第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。
自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。
第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。
ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。
それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。
第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。
そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。
仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。
大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。
そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。
神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。
覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。
菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。
大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。
それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。
私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。
業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。
私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。