「近代主義」においては、合理的な思考が科学を発展させ、科学が技術を発展させ、技術が産業を発展させ、社会を便利にし豊かにしました。
また、合理的な思考は、神話・迷信を批判し、神話に基づいた身分制を否定し、個人の尊厳(人権)と自由をもたらしました。
こうしたプラス面だけを見ていくと、近代主義はいいことずくめのように見えます。
しかしすでにある程度述べてきたように、決定的なマイナス面もあるのです。主な3つの問題を指摘しておきましょう。
①マイナス面の第1は、「環境破壊」です。近代における合理性→技術→産業の発展は、文明による自然破壊=環境破壊を恐るべき規模にまで拡大してしまっています。
文明史の研究者たちの中でよく知られた、「文明が栄えた後に砂漠が残る」という言葉があります。考えてみると、古代文明の栄えた後はみな砂漠になっているのです。
それは、古代文明が建築資材と燃料としてまわりの森林を伐採し続け、森林が消失すると共に文明そのものも生きる基盤を失って滅亡していったからだと考えられます。
そういう歴史を見ても、環境破壊は昨日今日始まったものではありません。しかし、ここまで大規模化したのは、人類史始まって以来であることはまちがいありません。
②マイナス面の第2は、「戦争の規模拡大」です。20世紀、人類は(欧米を中心として)人類史上最大で最悪の戦争を2度も行なっています。
これは、合理性→技術→産業の発展→資源と市場の必要→植民地獲得競争が中心的な原因だったと考えられます。
また技術と産業の発展は、軍事技術と軍事産業の発展をももたらし、戦争の大規模化を進めたこともまちがいないことでしょう。
その最大でもっとも深刻な問題が「核兵器」です。
「核軍縮」とか「核拡散防止条約」とか、いろいろ事態はよくなっているように見えますが、しかし現在に到るまで、地球の表面を何十回も焼け野原にしてもまだ余るくらいの核兵器が存在することは、少し調べれば誰にでもわかることです。
そして、第二次世界大戦後すでに半世紀以上経過していますが、いまだに戦争はまったくなくなりそうもありません。
「核の廃絶」も「戦争の廃絶」も実現せず、「世界平和」は実現していないのです。
③そして、マイナス面の第3が、本講義のテーマにかかわる「ニヒリズム」です。
思想史を調べてみると、古代から無神論も虚無主義もないわけではありません。虚無主義的な倫理の否定も快楽主義もありました。
しかし、例えば私のアンケート調査の結果が示しているような、若者のきわめて多数が、「人間は死んだら無になる」、「人間は結局自分が一番大事だと思うものだ」、「人生は自分の楽しみのためにある」と考えているような社会は、人類史上かつてなかったのではないでしょうか。
近代のすべてを物質に還元して捉えてしまうような「科学」は、必然的に「神」や「魂」といった「精神的なもの」の存在を否定します。
近代科学主義をつきつめると、世界には「神はいない。モノだけがある」というコスモロジーになるのです。
それでもある段階までは、「神はいない。人間とモノだけがある」。そして、「人間には価値(尊厳)がある。その価値ある人間がモノを利用しながら、より幸福になっていくのだ(進歩)」というヒューマニズム(人間中心主義)が信じられていました(いまでも信じている人もいるようです)。
しかし人間も、近代科学的に捉えると、ばらばらの物質(例えば原子)の組み合わせとその運動なのであって、死ねば元のばらばらの物質に還って、それで終わりです。
モノの寄せ集めに、絶対的な意味があるといえるでしょうか? モノの寄せ集め(個人)のさらに寄せ集め(社会)に、絶対的な倫理が成り立つでしょうか?
モノには、運動や運動の法則はありえても、意味や倫理はありえません。
近代の科学主義では、人間の心は、複雑な、しかし所詮モノである「脳」の働きに還元して理解されます。もちろん、喜びも悲しみも愛も創造も、モノである脳の働きの産物にすぎません。
……というわけで、近代の物質還元主義的な科学は、つきつめれば必然的に「ニヒリズム」になります。
つきつめなければ、絶対的な根拠はないまま、人間が自分で勝手に「人間には価値がある」と主張しているだけとしか思えない「ヒューマニズム」に踏みとどまることもできますが。
あるはさらにもっと徹底しないようにすれば、「絶対的な意味はなくても、自分なりの意味や生きがいや楽しみや快楽があればいいじゃないか」と思って、それなりに生きることももちろんできないことはありません。
「つきつめれば」ということに関して、非常に典型的なエピソードがありました。
私が初めて大学に毎週講義に行くようになった年、数回の授業が終わった後、やや幼い顔をした可愛い女子学生が、その顔に似合わない深刻な表情で話に来て、こういいました。
「先生、私は考えれば考えるほど、死にたくなるんですが、友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめたほうがいい』といわれました。考えないほうがいいんでしょうか?」
私は、こう答えました。
「きみたちが学校で教わってきたことを元にして、考えれば考えるほど、死にたくなるんだけど、これから考えれば考えるほど、死にたくなくなる、生きたくなる考え方を伝えるから、あわてて死にたがらないで、がんばって授業に出ておいで。」
そして彼女はがんばって続けて授業に出てきてくれましたが、前期末に、私が「どう、まだ死にたい?」と聞くと、彼女は「だいぶ死にたくなくなりました」と答えてくれました。学年末には、さらに元気になっていきました。
これまで、だいぶ深刻な、若者の言葉でいうと「暗い」話をしましたが、もう少しで明るい話になっていきます。もう数回、我慢して聞いてください。
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ニヒリズムということにすごい実感があります。というか、書かれているとおりのことが、みんなの空気のような常識になっていると思う。
でも心は脳の産物にすぎない、けっきょくモノにすぎない、というのには反論しがたいように思います。
どういってみても、それは結局脳の働きじゃん、という感じで。そこになかなか突破しきれないものを感じます。
一見、科学的な事実ように受け止めてしまいがちなフレーズだが、本当に研究している脳科学者は心は脳内の化学反応、電気信号のみでは語れないと明言している人が多い。
ちょっと、前に流行った「唯脳論」とかが脳科学のスタンダードと思うのは少々ゴシップに流されていると私は感じる。
ウワサは検証の必要は有りである。
しかも、自分の心の捉え方=人生の基本姿勢に関わるウワサならば、一生懸命検証しても良いだろう、と私は思う。
その検証は各人に委ねるが、科学と言うゴシップに意外と「きみ」は流されていないかい?
また、我々が間違いなく感じているクオリアの出所を知らない。これでは精神とは何かなど定義できるわけがない。生命の世界は未だ未知の大陸に等しい。
所詮、現象を説明する事のみが科学の使命であり限界である。例えば、物質の粒子性と波動性の二重性を説明出来ないように現象を超えて科学は説明出来ない。また、物理的「力」が生じる根源も同じように説明できない。このように科学には限界がある。
生命の世界はある程度、この現象を超えて形而上学的世界に踏み込まない限り、説明できないだろう。神とか仏とかを必ずしも考えないが、世界、いや宇宙には未だ未知のものがあると考える事が今は妥当な見方だと思う。そういう謙虚な姿勢が人間には必要であると思う。
お返事がすっかり遅くなりました。
宇宙には未だ未知のものがあるという見方、謙虚な姿勢が必要である、というのは、まったくそのとおりだと思います。
しかし、私たち人間は知りえた範囲でコスモロジーを作って、それを手掛かりに生きるほかない生き物だと思いますので、現代人は現代科学のコスモロジーを上手に参照して、ニヒリズムを超えるのがいいのではないか、と考えています。