*今日、O大学のチャペルアワー(礼拝)の講話をしました。かなりの数の学生たちが真剣に聞いてくれました。こういう真面目すぎるくらい真面目な話をして、たくさんの若者が耳を傾けてくれる時代になってきたのかな、とうれしく思いました。
一行はカファルナウムに来た。
家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
(マルコによる福音書九・三三―三七)
新しい年になって二週間が過ぎようとしています。
日本人の習慣的では、いろいろなことが新しくなって夢と希望が新たに湧いてくるような、いわゆる「めでたい」気分がまだ抜けきらない時期でしょう。
しかし、社会の現実、世界の現実を見ると、必ずしもめでたいとはいえない、それどころか深刻な問題が山積しています。
みなさんにもっとも身近なところでは、就職がとても難しくなっています。
それは、いうまでもなくリーマン・ショック、ドバイ・ショックと続いて世界全体が大不況からなかなか立ち直れないでいるために、日本の企業の大半も雇用に非常に慎重になったり、端的に控えたりしているからです。
そうした中で、就職できない、あるいは失業して再就職できない方たちの数も増えていて、格差社会はどんどんひどくなっているようです。
そうしたこともあって、みなさんの少し上の世代では、なかなか結婚しないというかできないというか、晩婚化が進み、さらに少子化が進んでいます。
もっと上の世代では高齢化が進んでいるにもかかわらず、年金や介護・医療の今後の見通しには厳しいものがあります。
そうした中で福祉の充実が必要であるにもかかわらず、福祉に必要な税収は減っており、財政の赤字はさらに積み上がっています。
今年の冬は割に寒いので、「温暖化なんてどこに行ったんだ」と感じている人もいるかもしれませんが、温暖化というのは国際的にはむしろ「気候変動(climate change)」という言葉で語られていて、気候が安定せず、中長期的に見ると温暖化しているという意味で、「今年は寒いからもう問題がなくなったんだ」というふうなことではありません。
注目しておかなければならないのは、何年も前から繰り返し、「記録的猛暑」「記録的集中豪雨」「記録的暖冬」「記録的豪雪」というふうに「記録的」つまりこれまでになかったことが起こっているということです。
今年は、すでに暮に例年にない積雪という地方がありましたが、これから「記録的豪雪」の可能性も十分にあると思われます。
そうした厳しい状況の中で、日本のリーダー、特に政治的リーダー、その中でも政権与党のリーダーのみなさんは、繰り返し「政治主導・政治家のリーダーシップによる変革」ということを言っています。
その言葉に、私もできれば期待したいと思っています。しかし、その政権与党のトップリーダーのお二人が、政治資金について問題があり、どうもその責任について態度が明解でないように見え、リーダーとして期待しきれるのかどうかという疑問も感じます。
そうした中で、新しい年の初めに当たって、若いつまりこれからの時代を担っていくべき世代のみなさんと、ほんとうのリーダーあるいはリーダーシップというものについて、新約聖書、特に福音書がどんなことを教えているか、ご一緒に学びなおしたいと思いました。
みなさんの中には社会のまさにリーダー的な存在になっていく人もいるでしょうし、そうでなくても大人になるということはつまり上の世代になるということであり、好き嫌いにかかわらず下の世代に対してはリーダー的役割をしなければならなくなるということです。
やがてリーダー的世代に育っていくみなさんに、あらかじめほんとうのリーダーとはどういうものか、学んでおいていただきたいと思ったのです。
リーダーになるということ、別の言葉で言えばいわゆる「偉くなるということ」はどういうことなのか、福音書のイエスは、私たちの常識とはまったくといっていいほど違うことを語っています。
イエスの生きていた今から約二千年前のユダヤはローマ帝国に支配され属領にされていました。
イエスは、そうした状況の中でユダヤをローマから政治的・軍事的に解放してくれるという意味で「救世主・メシア・キリスト」になることを期待されていたようです。
イエスの弟子たちもイエスにそういう期待を抱いていたようで、ですからイエスがローマの支配をはねのけてユダヤ人の王になった、つまり偉くなった時に、自分たちもイエスに次いで高い地位に就くことができるだろう、と期待していたのです。
弟子たちはカファルナウムという町への旅の途中で、そうなった場合、自分たちの中で誰が一番高い地位に就くことになるだろうか、一番偉くなるのか、「私こそ一番だ」「いや、そうではない。私こそ一番になる資格がある」というふうな議論・言い争いをしていたようです。
イエスはそれを知っていながら、途中で止めようとはせず徹底的に議論させたうえで、町に着き家に入ってから、まず「何を議論していたのか」と尋ねます。
弟子たちはうすうすながら自分たちの議論はどこかまちがっているのではないかと感じていて、言うとイエスに叱られると思ったのでしょうか、返事をしませんでした。
しなかったというより、できなかったのでしょう。
するとイエスは席に座って、自分のそばに彼らを呼び寄せました。
それは、やや離れた距離から怒鳴るとか叱るとかするのではなく、もっと近い、親密な距離で心に沁みるように言い聞かせようとしたということでしょう。
話が少しだけ横にそれますが、私は、いつ読んでも、マルコによる福音書は、文章はとても簡潔なのに驚くほど的確に生き生きと情景を描きだしていることに感心します。
この個所も例外ではありません。弟子たちをそばに呼んで、彼らの顔を見るイエスの、厳しいけれどもとても優しいまなざしや表情までありありと想像できるような気がします。
イエスは弟子たちを身じかに来させて、優しく厳しく教えます。
「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」
これはとてもわかりやすい言葉ですから、その必要もなさそうですが、念のためにあえて少し解説をしましょう。
「お前たちは、偉くなるということ、人の先に立つ、あるいは人の上に立つということは、人に自分の言うことを聞かせられるようになる、自分に仕えさせることができるようになることだと思っているけれども、ほんとうのリーダーというのはそういうものではないのだ。すべての人の後になる――英語にバックアップという言葉がありますが、すべての人のバックアップをする、人の後ろにまわって後押しをするのがほんとうのリーダーの仕事なのだ。人に仕えさせるのではなく、自分が人に仕えるのが、リーダーの役割なのだ」というのです。
どうですか、これはまるで常識的ではありませんね。
みなさんは、「ちょっと建前すぎる、理想的すぎる、綺麗ごとだ」と感じますか。
どう感じるかはもちろん自由なのですが、ともかくこれがイエスのリーダー論です。
そして続いてイエスは、象徴的な実例で教えます。
すなわち、まだ人に仕えること・世話をすることなどできないどころか、世話をしてもらうばかりの小さな子供を抱き上げ、「イエスの弟子を名乗るのなら、子供の世話をする側にまわりなさい」と言うのです。
世話をしてもらおう・仕えてもらおうとするのではなく、世話をする側にまわろう・仕えようという人生の姿勢になるのが、大人になるということであり、リーダー的存在になるということのほんとうの意味なのです。
人の世話ができるようになる・人に仕える側になることこそ、ほんとうにイエスの弟子になるということであり、イエスの心を自分のものにする、イエスを受け入れるということです。
そしてイエスの心を自分のものにするということは、ただイエスを受け入れるというだけでなく、イエスをこの世に送り出した存在――いつも言うのですが、それを神と呼ぶか仏と呼ぶか、あるいは大自然・宇宙と呼ぶか、呼び方はたいした問題ではありません。私たちすべてを生み出した私たちではない、私たちを超えた大いなるなにものか、Something Greatが存在することは事実だと思います――その私たちを超えた大いなるものの心を自分のものにする、受け入れるということだ、というのです。
宇宙という言葉を使えば、宇宙の心・意志・志を自分の心・意志・志にすることこそ、ほんとうのリーダーになるということです。
そして、そういうリーダー、リーダー的な大人がぜひとも必要な時代になっていると思います。
そういうリーダーやリーダー的大人がいなければ、このままでは日本という国は滅びてしまうかもしれない、と私は深く危惧しています。
そうならないよう、みなさんには、これからまた大学で学ぶことを通して、ぜひそういうリーダーあるいはリーダー的な大人になれるよう、自分を育てていただきたいと思います。
新しい年の初めに、みなさんの大きな成長に大きな期待をしたいと思っています。
ぜひ、期待させてください。
↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。
人気blogランキングへ