16日夜、聖徳太子『十七条憲法』について講演をしてきました。
折も折、憲法改正が実際の日程にのぼるかもしれないという状況のなかで、タイトルのような話をする機会が与えられたのは、ある種、時なのかもしれない、という気がしています。
聴衆の反応には大きな手ごたえを感じました。
すでに、2003年、つまり十年も前に書いた拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』(大法輪閣)でも、2011年の『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(太陽出版)でもあまり感じられなかった手ごたえでした。
日本人のアイデンティティはどこにあり、これから日本をどういう国にすればいいのか、本格的な危機感と問題意識をもつ人が増えてきているのでしょう。
これが、日本を持続可能な方向へと方向転換させる大きな潮流になっていくことを願わずにはいられません。
詳しくは、拙著2点をお読みいただきたいし、このブログにも関連記事をたくさん書いてきましたが、とりあえず当日の講演要旨を以下に収録・紹介しておきたいと思います。
『十七条憲法』は日本初の憲法である。
そこには、「和」こそ、これから目指すべき日本の国家理想・国家目標だという高らかな宣言がなされている。
「和」には、人間同士の平和はもちろんさらに人間と自然の調和という意味も含まれており、そうした「和」の国日本を建設するという国家的プロジェクトを実行-実現するうえで不可欠の心がまえが語られている。
そういう意味で、『十七条憲法』は、日本の目指すべき「国のかたち」と「心のかたち」を示したものである。
なぜ「和」の国でなければならないかを、聖徳太子は、伝統的神道に加えて仏教と儒教を統合的に捉えた「神仏儒習合」の教えによって明らかにしている。
そうした「神仏儒習合」の精神は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と時代を経ながら全国津々浦々、庶民のすべてに到るまで日本人全体に浸透し、いわば「日本の心」になっていった。
日本人の正直で真面目で勤勉で親切で……といった善良な心・心の「型」は、「神仏儒習合」の教えによって育まれたものである。
その「神仏儒習合」という心の型・精神性・倫理性が、明治維新による近代化・西洋化、敗戦によるアメリカ化、そして70年代以降ますます進む過度の経済偏重・物質主義によって「型崩れ」を起こしているというのが、現在の日本の精神性・倫理性の荒廃-崩壊のもっとも大きくかつ深い原因なのではないか。
そういう状況のなかで、私たち日本人にとって日本という国の原点である『十七条憲法』と「神仏儒習合」のもっていた意味を再発見することが急務なのではないか。
第一条には、国家理想としての「和」とそれを妨げる「黨」つまり無明から生まれる党派心が明らかにされ、徹底的話し合いを通した合意による国家建設への決意が語られている。
第二条には、無明の心を正す方法として仏教を国教化することが宣言されている。
第三条には、そうした国家建設の目的は人間同士の平和と人間と自然の調和であることが明らかにされ、それへの全面的協力への要請がなされている。
第四条以下には、到達目標としての自治、それに到るプロセスとして徳治、法治が語られ、国家リーダーが「愛民」・菩薩の心を持って協力しあうべきこと、統治は民のためになされるべきことが語られる。
とりわけ要となる第九条には「信」を共有すべきことが語られ、最後の第十七条には改めて独裁ではなく合議による国家建設が説かれている。
そこには、賢者・菩薩的リーダーが協力しながらリードして日本を、人間同士も人間と自然も穏やかに幸福に生き続けることのできる、現代的に言えば「エコロジカルに持続可能な福祉国家」にしたい・しようという国家理想の宣言とその実現への強い勧誘・勧告がなされている。