木曜日はM大の3回目。ようやく本格的授業です。
前近代のコスモロジー(世界観・価値観・人生観のセット)では、基本的には西洋では神、日本では神仏・天地自然・祖霊という大いなる何ものかが最上位にあり、人間は中間にあり、その下に人間以外の物があるというかたちになっています。
つまり、人生の意味や倫理の絶対の基準があったのです。
それに対して、近代の前半では、近代科学の方法では神の存在は検証できないので、存在しないことになり、人間と物があるだけの世界になりました。
これは、人間が神話と権威によって自分たちを束縛・抑圧する神(およびその代理としての教会)から解放されるという「人間(中心)主義=ヒューマニズム」をもたらしました。
神ではなく人間にこそ尊厳の基礎があるというのです。
こうしたヒューマニズムはすばらしいものであり、さらに今となっては当たり前のことで、どこがいけないというのでしょうか?
しかし近代の後半では、近代科学の主客分離、分析的な方法が人間にも向けられるようになり、突き詰めると=分析を徹底すると人間も原子という物にすぎないということになり、物にすぎないものに絶対の意味はない、神は存在せず人間も物にすぎないのなら倫理の絶対の根拠はない、という「ニヒリズム」が到来します。
近代的なヒューマニズムは、それと切っても切れない関係にある近代科学の分析という方法を徹底すると必ずニヒリズムになるのではないでしょうか(徹底しなければヒューマニズムに留まることもできますが)。
無神論-ニヒリズムに陥ると、生きる意味・理由がわからなくなります。
意味のない人生を、それでも生きるとしたら、生きている間はそれでも楽しみ・生きがい・快楽……はあるので、それを追求して生きるしかない、ということになります。「快楽主義」です。
快楽を感じるのはいうまでもなく「自分」ですから、自分がいちばん大切ということになります。これを、「エゴイズム」といいます。
日常用語の「エゴイズム」は自己中心・自分勝手という意味ですが、思想用語としては「結局のところ自分がいちばん大切、人生の基礎は自分にある」という考え方をいいます。
エゴイズムと快楽主義でやっても、突き詰めれば意味はないのですが、突き詰めなければ何とかなります。
そして、突き詰めないためになるべく深く考えないようにして日々他のことで気を紛らわせて――これは哲学者パスカルのいう「気晴らし」です――過ごすのです。
ヒューマニズムも所詮気晴らしのかたちの1つにすぎないのかもしれません。
そういう、ニヒリズムかエゴイズム・快楽主義の気晴らししか人生観の選択肢はないのでしょうか?
近代科学のコスモロジーの限界はそういうところにあります。
かといって、科学・合理主義を身に付けた現代人は、神話的な宗教のコスモロジーに帰ることはなかなかできません。
空しさに耐えかねて、神話的な宗教に退行する人もいますが。
ところが、現代科学の示しているコスモロジーは、前近代的な神話的コスモロジーとも近代的な無神論的なコスモロジーともちがっています。
前近代的なコスモロジーの人生の意味を語ってくれるという面と、近代的なコスモロジーの科学的・合理的な根拠があるという面、その両面をもった、とても希望のある――あえていうととても都合のいい――コスモロジーが提示されているのです。
しかし、いろいろな事情があって、日本の標準的な教育の過程では、近代科学の成果しか――それも分野別の断片的な知識としてしか――教えられていません。
そのために、日本人、特に若者の多くは、程度はともかくとしてニヒリズム・エゴイズム・快楽主義に陥る強い傾向があり、それに耐えられないと問題のある宗教に傾きがちです。
そこで、これから前近代的な宗教でもなく近代的な科学主義でもなく、現代的な科学の示す世界像を伝えていきたい、と思っています。
……という、イントロダクション的な授業でした。
授業が終わって、何人もの学生たちが話に来てくれました。
みんな自分の人生観を確立するための手がかりを真剣に求めているようです。
この後、このブログでも連載したコスモロジーをヴァージョンアップした内容の授業をしていきます。
きっと多くの学生たちが、これまでの学生たち同様、あるいはそれ以上の肯定的変化を示してくれることでしょう。
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