ここのところ仏教関係からの依頼がほとんどだったのですが、久しぶりにキリスト教関係の依頼があり、キリスト教主義大学のチャペルアワー(礼拝)の説教をしてきました。
「神仏基習合」を標榜している私としては、どちらからも声をかけていただけるというのは、とてもうれしいことです。
少し長いのですが、ネット学生のみなさんにもシェアしたいので、以下、原稿を全文掲載します。
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聖書:コヘレトの言葉(聖書協会訳では「伝道の書」)11:8―12:2(実際には今プロテスタントとカトリック両方の教会で標準的に使われている「共同訳」を使いましたが、私にはその前のプロテスタント標準だった「聖書協会訳」のほうがぴんと来るので、そちらで引用しておきます。)
人が多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあることを忘れてはならない。すべてきたらんとする事は皆空である。
若い者よ、あなたの若い時を楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。
あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け。若い時と盛んな時はともに空だからである。
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
今日、みなさんにお話ししたいことは、タイトルからすぐにわかっていただけると思います。
私は、二つの大学の計三つの学部と、集中講義も合わせるとあと二つ、四つの大学で、宗教論や仏教などを教えています。つまり、みなさんと同世代の若者とたくさんつきあっているということです。
つきあいながら、いつもぜひ伝えておきたいと思って繰り返すことがあります。それは、学生時代というのは長い人生の一部であり、しかも非常に重要な一部だということです。これは、当たり前といえば当たり前なのですが、必ずしもみなさんの多くが自覚しているとは思えないからです。
大学はふつう四年間です。その後、仕事について社会人として六十歳定年まで働くとしたら四十年弱です。つまり、学生時代は社会人時代の十分の一の時代だということです。その学生時代に何をしたか、何を学んだかが後の十倍近い人生をかなり左右するのですね。
いうまでもないかもしれませんが、そのことをしっかり自覚して学生時代を過ごしている学生諸君は必ずしも多くはないように見えます。もちろん、社会人になってから学ぶこともありますし、学びなおせることもあります。しかし、そうとう決定的なベースになることは確かです。
学生時代に自覚的に準備と蓄積をしておいたのとそうでないのとでは、自分の納得できる職業につけるかどうか、職業についた時に実力があるかないか、そうとうな差が出てきます。その差は、いうまでもなく人生の満足度、クォリティ・オヴ・ライフの差になります。
私はもうすぐ六十歳になりますが、今も学生時代に学んだことをベースにして、本を書いたり教えたりして、生活しているわけです。そのなかで、学生時代にやっておいてよかったなと思うことと、もう少しやっておけばよかったなと反省することがあります。
今日は短い時間ですから、反省のほうの話はほんの少しにして、主にやっておいてよかったなということのほうの話をしたいと思います。
反省のほうは、若さの特権でもあるのですが、学生時代、人生の時間が無限にあるような気がしていたことです。今日の聖書の個所のようなことは、教えられて知ってはいましたし、ある程度は頭に入っていたのですが、それでもやっぱり無駄遣いしてしまった時間がずいぶんたくさんあったような気がします。
今年二十歳になったみなさんもおられるでしょうが、私はちょうどその三倍くらいを生きてきたことになります。生きてきてみて感じるのは、人生の時間は有限で、決して長くないということです。それどころか、あっと言う間だったという気がすることもあるくらいです。
これは、私よりも上の、七十歳、八十歳、九十歳の方にうかがっても、みなさんが口を揃えて言われることです。別に暗い話をするということではなく、事実として、残念ながら人生は私たちが願うのよりもはるかに短い、というのが実感です。やっておきたいことや味わいたいことや学びたいことなどなどのすべてを実行・実現するだけの時間は、人生にはないようです。
しかし、よかったなと思うのは、それでも今日の聖書の個所のようなことを教えられて、人生は青春だけでできているのではないということがいちおうは頭に入っていたことです。
しかも、人生は青春だけでないどろこか、平均寿命の長くなった現代では、学生時代の約十倍の長さの社会人時代の後に、現役引退後の人生があります。男女の大まかな平均の八十歳まで生きるとしたら、六十歳から二十年間、つまり体力も頭脳も衰えてきてから、みなさんの生きてきたくらいの長さ、学生時代の五倍くらいの人生があるわけです。
学生時代に準備し蓄積したものが社会人・現役の時代のベースになるように、さらに学生時代と社会人現役時代に準備し蓄積したものが引退後の人生のベースになると思いますが、現役時代には仕事で忙しくて、よほど自覚的でないかぎり、今やっていることで精一杯、他のことまで考えられないという時間の過ごし方をされる方が多いようです。
男性のケースでいえば、定年退職後になって、奥さんや家族との心のふれあいの蓄積、会社以外の人とのふれあいの蓄積、生きがいになる趣味や会社以外の仕事の準備、そもそも仕事をやる以外の、自分が生きていることそのものの価値を見出しておくという人生観の準備ができていないことに気づいて、非常にとまどわれる方も少なくないようです。
人生とはどういうものなのかについての考えを「人生観」と呼ぶとすれば、誰でも一定の人生観は持っています。しかし、どういう人生が本当にいい人生なのか、どういう人生を過ごしたいのかについてのはっきりした、そして生きてみて実際に充実・満足できるような考えのことを「人生観」と呼ぶとすると、そういう本格的で本物の「人生観」が確立できている人は決して多くないように思われます。
人間は、他の動物と違って生まれつきの本能だけで生きていくことはできません。むしろ、ほとんどのことを学習しなければならないのです。人生観も学習しなければ身につきません。もちろん生活体験の中でそれなりの人生観は得られるのですが、今いったような本格的な「人生観」は、意識的に学習しないと身につかないのです。
ところが、現代の日本では、人生観についての学習をするような科目は義務教育の中にはまったくといっていいほどありません。そこで、多くの若者諸君が自分の生活体験の中で何となく自分なりの人生観を身につけているわけです。
しかし、私の接する学生諸君の人生観には、学生時代の約十倍の社会人現役時代、そして五倍くらいの引退後の人生があるということが、ちゃんと計算に入っていないことが多いように見えます(みなさんには当てはまらない誤解だったら、失礼)。
そこで、私はまず何よりも、人生の全体の長さを計算に入れた人生観を作ることが必要だということを指摘するのです。つまり、青春だけでなく一生全体に通用する人生観が必要だということです。そして、一生に通用するような人生観には、一生に通用するような、いつでも・どんな状況でも通用する、つまり普遍的な価値観が含まれていなければならないのではないだろうか、と問いかけるのです。
そういう価値観・人生観を確立するには、時間と努力が必要です。そして、食べるための労働ではなく、そういう人生観の確立のために注ぐ時間と力の余裕があるのは、青春時代だけです。しかも、人生観の学習のための素材が豊富に提供されているのが大学です。だから、就職の準備や資格の取得もしておいたほうがいいでしょうが、「学生時代にこれだけはやっておくといいこと」の第一番にあげたいのは、一生通用するような、年をとっても生きることにしっかりと意味を見出せるような、本物の人生観を確立することです。
そのためには、そもそも人生とは何かということをはっきりとつかむ必要があります。私にいわせていただけると、そのもっとも根本的なものが、私たちは誰もがみなすべて生まれてきたという事実です。そんなことは当たり前ではないかと思われるかもしれません。確かに当たり前です。しかし、その当たり前の事実の深い意味をよく自覚している人は多くない、と思うのです。
誰か、自分で自分を生んだ人がいるでしょうか。おそらく私の知るかぎり、かつても今もこれからも、世界の中で自分を自分で生むことのできる人は一人もいないと思います。それは、遺伝子操作でクローン人間が作れるようになっても(すでに技術的にはできるようになっており、もしかすると密かに生まれているのかもしれませんが)、それ以前から四〇億年のいのち―遺伝子のつながりがなければ、遺伝子操作ができないという意味で、変わることはありません。
私たちのいのちが自分で生んだものではないということは、私たちのいのちを生んだものがあるということです。その私たちのいのちを生んだもののことを、キリスト教では「神・造り主・創造主」と呼んできました。
ここで大切なことは、「神・造り主・創造主」という言葉を使うかどうか、その言葉に伴うイメージが好きかどうか、その言葉に関してキリスト教が教えてきた教えを信じ込むかどうかではない、と私は思っています。
重要なのは、私たちが生まれたということが事実である以上、私たちを生んだ私たち個人個人を超えたいわば「より大いなる何ものか」が存在することも事実だと考えざるを得ない、ということです。
私たち人間のいのちは、当たり前のようでもあり不思議なようでもあることですが、心を持っています。その心で、自分が生きているということを感じたり考えたり、さらに自分を生かしているより大いなる何ものかのことを感じたり考えたりすることができます。そこに人間が、他の生命でない物はもちろん、他のどの生命とも違う特徴があるといっていいでしょう。
人間は大いなる何ものかから生まれたものでありながら、その大いなる何ものかのことを感じ考える存在なのです。現代人に納得しやすいように、私はその大いなる何ものかのことを「宇宙」とか「自然」と呼ぶことにしていますが、人間は宇宙・大自然から生まれたものでありながら、自らを生み出した宇宙・大自然のことを認識する存在です。
そこに、人生をどう捉えるかの原点があると私は思います。自分を超えた大いなる何ものかによって生まれ、そして人生をとおして、その大いなる何ものかに支えられ包まれているのではないでしょうか。そのことを感じ考えるかどうか、自覚するかしないかは、人生全体の質、クォリティ・オヴ・ライフを決定的に左右すると思えます。
若さ、能力と時間に恵まれている時代に、ぜひ、自分をこの世界に生み出した自分を超えた大いなる何ものかのことについてしっかりと学び、自覚して、自分の人生観を確立する、そして人生観の基礎・原点をつかむということをやっていただくといいのではないか、と強くお勧めしたいと思います。
いつも言うのですが、私の次世代の諸君に対する基本姿勢は、「けっして強制はしないし、できないが、強く強くお勧めしたい」ということです。
受け止めてもらえると、とてもうれしいです。
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