日本は心理的な雪崩寸前?

2006年06月28日 | 持続可能な社会

 YOKOさんの6月25日のコメントに以下のような、やや質問風の感想がありました。


 私は『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』を読みながら、彼(スウェーデン)と我(日本)のあまりの違いに暗澹たる気分に陥ります。問題は山積みなのに時間は短くて・・。どこから手をつけるべきかと考えると・・・。まず問題意識の共有とそれぞれのちからを結集ということですか?


 これは、多くの方が共通に感じる感想-質問という面があると感じましたので、ここでお答え風感想を述べたいと思います。

 私も、『スウェーデンに学ぶ……』を読んだ時、あまりの違いに絶望的な気分になりそうになりました。

 YOKOさんの「暗澹たる」という表現、とても共感できます。

 そうですね、問題は山積みです。

 どこから手をつけるべきか、考え込んでしまいそうですね。

 しかし、実は私は1970年代に『ローマクラブ・レポート 成長の限界』(ダイヤモンド社)を読んだ時に、すでにそういう気分になりました。

 そこで、いろいろ考えてきた結果やってきたのが、編集者時代の企画であり、自分の著作であり、サングラハの創設でした。

 そのプロセスで、願望実現瞑想法という、一見怪しく見える方法に出会いました。

 それは、簡単にいうと、宇宙の法則に沿っている切実な願望は、適切な瞑想をすると実現する、という話です。

 その第一歩は、「もし願望をもつのなら、それは必ず実現すると信じること」という原則です。

 疑っていては、実現する確率がいちじるしく下がります。

 強く信じると(そしてもちろんその信念のエネルギーを元にして適切な行動をすると)、実現する可能性が高まるのです。

 だから、願望が本当に切実なのなら、それは必ず実現すると信じるのです。

 ……というわけで、私はそれを学んで以来、絶望しかかるたびに、自分に「本当に切実に願っているのか」と問い、内面から「本当に切実だ」という声が返ってきたら、「ならば、信じよう」と言い聞かせてきました。

 なので、YOKOさんの「暗澹たる気分に陥る」のはとてもよくわかるにもかかわらず、私は暗澹たる気分にならないのです。

 それから、「時間は短くて」ということに関しては、「コスモスには進化のための時間はたっぷりあるので、大丈夫!」と思うことにしています。

 肝心の「どこから手をつけるべきか」ということについては、おっしゃるとおり、「まず問題意識の共有とそれぞれのちからを結集ということです」。

 しかも今回共有するのは1つ、「少なくともスウェーデンでは、一国単位で解決の目途がついている」らしいという驚くべき事実の認識です。

 確かに、日本との違いは大きいのですが、スウェーデンにできたのですから、日本も条件さえ調えられれば、実現できないはずはありません。

 条件を調えるには、もちろん「一人では何もできない」のです。

 しかし、一人でできないのなら、みんなでやればいいのではありませんか?

 問題は、どうすればみんなでやれるのかということですが。

 そのためには、ともかく今の段階で認識を共有できる人が「ちからを結集する」ことですね。

 その力の結集を、多くの政治家、学者・知識人、環境活動家、メディア関係者などのオピニオン・リーダーと、心ある市民で行なえばいいわけです。

 かつて梅原猛氏が、「日本人は雪崩を打つ国民である」という名セリフを言っておられます。

 大雪の積もった斜面に、小さな雪玉をぽんと投げてやると、たちまち雪ダルマになり、そしてそれに釣られて斜面全体が雪崩になるという現象があります。

 日本の歴史を見ると、日本人はなかなか変わらないように見えて、変わる時には雪崩を打って変わることのできる国民のようです。

 自然を愛してきた日本人が今環境の荒廃に感じている、まだ十分には意識化されてはいないけれど、じつはとても深い不安は、もしかすると雪崩寸前の心理状況かもしれません。

 だとしたら、必要なのは、最初の雪玉です。

 秋、私たちが行ないたいと思っているシンポジウムは、そういう雪玉を投げてみる試みです。

 雪の斜面の状態次第では、深い雪の中にぽんと埋もれておしまいかもしれませんが、雪崩を誘うことができるかもしれません。

 ともかく、やってみる価値はあると思うのです。

 ぜひ、一緒にやってみましょう。



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休む時は徹底的に休むこと

2006年06月26日 | メンタル・ヘルス

 坐禅の入門的な教えの古典である『坐禅儀(ざぜんぎ)』の冒頭に、以下のような言葉があります。

 夫れ般若を学ぶ菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓の願を発し、精しく三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべきのみ。

 (それ はんにゃを まなぶ ぼさつは まず まさに だいひしんを おこし ぐぜいの がんを おこし くわしく さんまいを しゅうし ちかって しゅじょうを どし いっしんの ために ひとり げだつを もとめざるべきのみ)

 乃ち、諸縁を放捨し、万事を休息せよ。

 (すなわち しょえんを ほうしゃし ばんじを きゅうそくせよ)

 訳

 そもそも覚りの智慧を学ぼうとする者は、まず何よりも大悲の心を起こし、弘大な願を立て、心を込めて禅定を修行し、すべての生命あるものを救うことを誓うべきで、自分一人のために解脱を求めてはならない。

 そこで、さまざまな関わり合いをいったん忘れ去り、あらゆる事を休みなさい。


 ここでとても興味深く、かつ的確だと思うのは、最初に「大悲心」とか「弘誓の願」とか「誓って衆生を度し」とか「一身の為に独り解脱を求めざるべきのみ」と、くどいほどに、生きとし生けるものすべてを救うための修行でなければならないと強調しておきながら、実践の第一歩には、「諸縁を放捨し、万事を休息せよ」といっていることです。

 あらゆる生き物を救うなど、短期間でできるわけはありません。

 きわめて長い時間がかかります。

 それも、大乗仏教が興ってからでももう2千年くらい経っていますが、いまだに人類だけでも何億、何十億の人が苦しんでいます。

 人類の歴史の中での菩薩の仕事は、無限に近い長丁場です。

 あせって激しくやってしまうと、すぐにダウンして使い物にならなくなります。

 信じられないほど気長に持続する必要があるのです。

 長続きするためには、心を安らかにする時は、徹底的にあらゆる縁・関わりを〔心理的に〕放り出し、すべての仕事を休め、というのです。

 長期戦を戦い抜くには、休む時、休める時には、徹底的に休んでおく必要があります。

 ……というわけで、私も、今日は朝からほとんど何も仕事らしい仕事はしませんでした。

 ブログもこれから休む時は休もうと思っていたのですが、夜になってようやく少し体力が回復してきたら、一種の癖になっているんでしょう、またちょっとだけ書きたくなりました。

 (こういうのをカルマ・業というんでしょうね。)

 ともかく、お互い、休む時、休める時には、すべてを忘れて休みましょう。

 では、お休みなさい。



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毎日コスモロジー

2006年06月25日 | 心の教育

 木曜日と金曜日は大学でコスモロジーの講義でした。

 昨日は、横浜のカウンセリングの学習グループでコスモス・セラピーの入門コースをしてきました。

 今日は、藤沢のミーティング・ルームでコスモス・セラピーのトレーニング・コースです。

 「アインシュタイン以降、世界はただ物でできているのではなく、むしろ世界はエネルギーでできているということになったんです。だから、私たち一人一人も、ただの物というより、宇宙エネルギーの塊なんです。」

 「少なくともエネルギー・レベルでいうと、すべては一体、ということになるんです。」

 「私たちの体には宇宙137億年の歴史が籠められているんです。すごいことですよね。」

 「宇宙があるから、私がいる。」

 「地球があるから、私がいる。」

 コスモロジーの決め言葉が、みんなの心に届いているようです。



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公開授業、いちおう完結です

2006年06月24日 | 心の教育
 昨年の8月8日からyahooで始め、20日からこちらも始め、それから今年3月11日でこちら一本にしぼり、ネット上の公開授業を続けてきました。

 そろそろ11ヶ月になろうとしています。

 記事も、前々回で唯識の話も完結し、これでちょうど1年分の授業にあたる内容を書いたことになります。

 ざっとした計算でも、本2冊分以上の量を書いたようです。

 我ながらよく書いたものです。

 できるだけ広く、特に若者へメッセージを届けたいという自分自身の動機でやってきたことですから、誰に労をねぎらってもらおうとも思いませんが、自分では自分に「よくやった」とねぎらいの言葉をかけているところです。

 ずっと続けて授業に参加してくださったネット学生のみなさんも、お疲れさまでした。

 みなさんの持続力を絶賛したいと思います。

 コスモロジーとして体系的に伝えたいことは、ほぼ書いたという気もしますから、これからはそれをベースにして、いろいろなことへのコメント風な記事をぼつぼつ書いていくことにしようと思います。

 これまでいろいろな所でいろいろな方からいただいてきた質問や相談などに、ブログ上でお答えするということもやってみたいと思っています。

 それから、今後は、シンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい」の広報的な記事も増えることになると思います。

 よろしければ、これからもお読みいただけると幸いです。



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緑の福祉国家への第一歩

2006年06月23日 | 持続可能な社会
 昨日は、藤沢ミーティング・ルームで、11月19日のシンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい(仮題)」に向けた、ミーティングを行ないました。

 『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の著者、小澤徳太郎先生と、前国立環境研究所長の大井玄先生と、私の三者の合意点を確認し、さらに具体的にどう進めていくかを話し合いました。

 スタッフ参加を申し出てくれた方たちの何人かにもオブザーバー参加をしてもらって、終電まで熱く語り合いました。

 このシンポジウムの場に、できるだけたくさんの、政治家、知識人、活動家、メデイア関係者、それにもちろん市民のみなさんに結集していただいて、これからの日本の進むべき方向について、大きな合意を形成する場にしたいと願っています。

 あるべき民主主義の政治のあり方を確立し、経済と福祉と環境のバランスのとれた安心して生活できる国創りに向けて、できるだけのことをしていくことを、参加者全員で確認しました。

 これで、〈緑の福祉国家〉への第一歩が踏み出されたといってもいいでしょう。

 折にふれて広報をしていきたいと思いますので、本ブログの読者のみなさんも、ぜひ、ご注目、ご理解、そしてご参加いただきたいと思います。



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無限の世界に入る:無住処涅槃の話2

2006年06月21日 | メンタル・ヘルス





 大乗仏教の究極の目的である覚りとは、宇宙の本質である「空」ということに心の奥底まで目覚めるということでした。

 そして「空」というのは「一如」と同義語で、宇宙のすべてのものは一体であるということでもありました。

 大乗仏教の修行者たち=菩薩は、徹底的な禅定の実践の結果、徹底的な無分別の智慧に到りました。

 そうすると、それまで損と得、幸福と不幸、善と悪、汚染と清浄、生と死というふうに分別していたこともすべて無分別=一体であることが見えてきたのです。

 宇宙では、善と悪、汚染と清浄というふうな相対的な区別はできても、絶対的には分離しておらず、一体です。

 大乗仏教では、そういう汚染と清浄という人間的な分別を超えた宇宙の本質を、あえてもともと絶対的に汚れを離れている、汚れや悪という意味での煩悩は本来的には空であるという意味で、「本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)」と捉えています。

 この本来清浄涅槃というところから見ると、私たちの体や心も「本来清浄」です。

 そこでは、煩悩の依りどころである体が残っているとか残っていないとかという問題は超えられてしまいます。

 「体があるままで本来清浄である」という宇宙的事実の発見が、それまでの小乗仏教に対する大乗仏教の決定的なポイントだといっていいでしょう。

 無分別智的に見れば、体も心も含んだ自分もまたそのまま一つの宇宙の一部です。

 さらに大乗仏教の菩薩たちは、無常なるこの身心の自分がそのまま宇宙と一体なのならば、この身心よりもむしろ宇宙そのものを「自己」と捉えるべきだと考えました。

 英語で表現すれば、小文字で始まるselfではなく大文字で始まるSelfこそ本当の自分だということです。

 こういう驚くべき深い境地に立った大乗の菩薩たちは、衆生すなわちすべての生きとし生けるものの輪廻ということに関しても、それまでとはまったくといってもいいほど違った考え方をするようになりました。

 この身心に限定された自分というのは確かに生まれて死ぬものですが、宇宙としての自己は時間と空間と物質をすべて包んで超える存在です。

 そういう大きな自己と、その1部としての特定の身心を持ったこの「私」との関係は、区別はできても分離できないものです。

 そして他の人と私の関係も、同じ1つの宇宙のあの部分とこの部分というふうに区別はできても分離できないものです。

 そうすると、他の人の喜びは私の喜び、他の人の苦しみは私の苦しみということになります。

 特にこの世は四苦八苦という苦しみの世ですから、多くの人がいろいろに苦しんでいます。

 その苦しみを私の苦しみと感じたら、放っておけなくなります。

 他者の苦しみを自分の苦しみと感じて放っておけないと思う気持ちのことを「悲」といい、他者を喜ばせることを自分の喜びと感じる気持ちのことを「慈」といって、あわせて「慈悲」というわけです。

 修行者=菩薩自身もこの苦しみに満ちた世界にあって、その苦しみの世界から抜け出したい、つまり涅槃に入りたいと思うのですが、いざ本当に深い涅槃の世界に入ってみると慈悲という気持ちのために、この苦しみの世界で苦しんでいる衆生を放っておけなくなります。

 そこで、状況に応じて絶対の安らぎの世界=涅槃の世界にいたり、やはり衆生とともに苦しみの輪廻の世界にいて、苦しみをなくし安らぎを与えるという働きをしたりというふうに、自由自在に居場所・住所を変えるというあり方をするのです。

 そういう自由自在、住所不定の境地のことを「無住処涅槃」と呼んでいます。

 どこまでもこの体と心が「自分」だという思い込みを脱しきれない私たちからすると、これはあり得ない話のように思えます。

 それを少しでもわかりやすくするために、次のような譬えが考え出されました。

 それは、「海の水と波」の比喩です。

 海の表面に立っている波を見ると、一つ一つ別の波のように見えます。

 しかしそれを海の水という面から見ると、すべて同じ1つの水です。

 海は、状況によって、鏡のように平らであることもできれば、さざ波になることも、大波になることも、怒涛になることもできます。

 しかしどういう波になっても、それが海の水であるということは決して変わりません。

 海は、自由自在に形を変えることができます。

 私たちが自分の本質を「波」と捉えると、それは現れては消えるはかないという意味で「無常」な存在と感じざるをえません。

 そうすると、不安になったり、むなしくなったり、絶望したりするほかありません。

 しかし本当の自分は「海」なのだと覚ると、それは時を超えて時の中で永遠にダイナミックに働き続けるという意味で「無常」な存在だとわかります。

 そうすると、根本的な安らぎと爽やかさを感じながら、時には働いたり時には休んだり、自由自在に宇宙の働きの一部としてあるがままにあり、なるがままになり、なすがままになしていくということが可能になる、というわけです。

 これはあまりにも深い境地なので、私も唯識の文献を手掛かりに「そういうことになっています」という話しかできませんが、修行を深めていけばいつの日か――三大カルパを経て――そういう境地に到達できるというのは納得のできることです。

 そして、前にもお話ししたとおり、私たちの今生の課題としては、これをはるか彼方の行くべき方向を示してくれる道しるべ・理想として、行けるところまで行けばいいということだと思います。

 個人としての私も、できるだけ修行して、なるべくこの「無住処涅槃」に近い境地になってからこの世を去ることができたらいいな、と思っています。

 よろしければ、今後もご一緒に、リハビリ仲間、トレーニング仲間として学んでいきましょう。



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宇宙カレンダーの授業の感想

2006年06月20日 | 生きる意味

 今、どの大学、学部でも、だいたい宇宙カレンダーの生命の創発のあたりの話をしています。

 学生たちは、例年のようにとても生き生きと感動をもって聞いてくれています。

 エゴイズムやニヒリズムからしっかりと脱出しつつあるようです。

 以下、3名の感想文を掲載します。



 文学部三年 男

 「日本人の精神的荒廃」についての授業では、現代人はエゴイズムに陥っても仕方がないし、そこから抜けだせないという風に考えていた。

 しかし、宇宙カレンダーを使った授業を受けているうちに、何だか明るい気持ちになってきた。

 私達の体にある物質には、星で作られたものがあるというのは知らなかったので不思議な感じがした。

 「生きている」特徴の1つの新陳代謝というのは、外部とのコミュニケーションであり、それをしないと死んでしまうというのは、人間は他者とコミュニケーションを取れない状態だと「さみしい」「むなしい」と思ってしまう原点のように思えた。

 私は今まで自分が生まれたのは偶然だと思っていた。

 でもこの授業を受けて、そうではないのかもしれないと思い始めた。

 宇宙の今までの営みが私という存在を生むためのものであるなら、むなしくないと思える。

 また、私が生まれるためには、両親、祖父母がいないと生まれなかった、と思ったことはあるが、それ以上の人々(祖母の両親)について考えたことはなかった。

 改めて、祖先に感謝の気持ちが生まれた。私のエゴイズムは少しずつ無くなっていくように感じた。


 文学部3年 女

 私は、今まで生きていることは凄いことだという実感を持ったことは正直いってあまりなかったです。

 周りには友達がいて、渋谷や原宿などに行けば人があふれている環境の中で、生きていることのありがたみを感じずに生きてきました。

 しかし、それは百五十億年の宇宙の歴史やご先祖様のおかげだということを学び、自分の命や自分だけのものではないのだから、感謝しながら大切に生きなくてはいけないと思いました。

 そして、数え切れないほどのご先祖様の苦労や想いを私もを断ち切ることのないように子孫に受け継いでいかなくてはいけない。

 そうしていくことで、人の歴史はつながっていくのだ。

 それが、私たち人間の生きるという意味であり、使命であるということ考えさせられました。

 私は、少しくらいの失敗でよく悩んだりしがちだったのですが、150億年もの歴史を持つ宇宙や多くのご先祖様が、私一人が生まれるのにどのくらいの歴史を費やし、苦労したのだろうかと考えると、こんなちっぽけなことでくよくよしている自分がすごく小さく感じました。

 今では、宇宙やご先祖様が、「ハイ、あなたの番だよ! 私たちが見守っているからね」とバトンを渡してくれた気がします。

 私は、そのバトンをしっかり握り、自分を大切にしながら、宇宙やご先祖様のありがたみを心にとめ、他人を尊び感謝しながら次の世代にバトンを渡していきたいです。

 以前までの私なら、こんなに深く「生」について考えたことはなかったし、この授業を受講していなければ、きっとこの先も考えなかったと思います。

 それは少し恐ろしいことだな、と感じます。

 そのくらい、私はこの授業に影響を受け、そのことにより人として視野が大きくなったと感じています。


 文学部2年 女

 この宗教学の授業で宇宙の話を聞いて驚きと感動の連続でした。

 日常生活の中で宇宙のことを考えることというのは今まではほとんどなかったし、自分が今ここにいる意味を考えるのに宇宙の話が出てくるのはとても予想外でした。

 でも先生の宇宙についての話を聞くうちに、宇宙と私はとても深い関りがあるのだということを知りました

 「宇宙はもともと小さなエネルギーのかたまりで、水素、ヘリウムができて、それらが核融合をして太陽エネルギーが出され、星ができ、地球ができて、地球の中で生物が生まれて、人間ができて、今の私がここに存在している」という話を聞いて、宇宙があるから私がここにいることができるんだなとすごく実感したし、何よりもうれしかったのは、「君たちはみんな星の子なんだよ」と先生もおっしゃっていたことです。

 自分が星の子だなんて考えたことなかったので、本当に感動したというか、ワクワクというか、言葉では言い表せないようなうれしい気持ちでした。

 先生がこの話をしてくださったときに、私たちの反応を見て、「もっと驚かないの?」と聞いていましたが、内心ではすごく感動していました。

 授業が終わって教室から出てからも、友達何人かとこの話で盛り上がって、「私たちが星の子だなんて本当にすごいよね!!」などと話しました。

 それともう1つ印象に残っているのが、地球の位置の話で、地球は太陽から3番目のところにあるのだけれども、もし地球が太陽にもっと近かったら蒸発してしまうし、遠すぎるところにあったとしても寒すぎてだめだから、この地球が太陽から3番目にあるということは偶然かも知れないけれど、人間を作ろうとしたから3番目になったんだと考えると、とてもすごいことだし、3億円の宝くじの1等に100回連続で当たることよりも確率が低いということを聞いて、まさに私がここに存在することは奇跡としか言いようがないと思いました。

 今私がここにいることができるのは奇跡だとしたら、すごくありがたく思えてきて、ご先祖様だけではなく、宇宙にも感謝の気持ちでいっぱいになって、いつも悩んでいたことがとても小さなことに感じて、とても前向きな気持ちになれました。

 授業に出てこんな晴れ晴れとした気持ちやうれしい気持ちになれたことは今までになかったので、この授業を受けれてよかったと思うし、毎回の授業はとても楽しいので、これからの授業も楽しみです。また、授業を受けて自分もどう変われるのかが楽しみでもあります。



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唯識仏教の目指すところ:無住処涅槃(むじゅうしょねはん)の話1

2006年06月19日 | メンタル・ヘルス



                  梅雨の晴れ間、夏近し



 唯識-仏教の目指すところを一言でいえば「覚り」です。

 覚りというと何かとても深遠で神秘的で「曰く言いがたい」もののように感じられるかもしれません。

 しかし、これまでお話ししてきたとおり、あえて言葉で「すべてが1つでありすべてがつながっていることを見ることができる心のあり方」と表現することもできるのでした。

 そのことを理論的に詳しく説明したのが「三性説」です。

 心理学的な言い方をすれば、「心理機能論」といってもいいでしょう。

 しかし私たちふつうの人間は、すべてがばらばらにあって後からつながりができるかのようなものの見方をしています。

 心の奥底から表面まで、すべてばらばらのものの見方しかできないのです。

 そういう心の仕組みを8つの領域に分けて分析したのが「八識説」でした。

 それに対して覚りの心を4つの智慧からなるものとして分析したのが「四智説」でした。

 これも心理学的な言い方をすれば、「心理構造論」ということができるでしょう。

 八識の心を転換して四智の心を獲得することを「転識得智(てんじきとくち)」といいます。

 八識の凡夫から四智の仏までの段階を明らかにしたのが「五位説」です。

 心理学的には、「心理発達論」にあたるでしょう。

 ここまでが、いわば原理論で、次の「六波羅蜜論」が臨床論になります。

 八識の心を転換して四智の心を獲得するには6つの方法が有効-必要であるという話でした。

 これで、唯識の理論の大切なポイントはほぼ尽きるといってもいいのですが、もう1つ、六波羅蜜を実践して八識が四智に転換した結果どういう心境・境地になるのかという、治療-修行のいわば「目的論」にあたる話があります。

 「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」という、大乗仏教独特の考え方です。

 大乗以前の仏教では、生きるということそのものが「迷いの生存」というふうに捉えられていて、覚り・涅槃はそういう迷いの生存からの解放・脱出すなわち「解脱(げだつ)」と同一視されていました。

 ですから、覚った人は輪廻の世界から永遠に解脱して2度と輪廻の世界には戻ってこないことになっていました。

 といっても、覚ったらすぐ死ぬというわけにはいきません。

 覚ってもまだ体があって生きている状態は、「有余依涅槃(うよえねはん)」と呼ばれました。

 「迷いの生存・煩悩の依りどころである体がまだ余って有るが、心はいちおう覚りの状態にある」といったふうな意味です。

 すでにお話ししましたが、「涅槃」とは「ニルヴァーナ」を漢音に写したもので、煩悩の炎の消えた状態というふうな意味です。

 しかし、大乗以前の仏教の修行者たちは、肉体があるかぎり性欲や食欲といった欲望はなくならない、欲望を完全になくするには肉体そのものがなくなるほかない、と考えたようです。

 そういう肉体がなくなり欲望もなくなった状態のことを、「無余依涅槃(むよえねはん)」といいます。

 「依りどころである余計な肉体が無くなって煩悩の炎が完全に消えてしまった状態」というふうな意味でしょう。

 それに対して大乗仏教の人々は、そういう考え方は自分ひとりが苦しみの生存の世界から逃れようというちっぽけな考え方、自分しか乗れない小さな乗り物だ、として批判をしました。

 確かに体がなくなれば煩悩もなくなり、自分は楽になるかもしれませんが、煩悩に苦しんでいる他の人々を救うことはできません。

 他の生きているもの=衆生とおなじ体があって初めて、慈悲・救いの実践をすることができます。

 「この体があるままで完全な涅槃に入れる」というのが大乗仏教の特徴的な教えです。

 私たちの体・生命そのものが、煩悩と迷いの生存の主体であることから解放されて、覚りと慈悲の主体に変容することが可能だ、というのです。

 これが本当だとすると、単に特定宗教としての仏教の枠をはるかに超えた、人類全体にとって大変な希望のメッセージです。

 それが本当かどうか(もちろん私は本当だと考えているわけですが)、次回、ご一緒に考えていきたいと思います。



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言葉を超えるための言葉:智慧(ちえ)の話

2006年06月18日 | メンタル・ヘルス



                小雨に濡れる東寺の五重塔



 六波羅蜜の最後は、「智慧(ちえ)」です。

 人間の心の病の根本的な原因は「無明」ですから、無明が除かれて智慧に変わることが根本的な治療であることは、これまでお話ししてきたことではっきりしたと思います。

 これまで無明を智慧に変えるための5つのトレーニング・メニューをご紹介してきましたが、おもしろいことは、無明を智慧に変えるためのメニューそのものの中に智慧が含まれているということです。

 唯識では、人間は生まれつき――前世から引き継いで――アーラヤ識の中に無明の種子を持って生まれてくると考えられています。

 現代風に言い換えると、言語を使った分別知を持つようになる遺伝的な素質といってもいいでしょう。

 それに加えて、生まれてこの方ずっと言葉による分別知の教育を受け、それもアーラヤ識の中に記憶として蓄えられていきます。

 そういう先天的および後天的原因によって、私たち人間は分別知のかたまりとして育ってきます。

 その中でも重要なのが、自分が実体であると思い込む無意識の中の分別知のかたまり、つまりマナ識です。

 アーラヤ識とマナ識という深くて広い心の領域が分別知のかたまりなのですから、意識や五感がそれにコントロールされて分別知的な働きしかできないのは、当たり前といえばあまりにも当たり前です。

 ところが、不思議なことに、人間の意識は、分別知とは違うものの見方を教えられるとそれなりに理解することもできます。

 「分かる」という言葉がみごとに表現しているとおりどこまでも分別知でありながら、しかも分別を超えた智慧について理解することができるのです。

 心のトレーニング・メニューである六波羅蜜の1つとしての「智慧」は、まず言葉を超えた究極の智慧に到るための手段としての言葉による智慧から始まる、といっていいでしょう。

 すでに私たちが学んできたつながりコスモロジーや縁起や空という考え方が、そういう言葉による「智慧」にあたります。

 しっかり聞いて理解し、よく自分で考えて納得するというプロセスを繰り返し繰り返しやっていると、そのカルマが種子となってアーラヤ識に熏習されていきます。

 アーラヤ識に熏習された、いわば蒔かれた種はやがて芽を吹いて意識に上ってきます。

 意識からアーラヤ識に熏習される時と、アーラヤ識から意識に芽吹いてくる時のどちらの時にもマナ識を浄化していく、という好循環のプロセスについては「煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい」のところでお話ししたとおりです。

 しかし縁起や空、つながりコスモロジーという考え・思想は、どんなに深くアーラヤ識に熏習されても、やはり分別知というところを超えられません。

 それを超えるのが「禅定」という方法なのでしたね。

 分別知によって分別知を超える「智慧」を学ぶことと並行して、禅定によって無分別の世界そのものを直接に体験し、無分別というカルマの種子をアーラヤ識に熏習することが不可欠なのです。

 もちろん、他の4つの波羅蜜の種子も熏習していく必要があります。

 それらの種子の総合的な力によって人間の心は、5つの段階を踏んで徐々に徐々に、八識から四智に転換していくわけです。

 ……というと、六波羅蜜の6番目としての「智慧」には6分の1の大切さしかないと思う方もあるかもしれません。

 確かにそういう面もあるのですが、人間が「言葉を使って生きる動物」であり、意識的な存在であるという点からいえば、言葉によって意識的に分かる智慧には決定的な重要性があります。

 人間は、言葉による智慧によって言葉を超える世界を分かることができるからこそ、言葉を超えた体験をしたい、しなければならないことも分かり、そのための方法としての六波羅蜜の意味も分かり、実践しようという意志を抱くこともできるのです。

 特に「資糧位」から「加行位」にかけて、この言葉による智慧をしっかり学び、身に付けていくことが必要です。

 資糧位の菩薩のみなさん、治りたいのなら、リハビリ・メニューをこなしましょう。

 成果をあげたいのなら、トレーニング・メニューに取り組みましょう。

 言葉による智慧の復習も、毎日の大切な心磨きの1つです。

 ネット学生のみなさん、ブログ記事や私の本などをぜひ繰り返し読んでください。



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別記事のお知らせ

2006年06月17日 | 歴史教育





 最近、エッセイ用に使っているもう一つのブログ「宇宙塵のざわめき」(ブックマークに入れてあります)に「日本の心と仏教」という記事を掲載し始めています。

 『ダーナ』という仏教雑誌の連載ですが、掲載からしばらく時間を置いてブログ公開することを出版社に了承していただいていますので、前のものから掲載していきたいと思っています。

 よかったら読んでみてください。

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観音さま

2006年06月17日 | メンタル・ヘルス






 最近、15人の著者によるエッセイ集『観音さま――その優しさに包まれて』(佼成出版社、定価1200円+税)という本が出ました。

 日本人の観音さまに寄せる思いには古来深いものがあるようです。

 この本にも著者のみなさんそれぞれの深い思いが綴られていて、とても味わいのあるエッセイ集になっています。

 一流の物書きのみなさんに混じって、私も、「ほのかなイメージとしての観音さま」という原稿を書かせていただきました。

 静かな雨の日、落ち着いて読んでいただくのにとてもいい本だと思います。

 「最近本は出されていないんですか?」と聞いて下さる読者のみなさん、私の単独の本ではありませんが、私のものもともかく、なにより他の著者の方々のエッセイがとてもすてきです。

 ぜひ、お読み下さい。



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雨の古都

2006年06月16日 | 歴史教育



         羅生門跡:小さな公園の中に石碑が立っているだけ




         羅生門模型:近くのお堂の中の小さなガラス・ケースに入っていた




             羅生門跡の公園のアジサイ




         西寺跡:草に覆われた土壇と石碑が残っているだけ



 昨日は、折角の京都なのでせめてもと、少し早めに着いて、数時間歩きました。

 『空海の『十住心論』を読む』(大法輪閣)などを書いていて、もちろん東寺は行ったことがあるのですが、それと並ぶ西寺の跡には行ったことがありませんでした。

 それと、若い頃、芥川龍之介の短編『羅生門』にはとても感銘を受けたので、一度、羅生門跡にも行ってみたいと思いながら、これも行ったことがありませんでした。

 地図によると東寺-羅生門跡-西寺跡は同じ通りにあります(昔の都の造りのことを考えると当たり前なのですが)。

 こういうものの距離感覚は歩いてみないとわからないので、歩いてみたいと思ったのです。

 雨の中でしたが、さびさびとして、わずかに残った石碑に、遠い昔を偲ぶにはふさわしい天気でした。




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京都出張中

2006年06月15日 | メンタル・ヘルス

 日帰りの京都出張で、新幹線の中です。

 仏教系のR大で「唯識―心の仏教」という講座シリーズの1コマ、「唯識仏教と心理学」という公開講義をしてきます。

 このテーマで1時間ほどで「高校生にもわかる平易な講義を」という大変な注文なのですが、まあなんとかなるでしょう。

 ここのところワーカホリック気味なので、のんびり寝ていくつもりだったのですが、持って来た沖田行司『日本人をつくった教育―寺小屋・私塾・藩校』(大巧社)が面白くて、つい読んでしまいました。

 その中で紹介されていた横井小楠の言葉に感動しています。

           ☆

 天地の為に志を立て、生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。学者発心の初め、須らく此大志願を立つべし。

 「天地のために志を立て、民を生かすために命を立てる。過去の聖人のために絶えようとしている学問を継ぎ、後のすべての世のために平和をもたらす。学ぶ人間は学ぼうという気持ちになったその最初に、必ずこういう大きな志・願いを立てるべきである」といった意味でしょう。(←帰宅後の増補です)

 こういう大きな志を抱いた若者が、日本にはいたんですね。


◎携帯からです。
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心磨きをしてますか?

2006年06月14日 | メンタル・ヘルス





 昨日、授業が終わった後で話に来た学生がいました。

 その話の中で、典型的な質問がありました。

 「授業を受けた時は元気になるんですが、その後また1週間、だんだん元気がなくなるんですけど……(どうしたらいいんでしょう?)」という質問でした。

 そこで、最近よく使っている譬えを話しました。

 「あのね、ちょっと汚い話になるけど、『口が臭くて気持ち悪いんですけど』という相談を受けたとするよね。

 そしたら、ぼくはまず『いつ歯を磨きましたか?』と聞くだろうね。

 で、『1週間前に磨きました』と答えたとすると、どうだろう?

 『それは臭くて気持ち悪くなるのが当たり前でしょう』と言うしかないよね。

 『でも、それまで20年もずっと毎日3回磨いてたんですよ。それなのに……』と文句を言われても、それは困る。

 悪いけど、それはぼくの責任じゃないよね。

 歯磨きを毎日できれば毎食後3回、せめて朝夕2回、最低でも1回くらいはしないと、口が臭くなったり、口の中が気持ち悪くなったりするのは、いわば自然にそうなるんだよね。

 そういうふうになっているのは、誰の責任でも、もちろんぼくの責任でもないんです。

 もし、口が臭くなったり気持ち悪くなったりするのが嫌なら……もっとポジティヴな言い方に換えよう、口がすっきりと爽やかなのが好きなら、毎日歯を磨くしかないんだよね。

 めんどくさいとか、どうして長年磨いたのが続かないのかとか言われても、それはしようがないね。

 心磨きも、歯磨きとおんなじで、毎日しないと、心が汚れてきて、落ち込んできたりする。

 気持ちがすっかり落ち込んで憂うつになるのを『腐る』というけど、まさに心が腐ってくるんだね。

 というわけで、爽やかで元気な心の状態を維持したかったら、毎日忘れず心磨きをしましょう!」と。

 ネット学生のみなさん、心磨き毎日してますか?



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呼吸を調え数える:禅定の話 3

2006年06月12日 | メンタル・ヘルス





 臨済宗で初心者に指導される「数息観(すそくかん)」という坐禅の方法があります。

 足を組んで坐る「結跏趺坐(けっかふざ)」か、初心の間は片方の足だけもう一方の足の太ももに乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」で、まず坐り方が調うと、次にひざがしらと尾てい骨で逆三角形の重心に背骨を立てるという感じですっと上体を伸ばします。

 それから、両手で卵型よりやや丸めという感じの「法界定印(ほっかいじょういん)」というかたちを作り、下腹部に軽く当てます。

 次に、口を少しだけ開けて息を吐きながら上体をゆっくり前に倒していきます。

 息をしっかりと吐ききりながら、体を倒しきったら、口を閉じて鼻から生きを吸いながら、ゆっくり上体を起こします。

 (道場では、適当なタイミングの時に鳴り物が入るのですが、ここでは省略します。)

 そして首筋を伸ばして正面を見、そのまま首筋が伸びた状態で、視線だけ1メートルほど前方に固定します。

 すると、まぶたが下がるので、一見、人から見ると目を閉じているような感じになるので「半眼(はんがん)」と呼ばれていますが、目は閉じるわけではなくしっかり開けていなければなりません。

 よくテレビドラマの武将などが目を閉じて坐禅しているシーンがありますが、あれは基本的には間違いです。

 目は、一点を見つめるのではなく、ただきょろきょろしないように、一ヵ所に固定するだけです。

 ここまでで「調身」ができたわけです。

 続いて、おへその少し下あたり、東洋医学でいう「臍下丹田(せいかたんでん)」から吐いて、そこに吸うという感じで、ゆったりと呼吸をしていきます。

 「呼吸」と表現されているように、吐くのが先で、吸うのは後です。

 しっかりと吐かないとしっかり吸うことができません。

 丹田に気合を入れて、なるべく長くて細くて静かで滑らかに呼吸するように、といわれています。

 そして、呼吸を数えていきます。

 吐く時に「ひとー」、吸う時に「つー」と数え、「とお」まで数えたら、また「ひとー、つー」に返ってこれを所定の時間繰り返します。

 呼吸を調えるのが「調息」ですが、数息観では、呼吸を調え数えることに集中することで同時に「調心」を行なっていきます。

 これは単純な方法ですが、決して容易ではありません。

 「長くて細くて静かで滑らかな呼吸」は、やってみるとなかなかうまくいきません。

 さらに、他のことを考えずそれだけに専念することも困難です。

 呼吸は乱れ、気は散り、足はしびれて痛くなってきて、「なんで痛い思いをしてまで、こんなことをやっているんだろう? おれには坐禅なんて無理なんじゃないか? こんなことをやったって、効果があるんだろうか?」などなど、いろいろな雑念が湧いてきます。

 そこで学んだことを思い出すことが必要なのですが、雑念はすべて分別知です。

 分別知が悪循環しているかぎり、煩悩は浄化できません。

 煩悩を浄化したいのなら、そういう疑問-雑念は放っておいて、「ひとー、つー」と集中していかなければなりません。」

 生まれてこの方ほとんど分別知だけを熏習してきたマナ識やアーラヤ識が、短期間で浄化されるわけはありませんが、気長に続けていると、ごくわずかずつですが変化していきます。

 何年も何十年も経って振り返ると、ゆっくり、しかしじっくり確実に心が昔より爽やかになっていることが実感できるのです。

 こういう話をすると、多くの方に「もっと即効性のある方法はないんですか?」と聞かれます。

 私は、「すぐに効いてすぐに効き目がなくなる方法と、すぐには効かないが効き目が持続する方法と、どちらが好きですか?」とお答えすることにしています。

 実は、コスモス・セラピーというかたちでかなり即効性のある方法も工夫しているのですが、私のところで学ばれる方には、最終的にはやはり坐禅をすることをお勧めしています。



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