フランシス・ジャム(1868-1938)は、近代フランスの詩人です。
フランスの田舎町に生れ、終生そこで暮らし、その美しい田園風景を歌い続け、中央詩壇から高い評価を受けてパリに出てくるよう誘われても、決して故郷から動こうとしなかった人です。
何種類も翻訳がありますが、私は堀口大学の訳(『ジャム詩集』新潮文庫、品切中)で愛読してきました。
奥付を見てみると、昭和41(1966)年の15刷で、ちょうど40年ほど読んできたことになります。
次にご紹介する詩は、私にとって生活するということの原型のように思われる風景が描かれていて、愛着の深いものの1つです。
その頃……
その頃わたしは気軽だつた
村のお寺は静かに日に照らされてゐた。
葡萄棚のしたに薔薇の花の咲いてゐる庭
家鴨と白鳥と立ち話をしてゐる田舎道
食鹽(しょくえん)のやうに真白な綺麗な鵞鳥だつた。
聖女(サント)シュザンヌといふのがこの小さな村の名
お祖母さまの名のようにやさしい名。
居酒屋は酒杯(コップ)と煙で一ぱい。
おかみさんたちも此の村ではあまり金棒を曳かない。
村には青葉のかぶさつた
日の照る時にも薄暗く
何処まで行つても果しのない道がある。
このやうな道の上で静かな日曜の午後 村人たちは接吻を交すのだ
かたい接吻 やはらかい接吻 長い接吻。
わたしはこんな風に色色なことを思ひ出す。
さうすると惚れた女と別れた悲しさが胸に涌き上る。
その頃のわたしには五月が今とは別なものに見えた。
その筈さ わたしの心は休みなく恋する為に出来てゐるんだもの。
壁の裾に当る白いお日さまの光のやうな
生一本(きいっぽん)な恋をするためにわたしは生れて来たやうな気がする。
それなのにわたしはいま胸の中に
もぢやもぢやに乱れた髪のやうな情けない恋を持つてゐる。
澄んだ太陽と小さな村の優しい名と、
食鹽のやうな真白な美しい鵞鳥が、
昔の恋にからみつく
聖女シュザンヌの薄暗い長い道の上そのままに。
サント・シュザンヌのような村に生れ、淡いのや切ないのや熱いのや、何度か恋をし、最後の恋人を妻にめとり、数人の子どもをもうけ、幼稚園の園長先生でもしながら、一生を送れたら、それが自分にとってはいちばんいい人生だったのではないか、という気がします。
恋と結婚はともかく、田舎の村の幼稚園の園長先生という生活は、時代がそれを許してくれず、40年も大きな思想的な課題に取り組み続けることになってしまいましたが、本当のところ私の望んでいるのは、ごく素朴で静かな生活にすぎません。
ただそれに少しだけ思想的・時代的意味づけを与えれば、サント・シュザンヌ村の風景はまさに「エコロジカルに持続可能な社会」の原型ではないか、と思うのです。
自分で勝手に背負い込んだ時代的使命を一定程度なし終えて、引退ないし半引退できるようになったら、そういう美しい村で静かに暮らしたいものだ、といまだに夢見ています。
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