代社会のそうした状況に対して、ウィルバーは先のような区別をしたうえで、さらに非常に説得的な解明と弁明を加えています。
それは、東西の精神的・宗教的な文化の伝統のなかに、トランスパーソナルな領域にアクセスしたと主張する人々がかなりの数存在しているという事実に加え、その人たちが語っていることを見ていくと、そこでは単に「主観的な」つまり普遍妥当性のない体験が語られているのではなく、実はある点で科学と同じような手続きで確認でき、そういう意味で普遍妥当性をもった体験が語られているということを指摘したことです。
彼はそれを明らかにするために『進化の構造』の他に、テーマをそれに絞った『科学と宗教の統合』(吉田豊訳、春秋社)も書いて、非常に本格的で詳細な認識論、科学論を展開しているのですが、本連載に必要な範囲で、その論旨をできるだけわかりやすく紹介しておきたいと思います。
体験と意味内容と言葉
ウィルバーはフランスの言語学者ソシュールの理論などを参照しながら、「あるもの」が「ある」とか「ない」という主張が、どういう場合に妥当性を持つかという問題を論じています。
私たちがふだん何気なく使っている言葉には、三つの側面があります。
イヌを例にすると、言葉が示している対象である実際のイヌ、「犬」「イ・ヌ」という文字や音、それからその言葉を聞いたり読んだりした時に心に浮かぶものの三つです。
そして、「イヌがいる」と言われた場合、ほんものの犬を見たことがない人は、「イヌ」という言葉を聞いても、その言葉が意味している内容が心に浮かんできません。
意味内容が浮かんでこないので、実際の犬と「イヌ」という言葉を意味内容を通じて一致させることもできません。
「イヌ」という言葉が意味を持つのは、実際のイヌを見るという体験をし、「イヌ」という言葉を聞いて、「ああイヌとはああいうものなのだな」という意味内容を理解したことのある人たちだけです。
重要なポイントは、体験と意味内容を共有している人だけが、「イヌ」とか「イヌがいる」という言葉を有効にコミュニケーションできるということです。
人間がやっている言葉による認識というのは科学も含めすべて、本質的にそういうものです。
したがって、イヌを見たことのない人は、誰かが「イヌがいる」と言っても、「そんなもの、言葉だけで、いるわけない」と否定することも、「言葉がある以上、いるはずだ」と肯定することも、原理的にはできないはずなのです。
「ここにイヌがいる」と言われたところに行ってみて、「ああこれがイヌというものなのか」という体験を経て初めて、「イヌがいる」という言葉がほんとうかうそかを確かめることができるようになるわけです。
確かめるということについて、ウィルバーはわかりやすい例をあげています。
誰かが窓のそばで、「雨が降っている」と言ったとします。
その「雨が降っている」という言葉がほんとうかうそかは、自分も窓のところに行って空を見ればわかります。
降っていれば、ほんとうだとわかり、降っていなかったら、うそだとわかるわけです。
つまり、ある言説が正しいかどうかは、その言説の元になっている対象を体験することによって確認できる。
そして体験するには、例えば窓のそばに行くという手続きが必要なのです。
トランスパーソナルな体験の妥当性
同じようにトランスパーソナルな領域についても、体験をしていない人がその言葉を聞いても意味がわかりませんし、「ある」とも「ない」とも言えないはずなのです。
そうすると、例えば坐禅・瞑想を経て体験されたことの表現である〈空〉という言葉について、坐禅・瞑想をしたことのない人には、ほんとうともうそとも言う資格はないわけです。
ほんとうかうそかを確かめたい人は、自分自身が坐禅・瞑想を実践してみて、「なるほど、空という言葉で示された体験はある」とか「やってみたが、そんな体験は起こらない」とか言うことができるようになるのです。
トランスパーソナルなものは、他のすべての妥当性のある知識を獲得する時と同様に、手続きをきちんと踏んで確かめることができる、とウィルバーは言います。
「覚りたい、空ということを知りたいのなら、坐禅をしなさい。坐禅をするとこうなるのだ」という解明があり、そして自分もそれをやってみるとああそうか、と確認できるという、あらゆる知識獲得の普遍的なステップについて、トランスパーソナルな体験は開かれているというのです。
ただし、トランスパーソナルな体験をした人々自体、「これは合理性の段階ではわからない」と言っているのですから、「合理性でわからない以上、それは存在しない」というふうに否定する資格は、実は合理段階にある人にはないはずです。
ただし、それが非合理かどうかは合理段階の人に判定する資格があります。
「合理性を含んで超えている」という場合、その合理性の部分は合理段階で判定できますが、そこから先については指示されたとおりのことをやってみて確認するしかないし、それは可能なのです。
人類のスピリチュアルな伝統では――いつも必ずしも完璧なかたちではないにしても――「こういう体験をしたかったら、こういう行をしなさい。その行をするとこういうことが起こる」というふうに語られており、そのとおりやると、同じことが追体験できるようになっています。
つまり、そこにスピリチュアルな体験の普遍妥当性があり、いわば「スピリチュアリティの科学」が成り立つ可能性があるのだ、とウィルバーは主張しています。
もしスピリチュアリティの科学が可能になれば、社会の構成員全体へのスピリチュアリティの教育も可能になり、そうすると社会全体のスピリチュアリティのレベルは飛躍的に向上し、それは環境問題の根本的解決にきわめて大きく貢献することになるはずです。
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