フランシス・ジャムと美しい村

2007年03月30日 | 生きる意味








 フランシス・ジャム(1868-1938)は、近代フランスの詩人です。

 フランスの田舎町に生れ、終生そこで暮らし、その美しい田園風景を歌い続け、中央詩壇から高い評価を受けてパリに出てくるよう誘われても、決して故郷から動こうとしなかった人です。

 何種類も翻訳がありますが、私は堀口大学の訳(『ジャム詩集』新潮文庫、品切中)で愛読してきました。

 奥付を見てみると、昭和41(1966)年の15刷で、ちょうど40年ほど読んできたことになります。

 次にご紹介する詩は、私にとって生活するということの原型のように思われる風景が描かれていて、愛着の深いものの1つです。



  その頃……

 その頃わたしは気軽だつた
 村のお寺は静かに日に照らされてゐた。

 葡萄棚のしたに薔薇の花の咲いてゐる庭
 家鴨と白鳥と立ち話をしてゐる田舎道
 食鹽(しょくえん)のやうに真白な綺麗な鵞鳥だつた。

 聖女(サント)シュザンヌといふのがこの小さな村の名
 お祖母さまの名のようにやさしい名。
 居酒屋は酒杯(コップ)と煙で一ぱい。
 おかみさんたちも此の村ではあまり金棒を曳かない。

 村には青葉のかぶさつた
 日の照る時にも薄暗く
 何処まで行つても果しのない道がある。
 このやうな道の上で静かな日曜の午後 村人たちは接吻を交すのだ
 かたい接吻 やはらかい接吻 長い接吻。

 わたしはこんな風に色色なことを思ひ出す。
 さうすると惚れた女と別れた悲しさが胸に涌き上る。

 その頃のわたしには五月が今とは別なものに見えた。
 その筈さ わたしの心は休みなく恋する為に出来てゐるんだもの。

 壁の裾に当る白いお日さまの光のやうな
 生一本(きいっぽん)な恋をするためにわたしは生れて来たやうな気がする。
 それなのにわたしはいま胸の中に
 もぢやもぢやに乱れた髪のやうな情けない恋を持つてゐる。

 澄んだ太陽と小さな村の優しい名と、
 食鹽のやうな真白な美しい鵞鳥が、
 昔の恋にからみつく
 聖女シュザンヌの薄暗い長い道の上そのままに。



 サント・シュザンヌのような村に生れ、淡いのや切ないのや熱いのや、何度か恋をし、最後の恋人を妻にめとり、数人の子どもをもうけ、幼稚園の園長先生でもしながら、一生を送れたら、それが自分にとってはいちばんいい人生だったのではないか、という気がします。

 恋と結婚はともかく、田舎の村の幼稚園の園長先生という生活は、時代がそれを許してくれず、40年も大きな思想的な課題に取り組み続けることになってしまいましたが、本当のところ私の望んでいるのは、ごく素朴で静かな生活にすぎません。

 ただそれに少しだけ思想的・時代的意味づけを与えれば、サント・シュザンヌ村の風景はまさに「エコロジカルに持続可能な社会」の原型ではないか、と思うのです。

 自分で勝手に背負い込んだ時代的使命を一定程度なし終えて、引退ないし半引退できるようになったら、そういう美しい村で静かに暮らしたいものだ、といまだに夢見ています。



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リルケと星空

2007年03月29日 | 生きる意味




 先日、少人数の若者たちと、ワークショップ風の集いで箱根に1泊しました。

 今回は夜のおしゃべりをそこそこに切り上げるつもりだったのですが、またしても話に花が咲いて、結局、4時でした。

 そこで、若者たちから、どういう小説や詩を読んできたのかという質問を受けました。

 自分が学んできたことだけでなく、味わってきたこと・感動してきたことを次の世代と共有できるというのは、とてもうれしいことです。

 世代間のギャップがあまりにも大きいと感じているので、これまでは主として比較的伝えやすい知識や論理で共有できる世界を広げてきたのですが、感性の領域についても、私のほうから伝えようとしたではなく、彼らのほうから興味を示してくれたことはとてもうれしいことでした。

 そこで語ったこと、語りきれなかったことを、少しずつ書いておこうといういう気になっています。

 さてまず、どういう詩を読んできたのかと問われて、その夜はリルケとフランシス・ジャムの名をあげました。

 リルケは、高校時代に初めて知って以来、ずっと折にふれて読んでいる詩人で、詩(和歌・俳句も含め)はずいぶんたくさん読んできましたが、全集をもっている詩人はリルケ(弥生書房版)とジャム(青土社版)良寛(春秋社版)と宮沢賢治(筑摩書房版)の4人だけです。

 リルケには、不安を抱えた近代人的な感性の面と、コスモロジー的な感性の面が入り混じっています。

 コスモロジーが心に深く浸透してくるにつれて、リルケの近代人的な面にはやや共感が薄くなってきましたが、しかし依然としてとても好きな詩人です。

 コスモロジー的な詩を1つ、引用しておきます。「ナルシス」(富士川英郎訳)という詩の一部です。



 星をいっぱいに鏤(ちりば)めたあふれるばかりの大空が

 私たちの憂苦のうえに輝いている ああ 泣くがいい

 枕の中へではなく 空に向かって。この私たちの泣いている

 この私たちの果てる顔のほとりから

 はやくも始まるのだ あたりに拡がっていきながら あの彼方へと

 さそう世界空間が。お前が彼方に向かって

 憧れわたるとき いったいその流れを

 遮るものがあろうか? 誰もいないのだ お前がとつぜん

 お前に向かって来る星たちの群の

 強大な流れと取り組むときのほかは。ああ 吸うがいい

 大地の闇を吸うがいい そして再(ま)た

 再た仰ぎ見るがいい すると軽やかな 顔のない深淵が

 上からお前にもたれかかって来るだろう ほどけた

 夜を孕(はら)んでいる顔が お前の顔を容れるだろう



 私たちが、いろいろ悩んだりしている時、星空を見て慰められる体験を、詩人は深く体験し、より深い言葉で表現しています。

 「世界空間」や「軽やかな顔のない深淵」が、私たちの用語でいえば「大いなるなにものか・コスモス」を指していることは言うまでもありません。

 そして、私たちは現代科学のコスモロジーを学んでいるので、ただのロマンチックな空想としてではなく、より適切な現実の解釈として自分を「星の子」と捉えることができます。

 そういう意味では、私たちは書いたリルケ自身よりもより深くこの詩を味わうことができるという、とてもすてきで不思議な時代を生きているといってもいいでしょう。

 あえて野暮な解釈をすれば(詩を解説・解釈するというのは、いつも野暮だと思うのですが)、「軽やかな顔のない深淵」「ほどけた夜を孕んでいる顔」つまりコスモスが、「お前の顔」つまり個人としての私を、「容れるだろう」、絶対に肯定してくれています。

 コスモロジーを学んだ私たちは、そのことを科学的認識と詩的感性の両面から知って、深く元気づけられてから、ふたたび「私たちの憂苦」に取り組むことができるのです。




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孫といる日々

2007年03月22日 | 生きる意味

 娘がお産のために孫娘を連れて里帰りをしています。

 じーじは孫娘が可愛すぎてなかなか仕事が手につきません。

 孫が書斎に「じーじ、お絵かきしようよ」とかいってやってくると、つい仕事をやめて付き合ってしまうのです。

 世話は主にかみさんがしてくれていますし、けっこう一人遊びもするので、その隙に仕事をしようと思うのですが、ついどうしているかなと気になります。

 娘たちが幼かった頃の、家にいて仕事をしていても、いつも娘たちがどこにいて何をしているか、心のどこかで気を配っているという状態を、ものすごく久しぶりに再体験しています。

 「パパ」という声がすると、零コンマ以下何秒という感じでぱっと反応したことを思い出します。

 今回は「じーじ」という声で、しかも反応速度がやや遅くなっているようですが。

 三世代同居のおじいちゃんは、いつもこういうある種の緊張感があるんでしょうね。

 慣れていないので疲れるといえば少し疲れますが、慣れればどうってことはないでしょう。

 それこそ「気を張っている」ということは「心の張りがある」ということですから、かえって元気になれそうです。

 ちょっとばかり、うらやましい感じです。

 しかしうらやましがっていてもしかたないので、いる間はしっかり付き合ってしっかり楽しみたいと思っています。



 ところで、火曜日のフランクルの講座が終了しました。

 とても深い学びができたと思います。

 しかし、決して学びつくすことはできませんでしたから、またいつの日にかもう一度学びの機会を作れるといいと思っています。

 その他、雑誌原稿や『サングラハ』自体の原稿を書かなければならなかったので、ブログは数日お休みでした。

 また少しずつ書いていくつもりです。




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講座案内

2007年03月15日 | メンタル・ヘルス

 22期オープン・カレッジ ご案内


 戦後日本社会は、主に経済的な価値をひたすら追求してきました。しかし、今、戦後最長の好景気といわれながら、格差は広がり、社会のさまざまな領域で問題は山積み状態です。それは、「競争社会」の大きなマイナス面と捉えられると思います。それと並行して、過剰な経済活動が引き起こしている気象変動・温暖化などの環境問題も深刻です。

 そうした中で、私たちは問題の大きさや自分の微力さに、つい「無力感」や「落ち込み」や「絶望」を感じがちです。しかし、そうした感情は(気持ちはわかるとしても)、問題解決にはつながらないという意味で、有害無益です。「自信」をもって「元気」に「希望」を抱いて、適切な解決の方法に実際に取り組むことだけが有効なのではないでしょうか。

 今期は、まず「自信」「元気」「希望」を引き出すヒントとして3講座を企画しました(引き続き、競争社会をどう変えるか、環境問題にどう取り組むかについても、講座を企画したいと思っています)。

 従来、講座は東京に集中していましたが、ミーティング・ルームの開設に伴い、藤沢でも木曜日の夜講座を行なっています。神奈川県方面の方、どうぞご参加ください。

 また日程は未定ですが、22期も1日、1泊2日のワークショップもできるだけ頻繁に行なっていきたいと思っています。決まり次第、HPやサングラハ誌でお知らせします。


  火曜講座:「感情はコントロールできる――論理療法入門」
                           於 ヒューマン・ギルド(東西線神楽坂徒歩5分)
                           4/3, 17 5,/1, 15 18:45-20:45 火曜日全4回


 健全な感情は人生を豊かにしますが、過度で不健全な感情は無益どころか有害です。落ち込み・うつ、怒り、罪悪感、孤独感、恨み、嫉み、絶望などの不健全な否定的感情をどううまくコントロールして、軽減するか、とてもいい方法があります。「考え方を変えれば、感情が(相当程度)変わる」と言われても、最初は信じにくいかもしれません。しかし、実際にやってみると、かなりみごとに変わります。論理療法は、シンプルでありながらしっかりとした理論にもとづいて、日常生活に活かせる心のテクニックを教えてくれます。
 第一歩から学んでいきましょう。

テキスト:『サングラハ』第79号「論理療法」
サブテキスト:ホーク『きっと、「うつ」は治る』(岡野守也訳、PHP研究所)
参考書:エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)
*テキスト、サブテキストはお頒けできます。


  木曜講座:「コスモス・セラピー」
                     於 サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                     4/5, 19 5/17 6/7, 21 7/5, 19 18:45-20:45 木曜日全7回

                      
 なぜ生きているのか? なぜ楽しい時、幸せな時だけでなく、苦しい時、不幸な時にも生きなければならないのか? 現代の教育や身心の癒しの現場で問われている根源的な問いにどう答えればいいでしょう。それは、専門家だけの問題ではなく、子どもたちの真剣な問いに直面する大人すべての課題でもあります。
 この大きな問いへの答えの決定的なヒントを与えてくれるものとして、前期はフランクルのロゴセラピーと当研究所のオリジナル・プログラムであるコスモス・セラピーを紹介しました。今期藤沢では、引き続きコスモス・セラピーのよりくわしいコースを行います。

テキスト:『生きる自信の心理学』(PHP新書)
サブテキスト:『サングラハ』第73、79、85~7号
*どちらもミーティング・ルームでお頒けすることができます。



  金曜講座:「『唯識三十頌』を読む」    於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                               4/13, 27 5/11, 25 18:30-20:30 金曜日全4回


 唯識は、インド大乗仏教の深層心理学ともいうべき人間の心への深い洞察の理論で、人間のマイナス面・煩悩がどこから生まれるか、プラス面・覚りはどうすれば実現できるかを、きわめて明快に説いています。その内容・主張には特定宗教という枠を超えた普遍性があるといっていいでしょう。『唯識三十頌』(それに対する注釈を編集訳したものが、法相宗の基本経典である『成唯識論』)は、『摂大乗論』と並ぶ大乗仏教の深層心理学・唯識の代表的な古典で、唯識の体系を完成させたヴァスバンドゥ・世親が、晩年、わずか30の詩句にエッセンスをまとめたものです。
 初心の方も中・上級の方にも参考になるように、わかりやすくしかしポイントを押さえて解説していきます。
 なお講義の前に30分程度の坐禅を行ないますので、坐禅のできる服装をご用意下さい。
テキスト:『唯識三十頌』コピーを配布します。


●受講料は、一回当たり、一般3、5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●お申し込み・お問い合わせは サングラハ教育・心理研究所・岡野宛、E-mail: okano@smgrh. gr. jp で。 

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予定は未定

2007年03月14日 | 心の教育

 まだ本の整理がつかず、他の仕事がなかなかできません。

 まったく溜め込んだ本は良かれ悪しかれ溜め込んだカルマの象徴のようなもので、清算するのが大変です。

 サングラハの4月からの講座の予定も、早く決めなければならないのに最終決定ができていません。

 金曜日の中級だけは、受講者の方のご希望もありましたので、『唯識三十頌』の講読をすることに決めました。

 木曜日の藤沢ミーティング・ルームの講座は、入門に続いてコスモス・セラピーの中級編にしようかと考えています。

 火曜日の神楽坂・ヒューマンギルドでの講座は、フランクルの続き(『苦悩する人間』の講読?)をしようかどうしようかと迷っています。

 しかしもう時間がありませんから、ここ1日、2日ですべて決めるつもりです。

 参加を希望してくださっているみなさん、お待たせして申し訳ありません。もう少しだけお待ちください。



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息長く気長に続けます

2007年03月09日 | Weblog


 「還暦でもあることだし、このあたりで一区切り」と、春休みを利用して長年溜め込んだ本の整理をしています。

 本と一緒に整理している書類の中から、新聞に書いたコラム記事の切り抜きが出てきました(「日本霊性紀行」17、新宗教新聞98.7/25)。

 10年近く前も、本の整理で溜息をついていたのだなあ、と苦笑しました。

 たぶん、ブログ読者のみなさんはお読みになっていないと思いますので、軽い息抜きに読んでいただこうかなと思い、掲載することにしました。

                         *

 今、段ボールの山の中で原稿を書いている。ここ20年余り自分が企画した本と、会社に貯め込んだ文献や書類を自宅に送り返したからである。どう整理しようかと、いささか溜息が出る。

 文献について言えば、仏教、心理学・心理療法を中心に、現代思想、世界史、日本史、日本思想史、人類学、生物学(特に進化論)、宇宙論、東西の思想の古典、その他文学なども含め、我ながらよく貯め込んだものだと思う。正直に言うと――蔵書家はたいていそうだと思うが――こなせた分より、そのうち読みたい、読まねばと「積ん読」になっている分のほうが多く、『私はこういう本を読んできた』などという本はまだ書けそうもないが、それでも、読めた分も少なくはない。

 その間、趣味的に読んだ部分を除くと、問題関心は自分でもあきれるほど明快である。なぜ、人間は戦争や環境破壊などという愚かなことをやってしまうのか、なぜ、単純に仲良く楽しく生きて楽に死ねないのか、その原因を解明し、その解決法を見出したいということだった。そしてそれは、自分に与えられた力と時間では、かなりしんどい作業だった。

 で、それは見出せたのかと自問すると、荒削りながら糸口は見出せたというのが自答である。しかし、あるタイプのライター――最近は良かれ悪しかれ少なくなったが――に見られるこうした大きな構えは、ひとから見ると知識や思索の不足によるひどい思い込みにすぎない場合も多い。私にはエディターの目もあり、それはよく知っているつもりだから、独りよがりではないかどうか、ここ十年余り著作・発言活動をして世に問うてきた。

 基本線をモットー風にまとめれば、「理性と霊性の統合」と「個の変容と社会の変容を同時に」である。それを様々な角度から探り語ってきた。それは最近繰り返しているように、日本の神仏儒習合の精神的伝統の再発見にもつながってきている。

 そして、そうした発言に対し、大反響、圧倒的支持とはいかないが、市民からも専門家からも、かなりの手応えと共感は得つつある。(以下略)

                         *

 有り難いことに、このコラム記事の頃に比べると……依然として、大反響、圧倒的支持には到っていませんが……手応えと共感は確実に大きくなってきました。

 もう一息、いや二息か三息か……といったところでしょうか。

 まあ、これまでも息長く気長にやってきたので、いずれにせよ、これからも続けます。




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学校に森をつくろう!

2007年03月07日 | 心の教育


 うれしい便りが続いています。

 かつて編集者時代に、新潟で小学校に森をつくりとてもすばらしい教育をされた山之内義一郎先生のドキュメント『森と牧場のある学校』(手塚郁恵、春秋社)、さらにミラー『ホリスティック教育』(吉田敦彦・中川吉晴・手塚郁恵訳、春秋社)、『喜びはいじめを超える』(共著、春秋社。これは今でもいじめ対策の決定版の1つだと思っています)など、たくさんのホリスティック教育の本を手がけさせていただきました。

 それらの本がきっかけになって、「日本ホリスティック教育協会」(http://www.holistic-edu.org/ )が創設されました。

 ホリスティック教育は、知識の教育もちろん大切にしますが、さらに心の教育と環境教育がとてもうまく統合された教育の流れで、私はその広がりに大きな期待を寄せてきました。

 (ホリスティックな教育の岡野ヴァージョンがコスモロジー教育です。) 

 そのホリスティック教育協会の活動の中からまた新しい本が出来たとのことで、送っていただきました。

 『学校に森をつくろう! 子どもと地域と地球をつなぐホリスティック教育』(せせらぎ出版)です。





 内容は帯のコピーどおり、「森はすべてをつなげてくれる。小さな森が生み出す、驚きの教育効果」です。

 森のある学校でホリスティックな教育が行なわれれば、いじめや不登校などの問題の大半は解決されるでしょう(森のある小学校、中学校、そして病院など見学をさせていただいて、それはもう実証ずみだと感じています)。

 それは、ホリスティックな教育によって、子どもたちのなかに、人とのつながり、自然とのつながり、さらに大きなものとのつながりの心が確実に育まれていくからです。

 この本とホリスティックな教育が日本全体に広がって、子どもたちに元気になってほしいものです。




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子どもの顔が輝やく時

2007年03月06日 | いのちの大切さ


 去年11月、30数年来の友人であるお坊さんの仲介で天台宗の布教師の研修会で「つながりの心を育む」という講演をさせていただき、とても好評でした。

 「みなさん、とても熱心に聞いて下さったようです。/これでまた、コスモス・メッセージ=生きる意味を伝えて下さる方が増えるでしょう。」と書きました

 今日、その友人から、とてもうれしい便りが届きました。

 研修会に参加されたお坊さんの一人が、お伝えしたこと(コスモロジー教育のイントロダクション)をもとに、「いのちの大切さ」について地元中学校で講演をされたのだそうです。

 まさに、コスモス・メッセージを伝えて下さる方が増えたわけです。

 友人がコピーして送ってくれたお寺の雑誌(『彌勒』第42巻、鳥取市青谷町紙屋、彌勒寺発行)に、その報告が書かれており、子どもたちの感想も掲載されていました。






 子どもたちの反応は、感動的です。

 1つだけ引用させていただきます。


 今まで考えたことないけど、当たり前のことが大切だったんだなぁと思いました。気付いたことを将来につなげたいなぁと思いました。最後のまとめの言葉で「生きている それだけで素晴らしい!」っていうのがすごくかっこよかったです。今日学んだことを生かして生きていければいいなぁと思います。将来の夢への目標が広がったような気がしました。


 講演の最後について、著者はこう書いておられます。


 生徒達の顔は1時間前に見た顔とはあきらかに違って見えました。なにかを悟ったような、なにかが流れ始めたような、そんな顔に見えました。教室の中が明るく温かく感じました。私は生徒達の顔に「仏性のかけら」のようなものを見た気がしました。


 子どもたちの顔の輝きは、まさに仏性の輝きです。

 子どもたちの顔の輝きも、それを引き出された、このお坊さんの真心=仏性からのお説法もすばらしいと思いました。

 さらにすばらしいと思ったのは、生徒たちに自分の長所を書き出すというワークをしてもらって、最後に「皆さんが自分の長所を書いたこの紙はお寺に大切に納めておきます。これから先、自分に自信がなくなったり、自分の事がわからなくなったらお寺を訪ねてきて下さい。そして自分が今日書いた紙を見て、自分自身を見つめ直して欲しいと思います」と言われたということです。

 これは、地元のみなさんとお寺を本来のもっともいいかたちで結び直す、新しいかたちの「過去帳」の試みといっていいかもしれません。

 つながり=縁起の心=コスモス・メッセージを伝えていただいたことはもちろんですが、このアイデアにもとても感動しました。


 友人からの便りには、加えて1枚のCDが同封されていました。

 私が『サングラハ』の最新号で、「現象としての仏の生滅、去来と、本質としての不生不滅、不来不去を、百済の琴の音に譬えた個所ですが、譬えがとても美しくて印象に残ったので、ご紹介しようと思いました。/ところで、かつて正倉院御物の箜篌(くご)が復元―複製され、音も復元―演奏されたという新聞記事を読んだ記憶があります。その時も、どんな音がするのだろうと思いましたが、機会がなくてそのままです。いつか聞いてみたいものです。」と書いたのを読んで、その復元された箜篌のCDを送ってくれたのです。

 その古代と現代の融合した不思議な音を聞きながら、この記事を書いてます。





 それにしても、持つべきものは善き友です。




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NHKTVいじめ特集に思う

2007年03月04日 | 心の教育


 おととい、ようやく青色申告の提出が終わり、ほっとしました。

 夜は中級講座で、遅くに帰ってきて疲れたので、昨日はいろいろなことを少し忘れて、のんびりしたいと思ったのですが、いろいろそうもいかないこともありました。

 いろいろの一つは、昨夜、NHKテレビの夜7時半から10時まで、「日本の、これから 『いじめ、どうすればなくせますか』 市民と文科省・教師が大討論」という番組を見ての感想です。

 知れば知るほど、いじめはますます深刻になっていくばかりのようです。

 2時間半かけて、いろいろな意見が出てきましたが、最後はいつものように、「結論は出ませんが、話し合うことは大切です。これからも一緒に考えていきましょう」という話でした。

 公共放送の中立性ということからいうと、やむをえないのでしょう。

 いじめの原因についての特定の分析-判断-対策を支持することはできないのかもしれません。

 しかし、見ていて非常な不満感が残りました。

 話題にしたいのか、問題提起したいのか、解決したいのか、公共放送という以上に大人としての責任が問われているのではないでしょうか。

 もう一歩踏み込んで、元「ようこそ先輩」・現「課外授業」のようなかたちででも、いじめをなくすることのできた事例・方法の紹介などもしてほしいものだと思いました。


 で、私のコメントですが、私はいじめの最大の社会的原因については、神野直彦氏が『「希望の島」への改革』(p.202、NHKブックス)で書いておられる、以下の文章がきわめて端的・簡潔に捉えていると思います(ということは、NHKさんも全体としては、こういうかたちで特定の明快な主張の報道をしていないことはないわけですね)。


 「競争社会」とは、強者が強者として生きていくことのできる社会である。適者生存よろしく、強者が弱者を淘汰していく社会である。強者が弱者を淘汰していくがゆえに、競争社会は効率的だと誇張される。

 だが、「競争社会」のコストは高くつく。確かに競争は、経済システムのコストを低めるかもしれない。しかし、政治・経済・社会の3つのサブ・システムから成る「総体としての社会」にとってのコストは高くつく。

 強者が弱者を淘汰することは、「いじめ」以外の何ものでもない。強者が弱者を淘汰していく競争原理を伝道された子供たちが、「いじめ」に走るのは当然である。

 スウェーデンの中学校の教科書では、子供たちに人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理解の重要性を教えている。日本では人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理解を鼻で嘲笑し、白けるように、子供たちに教えている。


 一方(本音)で、友達を潜在的に、時にははっきり意識的に競争相手・敵とみなし、「強い者が弱いものに勝つのは当然だ」と教えておいて、もう一方(建前)で「強い者が弱い者をいじめてはいけない」と言っても、子どもたちは本音のほうしか学ばないのは当たり前でしょう。

 日本の大人社会全体が、競争社会から協力社会へと根本的な方向転換をしないかぎり、子ども社会でのいじめが根絶されることは、きわめて残念ながら、ないでしょう。

 しかし、そう言うだけでは、今すぐの問題には対処できません。

 社会全体が方向転換を遂げるには、まだそうとう時間がかかりそうですから(私たちはそのための努力も精一杯しているところですが)。

 けれども幸いなことに、特定の社会集団(例えばクラス)を取り仕切ることのできる権限のある人間(例えば教師)が、人間の本質が競争にではなく協力にあること――それに加えて言えば、生物の世界全体がかつて唱えられた「弱肉強食」や「適者生存」だけで語れるようなものではなく、共存的競争-競争的共存しながら、全体としてエコロジカルなバランスを保って共生しているという事実――を、知識としても感受性の訓練としても伝え、並行して相互承認のワーク等を行なえば、その集団の範囲内なら確実にいじめは予防できる、と実践に基づいて私は確信しています。

 また、いったんいじめが始まったグループでも、根気よくそうしたコスモス・セラピーを行なえば治療可能なはずだと思います(これは残念ながらまだ実践の機会がありません)。

 これは1クラスでも可能だし、まして1校単位で取り組めば大きな成果が上がるはずです。

 それは、コスモス・セラピー=コスモロジー教育には、「なぜ人を殺してはいけないか」と同様、子どもに「なぜ人をいじめてはいけないか」を納得できるかたちで語り伝えうる根拠があるからです。

 別に自分の創ったシステムを広げて有名になりたいわけではなく、子どもたちが幸せになってほしいので、一日も早くこのシステムを多くのみなさんに学び-使ってほしいと切望しています。

 NHKテレビを見ながら、またしてもはがゆい思いをした一晩でした。


 今日は、そのストレス解消というわけでもありませんが、誕生日祝いの意味もあってチケットを買っておいた、フランスの名ピアニスト、エリック・ハイドシェックのコンサートにかみさんと行ってきました。

 40年近く前からレコードで聴き続けてきたピアニストの70歳になっての演奏をじかに聴くことができたのは、ある種、感無量です。

 40年近い年月にみごとに円熟した、しかし円熟という言葉も当てはまらないほど瑞々しい演奏に、すっかり感動し、憂き世の憂さをしばし忘れ去ってしまう、すばらしい時間を過ごすことができました。

 人間は、例えばこんなに美しい音楽を創り奏でることのできる存在であり、そのことに目覚めれば、人生にはいじめや殺人や戦争などというつまらないことをしている暇はないことがわかるはずなのですが……




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般若波羅蜜多はコスモロジーである

2007年03月02日 | 心の教育

 一般の方はもちろん、ネット学生の諸君の中にさえ、「そんな長たらしいお経が手に入ったからといって、そんなにうれしいのかな」と思われる方がいるかもしれません。

 それで、ちょっと説明をしておきたくなりました。


 善勇猛、是の如く学する所の甚深般若波羅蜜多は是れ自然学(じねんがく)にして一切世間に及ぶ者無し。

 善勇猛菩薩よ、このように学ぶはなはだ深い智慧の完成は、これは自然の学であって、すべての世間には及ぶものがない。

 上記の一節に出会った時は、うーむとうなってしまいました。

 般若波羅蜜多の学びは、自然の学つまりコスモロジーの学びであり、こうしたコスモロジーは世間のどこにもない、もっともすぐれたものだというのです。

 一般社会はばらばらコスモロジーで営まれていて、だからこそ問題だらけです。

 しかし、ほんとうの自然はすべてつながって一つであり、空なのです。

 ふつうに暮らしていると、運がよくなければ、そういうつながりコスモロジーに出会うことはありません。


 又た、舎利子、若し諸の有情(うじょう)善根未だ熟せずば薄福徳の故に尚お是の如き般若波羅蜜多の経典の名字すら聞くことを得ず、況(いわ)んや手に執りて読誦受持(どくじゅじゅじ)し書写供養し他の為に広説することを得んや。……

 若し諸の有情善根已に熟せば宿願力(しゅくがんりき)の故に此の経に遇うことを得て聴聞受持し書写読誦し恭敬(くぎょう)供養して他の為に広説せん。

 又た舎利子、若し諸の有情善根増盛(ぞうじょう)にして意楽(いぎょう)調善(ちょうぜん)せば是の如き般若波羅蜜他相応の法教乃ち其の手に堕ちん。

 またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きがまだ熟していなかったら、幸運になる効力が不足していて、こうした般若波羅蜜多の経典の名前すら聞くことはできず、まして手にとって唱え保ち、写経し供養して、他の人のために広く説くことなどできないのだ。

 もしもろもろの心ある存在の善なる働きがすでに熟していれば、宿願の力のおかげてこの経典に遇うことができ、聴いて保ち、写経し唱えて敬って供養し、他の人のために広くことができるだろう。

 またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きが盛んで心が善く調っているならば、般若波羅蜜多に対応した真理の教えがその手に落ちるだろう。


 私たちが、つながりコスモロジー・空の教え、そしてそれが書き記された般若経典に出会うのは、偶然ではないというのです。

 自分の心のもっとも深いところに貯められた善なる働きの蓄積が幸運をもたらし、真理の教えの経典に出会わせてくれたのです。

 還暦になるところで『大般若経』が思いがけない値段で手に入ったのも、ただの偶然の幸運ではなく、宿願の力・福徳ということなのかもしれない、という気がします。

 学んで、さらにこれを広くたくさんの心ある方に伝えることができるようになるには、さらなる善なる働きの成熟が必要でしょう。

 続けて精進し、心が少しでも熟してきたら、またその分をお伝えしたいと思っています。




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大般若経入手!

2007年03月01日 | 心の教育


 昨日、国訳一切経の『大般若経』全6巻が届いて、とても喜んでいます。

 時々、古本屋のサイトで探していて、数日前に比較的安いのが見つかり、「この際、思い切って買おう」と決めてから、ふと、「もしかしたらもっと安いのが……」と、インターネット・オークションで探すと、さらに格安のがあったのです。

 それで、落札して連絡をしたら、持ち主の方が私を『唯識の心理学』の著者と知って、「有効に使っていただければそれでよろしいです」と、大幅に値引きしてオークションの実費だけで頒けて下さいました。

 いったんは遠慮したのですが、結局、お言葉に甘えさせていただきました。

 不思議なタイミング-ご縁にとても感謝しています。


 それで、どんどん読みたいと思ったのですが、早く片づけたいと思っていた帳簿の整理が、間に他の仕事も入ってなかなか終わらず、まだ少しだけ残っていました。

 今日になって、ようやく終わりました。

 明日、青色申告会に行って指導を受けて提出する予定です。たぶんオーケーでしょう。

 なんともいえずほっとしたところです。

 少し慣れたとはいえ、何年やってもその度にストレスなものですから。


 それから、午後、散歩から帰ってきて、ここのところ読んでいた第6巻の最後の部分(元の巻数でいうと592~600巻)を読み終えました。

 この部分は、『善勇猛般若経』(『大乗仏典①般若部経典』中公文庫所収)に当たり、現代語訳で読んでみて、非常に深い内容があってしかも比較的コンパクトなので、まずここから読んでみようと思ったわけです。

 漢文(書き下し文)の言葉のもっている格調・熏習力はやはりすばらしい、と感じています。

 例えば最初のところで、善勇猛菩薩が「般若波羅蜜多とは何か」と問うと、釈尊はこう答えています。


 何をか般若波羅蜜多と謂うや、とは汝等当(まさ)に知るべし、実に少法(しょうぼう)も般若波羅蜜多と名づくべき無しと。甚深(じんじん)般若波羅蜜多は一切の名言(みょうごん)の道を超過せるが故に。

 …般若とは謂ゆる仮施設(けせせつ)なり。仮施設に由りて説いて般若と為す。

 何を般若波羅蜜多(智慧の完成)というかといえば、おまえたちはまさにこう知るべきである、実にほんのわずかも般若波羅蜜多と名づけるようなものはない、と。はなはだ深い般若波羅蜜多は一切の言語表現を超えているからである。

 …智慧というのはいわゆる仮に設けた言い方である。仮に設けた言い方で、〔あえて〕智慧と説くのである。


 覚りの智慧については、どんなに語っても結局語ることはできません。

 覚りたければ、最後は黙って坐るしかないのです。

 しかし、そういってしまうと、人に伝えることはできませんから、禅定その他の波羅蜜多の実践に誘うために、あくまでも仮に言葉にするわけです。

 そして、いったん言葉にし始めたら、『大般若経』600巻にもなってしまうのです。

 国訳一切経版は、途中の繰り返し・重複的な部分を省略していて600巻全部ではないのですが、それでも主要なところはすべて入っています。

 ともかく、根気が続いたら、この6冊を読み終えて――あるいは読みながら並行して――省略された部分にも原漢文で挑戦しようか、という気になっています。

 ある意味では退屈してうんざりするほど繰り返しが多く長い長いお経なのですが、なぜか不思議な魅力を感じています。

 玄奘三蔵が、一言一句省略せず全部訳そうとした気持ちが少しわかるような気がします。

 たぶん、過去のいつでもなく、未来のいつでもなく、今しかそういう気にはならないというふうな、人生の時機なのかもしれません。

 ともかく、一千数百年も前に伝わり今も伝承されている仏典は、きわめて興味尽きない私たちの精神的遺産です。

 この精神的遺産を伝えてくれるこの6冊の本は、明日、還暦を迎える自分へのプレゼントにするつもりです。




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