自然な欲求の階層構造
アメリカの心理学の第3の勢力といわれる人間性心理学の創始者エイブラハム・マズローは、1960年代に「欲求の階層構造仮説」という仮説を提出しました。
これは、人間およびその行動の動因である「欲求」「欲望」について、またそれと関わって環境問題について考える上で、きわめて画期的な仮説だと思われるのですが、残念なことに日本ではまだ一般的にも広く知られるに到っていませんし、仏教界ではほとんど知られていないようです。
簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしていて、低次のものが適度に適時に満たされると次々に高次のものが現われ、最終的には自己実現欲求、自己超越欲求といった高次な欲求に到る」と言っていますが、重要なポイントは、自然な欲求の追求は悪ではないというところにあります。
いちばん基本的で低次のレベルには「生理的な欲求」があるといいます。
それは、いちばん基礎的なものですから非常に切実ですが、限度があります。
例えば、喉が渇いた時には水を飲みたいという欲求は切実ですが、ある程度飲むとそれで満たされてそれ以上は飲みたくなくなるようなものです。
言葉を区別して使えば、「欲望・貪り」には限度がないが、「自然な欲求」には限度があるということです。
しかし、人間は生理的欲求が満たされればそれだけで満足かというとそうではありません。
いったん満たされると心理的にはそれは大した問題ではないように感じ、より高次の欲求である「安全と安定の欲求」が感じられるようになります。
つまり、お腹がいっぱいでも、いつ攻撃されるかわからず、どこにいればいいのかわからない状況では、人間は満足できないということです。
そして、安全と安定の欲求が満たされると、次には「愛と所属の欲求」、つまり親や家族に愛されていて自分の居場所があるといったことへの欲求が現われてきます。
この2つの欲求のどちらが優先度が高いかというと、安定欲求です。
例えば、虐待されている子どもを福祉関係者が保護しようとすると、暴力な親であるにもかかわらず小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、知らない所に連れて行かれるよりも、愛されていなくてもよく知った安定した環境にいたいという欲求のほうが強いからだと考えると理解できます。
では、生理的欲求から愛と所属の欲求までが満たされれば人間は満足できるかというと、そうではありません。
人間はある年齢になると、自意識が育ってきて、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。
そして、見ている私が見られている私つまり自己イメージをいいと思えること、自分で自分を認められること、それから、それを保証するように外からの承認もなされることを求めるようになります。
それを「承認欲求」といいます。
さらに承認欲求が満たされてもそれで終わりではなく、より高次な欲求が現われるといいます。
この世に生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたいという「自己実現欲求」です。
しかし、マズローの言う「自己実現」とは、しばしば言葉の印象で誤解されてきたのとは根本的にちがっており、周りの人とのつながりを無視した身勝手な自分の願望や夢の追求ということではありません。
この世に生まれてきたことは、他の人々とのつながりの中で他の人々とともにこの世界に生きているということですから、ほんとうの「自己実現欲求」とは、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したかたちでよく生きたいという欲求なのです。
これは「自利利他円満」という大乗菩薩の理想にきわめて近いものといっていいでしょう。
ところが、自己実現できても、あるいはできたからこそ、その実現した自己には死という限界があることが自覚にのぼってきます。
すると、やがて死ぬこの有限の自己を超えて永遠なるものにつながりたいという「自己超越欲求」が現われるのです。
このように、自然な欲求を満たしていくと、やがて自己実現欲求と自己超越欲求まで現われてくるというのが人間の本質である、とマズローは言うのです。
繰り返すと、人間の自然なそれぞれの「欲求」には限度があり、適当な時に、適当な程度満たされると欲求のレベルが上がっていき、ついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質である、とマズローは言っています。
特に自己超越的欲求は、従来の用語でいえば「宗教的欲求」です。
こうして見てくると、レベルが上がっていく「自然な欲求」と、限度を知らない快楽、富、地位、権力、名誉などへの「欲望」とが、一見似ていて実はまったくちがうものであることはおわかりいただけるでしょう。
これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、根拠のない願望的な理論ではありません。
十分なセラピーのケーススタディや統計調査によって相当程度裏づけられてきているようです。
もし、この仮説が妥当だとすると、これまでの多くの宗教に見られた「欲望は際限がないもので悪であり、欲望はなくすか、少なくとも抑え少なくすることが正しい」という考え方は修正する必要が出てくるでしょう。
つまり、これまで「欲」という言葉で同一視されがちだった自然な欲求と欲望をはっきりと区別して、自然な欲求は肯定し満たすことによって自己実現や自己超越への欲求へと高めていく、欲望は否定するというより癒していくという捉え方をし、また指導の仕方もそういう方向で考える必要があるということです。
自然な欲求と神経症的欲求=欲望
さて、もし人間の自然な欲求がマズローの言うようなものだとしたら、なぜ人に迷惑をかけ自分も不幸になってしまうような際限のない欲望というものが存在するのでしょうか。
それについてもマズローの説明は非常に画期的であり説得力があります。
子どもが不幸にして成長のプロセスで適当な時に適当な程度に自然な欲求を満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こるというのです。
例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。
子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうすることもできないので、「私はどうせ愛されない存在なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、愛されることへの欲求を心の中で抑圧することによってなんとか耐えて生きるようになります。
そうすると、心の奥ではほんとうには愛されたいのに、意識的には「愛されっこない」とか「愛されなくてもいい」と思い込んでいるために、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれません。
すると、当然愛されません。
すると、欲求は満たされません。
何を求めているか自分でもわかっていないために、適切な求め方ができず、不満が残り、愛の代替物を求め続けることになってしまうのです。
とても悲しい悪循環です。
例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行動がとれなくなります。
例えば非行の無意識の動機は、主に人から認めてほしい、注目してほしい、目をかけてほしいということだと思われます。
しかし、それがはっきり意識化されていないため、つっぱって、無理やり人の目を引く、つまりたとえ否定的にでも注目されるような目立つ悪さをするのです。
しかし、それではほんとうには目をかけてもらえない、肯定的な注目をされない、まわりの人の承認は得られませんから、いつまでたってもほんとうには満足できないし、うまくいかない、だからますます目立つ行為をしたくなるということのようです。
これもまたとてもつらく困った悪循環です。
つまり、従来「欲望」と呼ばれ悪と見なされてきたものは、マズローの用語で言い換えると抑圧され病的にゆがんでしまった「神経症的な欲求」なのです。
ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性で考えればわかりきったことであり、そういう適切な行動をすれば承認を受けられます。
そして、ある程度の承認を受ければ人間は満足できるのです。
承認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。
繰り返すと、自然な欲求が適時に適度に満たされないと、抑圧され無意識的な固着が起こります。
その結果、意識的な欲求のあり方がゆがんでしまって、ほんとうには何がほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの限度を知らない「神経症的な欲求構造」ができてしまう、というのです。
しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすることによって神経症的な欲求構造は癒すことができる、とマズローは言っています。
次回、この「欲求と欲望」の問題についてさらに考えていきたいと思います。
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