最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。
日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。
そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。
そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。
そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。
そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。
大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。
これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。
さて最後に、かつて本ブログでも書いたが、改めて「四弘誓願(しぐせいがん」について書いておきたい。
『大般若経』で三十一項目にもわたって述べられた菩薩の誓願を、中国の天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)は主著『摩訶止観(まかしかん)』の中で四つにまとめていて、「四弘誓願」という。「大変広い四つの誓願」という意味で、なぜ「弘・広い」のかと言うと、私だけではなくてすべての衆生に関わるものだからである。
日本仏教では古くから天台宗だけではなく多くの宗派で、この「四弘誓願」が唱えられてきたようである。派によって言葉は少し違うようだが、以下、臨済宗で用いられているテキストをあげる。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
おおかまに訳すと以下のようになるだろう。
生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う
煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う
真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う
覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う
この「四弘誓願」をただ唱えているだけの儀式が多く見られるが、意味を知って唱えるととても感動的なので、ぜひ意味を学んで唱えるようにするといいのではないかと思う。
ただ、これはあまりにも高い理想で、全面的に「ねばならない」ものとして受け止めてしまうときついので、「なるべくそうありたい」というふうに柔軟に受け取るといいと筆者は考えており、そのためにもう少し軽い訳を試みたのが以下の文章である。「超訳」という言葉は商標登録されているそうなので、「超意訳」とした。
超意訳「四つのおおきな願い」
世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
ほんとに最高にいい人になれるといいよね。
筆者は、この四つの言葉それぞれの後にカッコでくくって「(なるべくそうなるように努力しよう)」と付け加えることにしている。
論理療法で「絶対的にそうしなければならない」と考えるのを「マスト化」という。こうしたあまりにも高い理想をマスト化して捉えるととてもつらくなり、つらさのあまり「無理」などと言ってやめてしまうことにもなってしまう。
論理療法では硬直したマストに対して、柔軟な「プリファー・なるべくそうでありたい」という考え方を勧めている。
マスト化して無理だと感じてやめてしまうくらいなら、マスト化せず、「到達できないかもしれない。たぶんできないけれど、でもここを目標にしたい。なるべくそうありたい」、「初歩でも何でも、とにかく菩薩は菩薩」というふうに心を決めれば、いろいろ悩みがあっても人生を死ぬまではちゃんと生きられるだろう。
であるから、筆者は、悩み多き人生を四弘誓願を心に、広く言えばこの三十一願を自らの願として、「小さくても菩薩という人生を送れるといいな」と思うことにしている。無理をしないで「送れるといいな」ということで行きたいと思っているし、読者のみなさんとも一緒にそうなれるといいなと思いながら、一緒にさらに学びを続けられたらと思っている。
ところで、「四弘誓願」は三十一願を四つにまとめていると言ったが、実は残念ながら三十一願の大きな基本的な方向である「仏国土の建設」が言葉として表現されていないと筆者は感じていて、自分が唱える時には、般若経典に繰り返し出てくる「成熟衆生厳浄仏土(じょうじゅくしゅじょうごんじょうぶつど)」「すべての生きとし生けるものを成熟させ、美しい仏の国土を創り上げよう」という言葉を補うことにしている。
すでに繰り返し述べてきたことだが、ここでも、これまでの常識的な理解と異なり、般若経典で語られる大乗仏教は、ただ個人の心の救いを目指すだけのものでなく、全世界を覚りによって創造される美しい仏の国にしたいというきわめて大きなスケールの社会的理想をも掲げた思想運動であり社会運動でもあったということを改めて指摘しておきたい。
そして、日本史の授業では教わらなかったことだが、『日本書紀』や『続日本紀』を右と左の偏見を排してちゃんと読み直してみると、大乗仏典・般若経典の「この国を仏国土にしたい」という誓願・国家理想は、聖徳太子のものであり、天智天皇や藤原鎌足のものでもあり、天武天皇のものでもあり、聖武天皇や藤原不比等のものでもあった、つまり「古代日本の国家理想」だったということは確実だ、と筆者は考えている。
第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。
自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。
第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。
ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。
それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。
第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。
そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。
仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。
大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。
そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。
神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。
覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。
菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。
大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。
それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。
私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。
業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。
私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。