日本に戻り、妹の家に置いてもらっていた車に乗り
子供が待つ金沢へ向かった
車の中は、懐かしい泰三さんの匂いがした
隣に泰三さんがいるかのようだった
そして色々なことが思い出されてきた
泰三さんは亡くなる2週間前にこう言っていた
「友子には子供がいる・・・でも俺は一人きり。だから友子は帰さない」
「友子を一人占めにするんだ」
今まで愛してる?って聞くと愛が分からないと言ってはぐらかしたり
「俺は依存しないよ。誰にも・・・
依存することは自分でその後生きていけなくなるから」
と言っていた彼が、色々な本音を語ってくれた
ふざけて、愛してる愛してる・・・と独り言のようにつぶやいていた事はあっても
泰三さんはいつも自分の心をはぐらかしていた
その彼が私にこう言った
「俺は友子に依存するよ。いいか?・・・」
それは自分の人生を委ねるよという証でもあり
信頼という深い絆で結びついた証であり
彼が恐れを越えた瞬間でもあった
私達は深く繋がった
泰三さんはお別れするという言葉を言われるのが嫌いだった
喧嘩をするたびに、「別れるって言わないと言え!」って言っていた
最期の2週間は私達にとって、今までにないくらいの結びつきだった
喧嘩をするたびに私は言っていた
「お別れをするのは、あなたが死ぬ時か、私が死ぬ時かどちらかや。それ以外はない」
だから本気で別れを決意するなら彼を殺すか、私が死ぬか、どちらかの選択をすると思うくらい
異常なくらいの愛だった
でもそれは彼が望んでいたことでもあったことを私は知っていた
「友子の俺を好き好きっていう態度・・・結構居心地よかったんだ」
死ぬ前日、彼はポツリと言った
私は彼から一時も離れられなかった
離れたくなかった
彼のすべてが私を惹きつけていた
出会ってからずっと
彼は私の命であり、私の生きる意味だった
泰三さんの商材の動画を作成する時は
私が撮った一枚一枚を動画にしながら
言葉を付け加えていった
本気でブロマイド集を出そうと思っていた
妹に止められた
泰三さんも笑っていた
大谷由里子さんに呼ばれた講演の中で
「私の妻は本気で僕のブロマイド集を出すと思います」と照れくさそうに笑って言っていた
私は泰三さんの写真を撮ったり、動画を作成するのが好きだった
何度も何度も、何日も、一つの動画を作成するのに
繰り返し動画を見ながらの作業・・・・
どこから沸くのか分からないほど、私の内側で、泰三さんへの愛しさが溢れて
泣いてしまっていた
たかが動画作成なのに・・・
私はたまらなく彼が好きだった
そして動画を作成中に涙が止まらなくなると、隣の部屋にいる泰三さんのところに
駆けていって、泰三さんの傍にじっと座って、足腰にもたれかかり離れなかった
ずっと眠れない、一日4時間睡眠があればいい方だった泰三さんが
私と一緒になって、少しずつ眠れるようになっていった
8時間とか寝てくれた時は、本当に嬉しかった
泰三さんのいびきが私は大好きだった
彼が生きていることを確認できる一つの方法だったのもあるが
まるで私には子守唄のように聞こえていた
一緒になった頃は、大きな声でうなされる日々が続いていたが
それも、結婚式が終わると無くなってきた
私と一緒になってから、2回死にかけたことがある
一回目は、一緒に住み始めてすぐ、緑膿菌にかかって、いつ治るか分からず
抗生物質も効かない、下手すると死に直結する病気にかかったこと
そして2回目は今年に入ってすぐだった
とにかく私は泰三さんとの繋がりが強すぎて
自分の仕事は重要なことだけは済ませるが、どんどん仕事を減らし
辞める決意でいた
東京で彼のサポート優先で、あまった時間で自分の仕事をしようと考えていた
子供たちの面倒は見れなかった
でも金沢へ帰れば、泰三さんは子供たちを、とても大事にしてくれた
子供が警察沙汰になった時も、全部処理をしてくれて
子供たち一人ひとりと、私よりも密接に関わり、家族として共に怒ったり喜んだりしてくれた
子供が一番泰三さんに懐いていた
俺は父親にはなれないよって言っていたのに
いつのまにか泰三さんは、時にはよき友人として、父として
男としての生き方を子供達に見せてくれていた
彼はかっこよかった
最期まで、男として私の前でいてくれた
そんなことを思いだしながら、トイレ休憩2回のみのノンストップで
金沢へ辿り着いた
6日の予定日で子供に赤ちゃんが生まれる
だから一刻も早く帰る必要があった
夜、眠れずにベッドの中にいたら
虚空の中に闇が入ってきた
それは孤独、無だった
光の中で体験する無と、闇の中の無
同じなのだけど、私は死にたくなっていた
ロウソクをつけ、外に出て、田んぼにむかって道路に寝そべって
空を見ていた
最初はパラパラ雨が・・・・それでも外にいるのを止めなかった
そしたら、どんどん雲が晴れ、星が出てきた
鈴虫なのか、コオロギなのか、虫の鳴き声に耳を澄ませた
し~んと静まり返った静寂
1時間くらいして、私は諦め、眠れないベッドに入った
次の日の夕方、子供達と買い物にでかけた
夕陽が、あの飛行機の中で見たオレンジ色とまったく一緒だった
一瞬の出来事だった
その後何事もなかったかのように、又、虚無、暗闇が訪れていた
泰三さんを亡くした悲しみが無くなった訳ではない
私は肉体を持った人間なんだ
フランスに行く前から、ずっと頭痛に悩まされていたが
その頭痛が再び私を襲っていた
心を静めたいという気持ちが常に私の中に存在している
呼吸を整え、静かに座り目を閉じる
感情を殺す気はない
記憶喪失なのだ
泰三さんとの記憶を私は魂に刻み込もうとしていた
車の中の泰三さんの匂いは、私の精神を安定させる
私は深い海に潜ったまま出てこようとしていない自分を見ていた
空に向かって、私は叫んでいた
「私を早くあなたの元へ帰してほしい。早く連れていってほしい」
私の叫びは朝まで続いていた
時間は流れる
人間である以上、悲しみがなくなる訳ではない
今を生きていくのが苦しい時もある
私はあのオレンジ色の夕陽を思い出そうとしていた
やがて
泰三さんへの悲しみと、光がゆっくりと織り交ざっていった
子供が待つ金沢へ向かった
車の中は、懐かしい泰三さんの匂いがした
隣に泰三さんがいるかのようだった
そして色々なことが思い出されてきた
泰三さんは亡くなる2週間前にこう言っていた
「友子には子供がいる・・・でも俺は一人きり。だから友子は帰さない」
「友子を一人占めにするんだ」
今まで愛してる?って聞くと愛が分からないと言ってはぐらかしたり
「俺は依存しないよ。誰にも・・・
依存することは自分でその後生きていけなくなるから」
と言っていた彼が、色々な本音を語ってくれた
ふざけて、愛してる愛してる・・・と独り言のようにつぶやいていた事はあっても
泰三さんはいつも自分の心をはぐらかしていた
その彼が私にこう言った
「俺は友子に依存するよ。いいか?・・・」
それは自分の人生を委ねるよという証でもあり
信頼という深い絆で結びついた証であり
彼が恐れを越えた瞬間でもあった
私達は深く繋がった
泰三さんはお別れするという言葉を言われるのが嫌いだった
喧嘩をするたびに、「別れるって言わないと言え!」って言っていた
最期の2週間は私達にとって、今までにないくらいの結びつきだった
喧嘩をするたびに私は言っていた
「お別れをするのは、あなたが死ぬ時か、私が死ぬ時かどちらかや。それ以外はない」
だから本気で別れを決意するなら彼を殺すか、私が死ぬか、どちらかの選択をすると思うくらい
異常なくらいの愛だった
でもそれは彼が望んでいたことでもあったことを私は知っていた
「友子の俺を好き好きっていう態度・・・結構居心地よかったんだ」
死ぬ前日、彼はポツリと言った
私は彼から一時も離れられなかった
離れたくなかった
彼のすべてが私を惹きつけていた
出会ってからずっと
彼は私の命であり、私の生きる意味だった
泰三さんの商材の動画を作成する時は
私が撮った一枚一枚を動画にしながら
言葉を付け加えていった
本気でブロマイド集を出そうと思っていた
妹に止められた
泰三さんも笑っていた
大谷由里子さんに呼ばれた講演の中で
「私の妻は本気で僕のブロマイド集を出すと思います」と照れくさそうに笑って言っていた
私は泰三さんの写真を撮ったり、動画を作成するのが好きだった
何度も何度も、何日も、一つの動画を作成するのに
繰り返し動画を見ながらの作業・・・・
どこから沸くのか分からないほど、私の内側で、泰三さんへの愛しさが溢れて
泣いてしまっていた
たかが動画作成なのに・・・
私はたまらなく彼が好きだった
そして動画を作成中に涙が止まらなくなると、隣の部屋にいる泰三さんのところに
駆けていって、泰三さんの傍にじっと座って、足腰にもたれかかり離れなかった
ずっと眠れない、一日4時間睡眠があればいい方だった泰三さんが
私と一緒になって、少しずつ眠れるようになっていった
8時間とか寝てくれた時は、本当に嬉しかった
泰三さんのいびきが私は大好きだった
彼が生きていることを確認できる一つの方法だったのもあるが
まるで私には子守唄のように聞こえていた
一緒になった頃は、大きな声でうなされる日々が続いていたが
それも、結婚式が終わると無くなってきた
私と一緒になってから、2回死にかけたことがある
一回目は、一緒に住み始めてすぐ、緑膿菌にかかって、いつ治るか分からず
抗生物質も効かない、下手すると死に直結する病気にかかったこと
そして2回目は今年に入ってすぐだった
とにかく私は泰三さんとの繋がりが強すぎて
自分の仕事は重要なことだけは済ませるが、どんどん仕事を減らし
辞める決意でいた
東京で彼のサポート優先で、あまった時間で自分の仕事をしようと考えていた
子供たちの面倒は見れなかった
でも金沢へ帰れば、泰三さんは子供たちを、とても大事にしてくれた
子供が警察沙汰になった時も、全部処理をしてくれて
子供たち一人ひとりと、私よりも密接に関わり、家族として共に怒ったり喜んだりしてくれた
子供が一番泰三さんに懐いていた
俺は父親にはなれないよって言っていたのに
いつのまにか泰三さんは、時にはよき友人として、父として
男としての生き方を子供達に見せてくれていた
彼はかっこよかった
最期まで、男として私の前でいてくれた
そんなことを思いだしながら、トイレ休憩2回のみのノンストップで
金沢へ辿り着いた
6日の予定日で子供に赤ちゃんが生まれる
だから一刻も早く帰る必要があった
夜、眠れずにベッドの中にいたら
虚空の中に闇が入ってきた
それは孤独、無だった
光の中で体験する無と、闇の中の無
同じなのだけど、私は死にたくなっていた
ロウソクをつけ、外に出て、田んぼにむかって道路に寝そべって
空を見ていた
最初はパラパラ雨が・・・・それでも外にいるのを止めなかった
そしたら、どんどん雲が晴れ、星が出てきた
鈴虫なのか、コオロギなのか、虫の鳴き声に耳を澄ませた
し~んと静まり返った静寂
1時間くらいして、私は諦め、眠れないベッドに入った
次の日の夕方、子供達と買い物にでかけた
夕陽が、あの飛行機の中で見たオレンジ色とまったく一緒だった
一瞬の出来事だった
その後何事もなかったかのように、又、虚無、暗闇が訪れていた
泰三さんを亡くした悲しみが無くなった訳ではない
私は肉体を持った人間なんだ
フランスに行く前から、ずっと頭痛に悩まされていたが
その頭痛が再び私を襲っていた
心を静めたいという気持ちが常に私の中に存在している
呼吸を整え、静かに座り目を閉じる
感情を殺す気はない
記憶喪失なのだ
泰三さんとの記憶を私は魂に刻み込もうとしていた
車の中の泰三さんの匂いは、私の精神を安定させる
私は深い海に潜ったまま出てこようとしていない自分を見ていた
空に向かって、私は叫んでいた
「私を早くあなたの元へ帰してほしい。早く連れていってほしい」
私の叫びは朝まで続いていた
時間は流れる
人間である以上、悲しみがなくなる訳ではない
今を生きていくのが苦しい時もある
私はあのオレンジ色の夕陽を思い出そうとしていた
やがて
泰三さんへの悲しみと、光がゆっくりと織り交ざっていった