般若経典のエッセンスを語る37ーすべての人が覚れるように

2021年08月30日 | 仏教・宗教

 

 第七願は六波羅蜜についてのまとめともいうべき願で、「必得正定聚の願」という。「すべての人々を必ず覚れると定まった種類の人にしよう」というのである。

 

   ……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、諸々の有情に三種類の差別があり、一は覚れないと定まっている人々、二は覚れると定まっている人々、三にはどちらとも定まっていない人々があることを見たならば……「我が仏国土の中には覚れないと定まった人々およびどちらとも定まっていない人々の名前さえなく、すべての有情が必ず覚れると定まった人々であれるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような六種類の波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りにかぎりなく接近するのである。

 

 大乗以前の仏教では、人間には生まれつき覚れないと決まった人、どちらとも決まっていない人、必ず覚れると決まった人という、決定的な資質の差があると考えられていた。

 それは、人間の有り様の表面を見ていると、確かにそうだと感じられる。どうしようもない(ように見える)人、ふらふらしていた方向の定まらない人が少なくない。そうした表面だけを見て、「それはそういうものなので、もう仕方のないことだ」と人間に関してあきらめてしまっている人も多いだろう。

 それに対して、どこまでもあきらめてしまわないのが大乗・般若経典である。ここでは、「誰でも六波羅蜜を実践すれば必ず覚れるのだから、そうだとしたら誰もが六波羅蜜を実践できるように・したくなるようにしたい。その結果として、すべての人が必ず覚れるようにしたい」という願が語られている。

 大乗仏教の菩薩は、まず自らが六波羅蜜を心を込めて実践しながら、自分だけの覚りにとどまず、特定の宗教的な資質に恵まれた自分たちだけの覚りにもとどまらず、自分も含めてすべての人、すべての生きとし生けるものの覚りを、どこまでも追求するのである。

 それは、ただあきらめが悪いからでも、しつこい性格だからでも、粘り強いからでもなく、修行のスタートから、「自分と自分以外のもの(者も物も)が区別はあっても根源的にはつながって一つの存在だ」と捉えているからである。

 「自分(たち)だけの覚り」がありうると思うのは、宗教的ではあっても一種の分別知であり、無分別智とはまるで違うものである。そもそもすべてのものとの一体性を目指すのでなければ、大乗の覚りに向かう修行とは言えないのである。

 

*今回から内容がわかるようにサブタイトルを付けることにしました。過去の記事にも徐々に付けていけるといいと思っています。

 

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般若経典のエッセンスを語る36ー正しい智慧が完成するように

2021年08月25日 | 仏教・宗教

 第六願は六波羅蜜の第六「智慧」に関する願、「正慧成就の願」で、「正しい智慧が完成する」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が般若波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が愚かで悪知恵があり、世間的と超世間的な正しい見方をどちらも失っており、善悪の業と業の結果を無視し、死ねばすべては終わりとこだわり、永遠に存在するものがあるとこだわり、実体的一体性にこだわり、分離した多様性にこだわり……種々の誤った見方があるのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこのような悪知恵がありまちがった見方に執着するような有情たちがおらず、すべての有情に正しい見方と種々のすばらしい智慧を成就させ、三種類の神通力(過去世を知り、未来世を知り、煩悩を尽くす)を具えさせよう」と。……

 

 すでに述べてきたように仏教では、ふつうの人間の知恵はすべてを分離独立した実体だとする錯覚・無明をベースにした「分別知」であって、ほんとうの正しい智慧とはまるで逆のものであり、それに対して正しい智慧とはすべてをつながって一つと捉える「無分別智」だ、と考えられている。

 すべてがつながって一つということが世界のほんとうの姿であり、それに目覚めることが智慧なのならば、智慧から生まれる人間と人間の関係はいうまでもなく平和であり相互扶助・互恵であり、人間と人間以外の自然の関係は調和である。

 ところが、人類は言葉によって文明を築き、築く過程で多くの戦争を行ない(いまだに行なっている)、人間以外の自然・環境を破壊し続けてきたのではないだろうか。

 だから、分別知がどれほど多く巧妙であっても、それは根本的には「愚かさ・愚癡」であり「悪知恵・惡慧」だ、と仏教は言う。これは、言葉による分別知で文明を築いてきた人間の営みに対する根源的な批判だといってもいいかもしれない。

 けれども、仏教のふつうの人間に対する姿勢は、批判・非難・否定というよりは、医者が病人に対するように悪い病気は病気として厳しく指摘するが、それは病人・人間そのものを悪いものとして断罪するためではなく、治療の前提としての診断である。診断に基づいて治療が行なわれると、病人は人間でなくなるのではなく健康な人になるのである。

 もろもろの有情・すべての人が智慧の心を得て、健康あるいは超健康になることができれば、人間同士の持続する平和と人間と自然の持続可能な調和が実現できるだろう。

 逆に言えば、人類の知恵が基本的に分別知であるかぎり、人間同士の争いと自然との不調和は終わらないだろう。

 では、仏教は人間の心の病・愚癡・無明をどのように診断しているのだろうか。般若経典に先立つ部派仏教のアビダルマでも般若経典に続く唯識学でも無明・煩悩の詳細な解明がなされているが、この個所では、ごくポイントだけが述べられている。

 自我を実体視し中心視すると、ごく常識的・世間的・社会的な意味でもものごとを曲げて見るようになりがちである。もちろん、自我が実体ではなく世界の中心でもなく、かつ世界とつながって一つであるという世間の常識を超えた見方などまったくできない。

 自分が他者や世界と分離独立した実体だと錯覚すると、さらに善であれ悪であれ自分が何をしようと「関係ない」「自分は自分であって影響を受けることはないし変わることはない」という錯覚が重なって起こる。

 しかし、実は自分も他もつながっていて(縁起)変化する(無常)ものなので、自分の行為は必ず他に影響を与えるし、自分自身にも影響を与える。善い行為は自他に善い影響・結果をもたらし、悪い行為は自他に悪い影響・結果をもたらすのである。

 自分を他とまったく分離した身体的存在だと錯覚すると、そもそも自分のいのちが先祖から私そして子孫へとつながったものであり、また他のさまざまないのち(植物や動物)とのつながりによって維持されているものであり、いのちといのちでないものはつながって一つの宇宙・大自然であって、絶えず関わり合いながらいのちになったりいのちではないかたちになったりという変化をしていることがまったく見えず、「自分が死ねばすべては終わりだ」と思い込むことになるか、それではあまりにも空しいので、霊魂のような実体で永遠に存在するものがあると信じ込みたくなる。

 前者を「断見(だんけん)」といい、後者を「常見(じょうけん)」といって、仏教では身体であれ霊魂であれ実体があると思い込むのは、誤ったものの見方・「悪見(あっけん)」であるとしている。

 断見は、現代的に言えばエゴイズムを元にしたニヒリズムであり、常見は原理主義的な宗教に見られるような自分たちの信じるものだけを永遠視し絶対に正しいとする排他性を生み出すという意味で、これからの人類全体の平和にとっては有害無益なものの見方だ、と筆者も考える。

 さらに、すべてのもの・全体が一体(一如)だとはいっても、それは固定的な実体的一体性ではなく、分離はしていないが区別はできるそれぞれの多様な部分が関わり合いながら(縁起)、絶えず変化していく(無常)、いわばダイナミックな宇宙的なプロセスとして一体なのである。

 したがって、一体(一)とはいっても多様性(異)を含んでいるし、多様性も分離独立したばらばらの実体が多様にあるということではなく、一体性に含まれ包まれた多様性である。

 どちらにしても、一体性を実体視することも多様性を実体視することも誤ったものの見方であり、仏国土を創るにはふさわしくないものの見方だという。

 それは、以下見ていくとはっきりするように、仏国土は、仏という独裁者が統一・統治する全体主義国家でもなければ、人々が自分の好き勝手に生き、幸不幸や生き死にはすべて自己責任と運であるという個人主義的・自由主義国家でもないということでもあるだろう。

 そうした一体性と多様性が調和した仏国土を創るには、人々がみな過去のことを深く正確に知り、未来のあるべき姿をも深く正確に知っている必要があるし、そのためには自分(たち)を実体視・中心視することと、そこから生まれる自他を悩ませるような心のあり方から解放されていなければならないというのである。

 般若経典には、これまで人類が一度も創り出すことのできなかった、最高に平和と調和に満ちた国そして世界を創るための基本的なまさに智慧・般若が語られている、と筆者は読み取っている。

 

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般若経典のエッセンスを語る35ー禅定が完成するように

2021年08月21日 | 仏教・宗教

 第五願は六波羅蜜の第五「禅定」に関する願、「禅定成就遠離諸蓋散動」で、「禅定が完成しもろもろの心の乱れ・煩悩から遠ざかることができる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が禅定波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が貪り、怒り、落ち込み、放心、はしゃぎ、後悔、疑いに覆われ、気づきを失い、気ままで、四種類の禅定、四種類の無量の禅定、四種類の物質性を超えた禅定さえ修行することができず、まして世間を超えた禅定を修得することなどできないことを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした煩悩に心を動かされるような有情たちがおらず、すべての有情が自由自在にもろもろの禅定、無量の禅定、物質性を超えた禅定などに遊ぶことができるようにしよう」と。……

 

 仏教では、過剰な欲望や怒りや憎しみなどのネガティヴな心の働きを「煩悩」と呼んでおり、「蓋(がい)」はその別名である。そして、すべての煩悩の源泉は「無明」にあると捉えている。「無明」とは、自分や世界のほんとうの姿が見えていない・明らかでないということである。

 では、なぜふつうの人間(凡夫)は無明という心の状態にあるのか。すでに述べたことを簡単に繰り返すと、人間は言葉とりわけ名詞を使って自分や世界を認識するために、すべてのものが分離独立した実体(我)に見えてしまうのだった。そういう人間の無明の認識の仕方をすべてのものを分け別れたものとして知るという意味で「分別知」というのだった。

 特に自分を実体だと錯覚してしまうと、実体である自分はすべての中心であり絶対に維持すべきものだと思えてきて過剰な執着が起こる。つまりエゴイズムが生まれるのであり、エゴイズムからさまざまな煩悩が生まれる。

 逆の順で言うと、さまざまな煩悩はエゴイズム・自我の中心視から、自我の中心視は自我の実体視から、自我の実体視は分別知・無明から生まれるのであった。

 その分別知・無明を解決するには、分別知を超えた智慧を得る必要があり、智慧を得るための方法のもっとも重要なものが「禅定」なのである。

「禅定」とは、まずサンスクリット原語の「ディヤーナ」を音で写した「禅那」という漢訳語があって、その前半「禅」に精神集中という意味の漢字「定」を足して中国で作られた用語で、大まかに言っておけば精神集中・瞑想のことである。

 ふつうの人間は、ふだん心の中で言葉をめぐらしていろいろなことを考えている。それは、言葉とりわけ名詞で多様なことすべてを分別しているということであり、結局無明の心の働きである。

 そうした無明・分別知を超えるには、まずいろいろなことを考え・分別するのをやめて、心の中の言葉を沈黙させて、一つのことに集中する。瞑想法としてはいろいろなものがあるが、典型的には呼吸に集中するのである。ひたすら呼吸に意識を集中していると、いわゆる「一心」になる。そして、一心が深まるといろいろなことをまったく考えていない・分別していないという意味で「無心」に到る。「無心」は言い換えると「無分別」であり、徹底的な無心・無分別はすべてが空・一如であるという「智慧=無分別智」に到達する。

 智慧・無分別智に到ると、無明は超えられ、自我の実体視・中心視は超えられ、煩悩は根本から解消されるのである(実際の修行のプロセスは紆余曲折や行ったり来たりがあって、こんなにシンプルではないが、大筋だけ言えばこうなる)。

 つまり、人間同士が貪り合い、憎み合い、争い合うという煩悩から根本的に解放されるためには、無明・分別知を乗り越える必要があり、分別知を乗り越えるには無分別智に到る必要があり、無分別智に到るにはその方法としての禅定を実践することが必要なのである。無分別智に到ると、すべてのもの(者・物)が一体・一如であると覚られて、そこから自然に慈悲が生まれるのだという。

 禅定の意味や種類について詳しくは後の章で述べるが、「もし私たちがほんとうに人と人とが慈しみ合う美しい世界・仏国土を創り出したいのなら、すべての人が禅定を実践しなければならない」と『大般若経』は言っていると筆者は理解する。

 それは、現代の私たちにとっては先に述べたような「条件付きのねばならない」であって、「強制的な・無条件のねばならない」であると取る必要はないかもしれない。

 しかし、今人類社会は争い合いながら衰退そして滅亡へと向かうか、合意と平和によって人類の総力をあげて問題に立ち向かい、生き延びる、つまり持続可能な世界秩序を創り上げるかという岐路に立っているのではないだろうか。

 (これは、大げさな状況判断ではないと筆者は思っているが、読者はどう考えられるだろう。)

 もしそうだとしたら、生き延びたいと願う者にとっては、禅定はまず自分から始めてやがてすべての人がしなければならない・必須のことだと言えるのではないだろうか。

 そして、マインドフルネス瞑想などの世界的流行は、その先駆け的現象なのかもしれない、と筆者は思っている。

 

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般若経典のエッセンスを語る34ー精進が完成するように

2021年08月15日 | 仏教・宗教

 今日は、「終戦記念日」です。筆者は、「敗戦記念日」と呼んだほうが適切だと考えていますが。

 1945年8月15日の敗戦は、明治維新以来、「富国強兵」「欧米列強に伍す」「追いつき追い越せ」をスローガンに努力した大日本帝国が挫折したことを意味すると思われます。

 以後、日本国は、「強兵」は放棄し勤勉な国民性を活かして「富国」に向かい、経済復興、経済成長、ジャパン・アズ・ナンバーワン、一億総中流……に達した後、バブル崩壊、格差社会、少子高齢化社会、地方の衰退などなどの問題を抱え、直近はコロナ感染の拡大をコントロールしきれず、そしてきわめて広範囲の記録的大雨による災害がまだ続いています(雨が早く止むこと、災害がなるべく少ないことを祈っています。被災者の方に心からお見舞い申しあげ、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします)。

 日本はこれからどうなるのだろう、よりよい国になるのだろうか、という不安を抱いている方も少なくないと思いますし、筆者も深く危惧しています。

 そうしたなか、他の仕事に手を取られていたことと、夏の暑さにかなりまいりかかっていたことで中断していた「般若経典のエッセンスを語る」の掲載を再開することにしました。

 一切衆生・生きとし生けるものすべてが幸せである「仏の国土」のようなすばらしい国に日本をすることができるのか、大きなヒントが「般若経典」にはある、と考えているからです。

 夏バテ気味なので、次々と書き続けることができるかどうか、あまり自信がないのですが、ともかく再開することにしました。

 続けて読んでくださっていた読者のみなさん、お待たせしました。この後も、原稿の進み具合がまどろっこしいかもしれませんが、気長にお付き合いいただけると幸いです。

  *              *             *

 

 第四願は六波羅蜜の第四「精進」に関する願、「精進成就解脱具足」で、「精進が完成し輪廻からの解脱が得られる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が精進波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が怠惰で精進しようとせず、三乗を捨て人間界・天界の善業も実践できないのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした怠惰なもろもろの有情たちがおらず、すべての有情が熱心に精進して善い生存形態や三乗の原因になることを実践し、天界や人間界に生まれて速やかに解脱が得られるようにしよう」と。……

 

 『大般若経』の他の個所で六波羅蜜は相互に促進し合うことが述べられている。なかでも「精進」は、特定の何かをするというより、他の五波羅蜜すべてを実践するうえでの基本姿勢だと言っていいだろう。自らの覚りと衆生の救済に向かって、ひたすら一心に渾身の努力をしていくという心の姿勢である。

 人間は、何もしないでいると確かに当面は楽だが、やがて衰えていく。長期入院しリハビリが十分でない患者が驚くほど短期間に衰えていくことは、身近で体験した人なら誰でも実感する事実である。

 人間は、単に現状維持するだけでも一定程度は動いている必要があるが、まして成長・成長を目指すのであれば、負荷をかけてトレーニングする必要がある。

 スポーツや体の健康維持については、多くの人が実行するかどうかは別にして、それは認めるだろう。しかし、心の健康維持や強化や向上にもトレーニングは必須であることは、やや忘れがちであるように見える。

 しかも、凡夫は自分しかも現状の自分を実体視しているために、今の自分を楽にしたり楽しくしたりすることが自分にとっていいことだ・自分の得だと考えがちである。

 しかし、怠惰という業が積み重なると必ず身心を衰えさせる。人間の身心は無常なるもので変化するものであり、その変化はプラスとマイナスのどちらにも向かいうるのであり、怠惰は何もしないことをすることで自分をマイナスに向かわせるのである。

 私たちが、個人として人間なみの水準やさらに天界というほどの高い水準へと向上し、いっそう高い心の自由の境地・解脱へと人間成長を遂げ、社会としては貧困も飢餓も憎み合いも紛争・戦争もない美しい国を創り出したいのなら、精進という姿勢は必須である。

 多くの人が、自分が楽をすることや楽しむことが人生だと思っている――個人主義と快楽主義――かぎりは、個人も社会も現状維持さえ困難であり、それどころかむしろ劣化していくだろう。日本という国は、ここのところ残念ながら個人主義と快楽主義による劣化のプロセスに入ってしまっているのではないか、と筆者は危惧している。

 すでに長く実践してきて精進の個人と社会にとっての意味を深く体験的に知っている菩薩は、人々が目先の楽さや楽しみに溺れてやがて結局は衰え堕落していくことのないよう、まず自らが「精勤して身命を顧ず・渾身の努力をし身命を顧みず」という姿勢の手本を示して、人々を精進へと促すのである。

 そして、もちろん人々が共に住む美しい仏国土は、菩薩だけで創り出すことはできない。リーダーとしての菩薩と人々が共に労を惜しまず、時には身命も惜しまないほどの渾身の努力をする必要がある。

 因みにこの「精進」という徳目は、ただ出家した人のものだっただけではなく、その教えが日本人の勤勉さを育んできたことも指摘しておきたい。

 今、私たち日本人は、この精進という心の姿勢を勤勉さという以上に『大般若経』の語っているより深い意味で再発見・再獲得する必要があるのではないか。もしそれができれば、日本は劣化ではなく向上のプロセスに入ることができるだろう、と筆者は考えている。

 

*連載の番号を間違えました。35→34でした。お詫びして訂正します。

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『サングラハ』第178号が出ました!

2021年08月07日 | 広報

       目 次

■ 近況と所感 …………………………………………………………………………… 2

■「典座教訓」講義(1)……………………………………………………岡野守也… 4

■ コスモロジー心理学各論(5)――なぜ昼と夜があるのか …………岡野守也…19

■ 痴呆、認知症そして老耄(認知障)(10)…………………………大井玄…… 23

■ 仏弟子たちのことば(10) ……………………………………………羽矢辰夫… 34

■『インテグラル心理学』を手にして(1) ……………………………増田満…… 36

■ 国際比較で見る日本のコスモロジー崩壊(6)………………………三谷真介… 45

■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………… 50

■ 私の名詩選(77) 西行の夏の歌  ………………………………………………… 52

 

  編集後記

 今号から、主幹の新しい連載、「『典座教訓』講義」がスタートしました。天才・道元禅師も、若さ故に面倒を厭うたところに凡夫としては共感を覚えます。しかし、雑務を本務と捉えられるかが人生を決めるというのは真理という他なく、一凡夫も痛く反省させられます。

 コスモロジー各論は「昼と夜がある理由」について。気候のバランスの僅かな乱れによって気象災害が激甚化しており、脅威を感じます。だからこそ、元々の「恵み」のほうにまず目を向ることが、確かに必要です。

 大井先生の、日本とスウェーデンにおけるグループホームのモデル事例は、いずれも生活者として自己肯定感を回復した認知症高齢者の、健康な表情が眼に浮かぶようで、極めて印象的です。

 羽矢先生の紹介する仏弟子は、今回からブッダ育ての母・マハーパジャーパティーについてとなります。

 増田さんの書評では、二十年以上を経てなお時代の先を行く、ウィルバー『インテグラル心理学』を前後二回で紹介されます。

                            (編集担当)

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