THE WAY

インディアンネーム「生命の声を聞く者」のヒーリングブログ

光の円舞 スローモーションで流れる

2015-08-28 10:05:34 | セッション記録
夏が大好きな私は、ハードスケジュールの仕事の合間をぬっては

家族との夏を楽しんだ


どうしても行きたかったディズニーに行き

こおろぎが鳴く田んぼを夜になると散歩

山形から里帰りした上の娘夫婦と孫

孫が二人

大賑わいで、花火を見た

海には入る時期を逃したが、浜辺で夕陽を見た



今までの私は、楽しいということがどういうことなのか

よく分からなかった

楽しいっていう感覚を味わったことがなかった



でも、今は心から楽しいと思える

これが楽しいということなんだと思える



楽しいということが分からない私は、常に、仕事にフォーカスしていて

子供といても頭は仕事だった

この瞬間にいて、遊ぶという事が出来なかった



今この瞬間に全部で存在する

この瞬間に立ち会う



それは、時々訪れるすべてが光の中に溶けていく様子や

人間の生と死、そして生きることの様々な出来事のすべてが

走馬灯のように、

まるで、地球に魂が入ったり出たりする祝福のエネルギーを

はっきりと感じて見ることができる時に訪れる神の恩寵

光の体験の時には

時が止まり、ゆっくりとスローモーションで流れる時

この瞬間にいることは知っていた



それは楽しいという感覚ではなく、静かなな広がり、風に吹かれるような感覚なのだ

時間という概念を私達は真の意味で知らないが

一瞬の中にすべての時間が綴じられていて

その一点に触れると、全部が突然開かれる



どうやら、命の瞬間に立ち会うということが

私をこの瞬間に戻したのだろう



先のことや、過去のことを考え、ずっとそこに

自分がいた状態から

この瞬間、遊ぶことや、一緒にいること


予測するのではなく、この瞬間に「いる」「ある」

ということが



自分の全部が

地球と宇宙に向かって反応する

それはこだまのようにお互いが音を反映し合っているかのような

調和のハーモニーだ



光が空を舞い、すべてがこの一瞬に綴じられる

私は全部を思い出す



そしてそれは又、風の流れの中に消えていった













ねねちゃんと・・・


山形の娘の息子(かなと)と(ゆあ)ディズニー英語システムで英才教育中




ゆあちんの初めての階段挑戦中・・・


ディズニーの白雪姫にして



ゆあちん。お熱が39度

急遽帰る






ママとプールへ




人間嫌いの猫のぬこちゃんは、ゆあちんが大すき






初盆の夢

2015-08-14 21:05:47 | セッション記録
泰三さんが亡くなり、初のお盆。

蓮の花を買い、夕方子供たちが勢ぞろい。

山形にいる娘も孫を連れて帰ってきたため、家では大賑わい。


いつもはリビングが私の寝床だが、二階のクーラーのない、下の娘の部屋で

雑魚寝

その晩、なんとも言えない夢を見た

なんとも不思議な存在が出てきて、その存在はとてもユニークで

まるで七福神の布袋さんのようだった

布袋さんなのに、他の人々は神だと分かっていなかった

そこで私は他の人々を観察していると、

強く、はっきりした声が聞こえてきた


その声は、あれは布袋さん、マイトレイヤーだと言った

布袋さんは大きな袋を抱え、その中から福を出していた


そこで目が覚めた

私は仏教系の名前をよく知らない


でもマイトレイヤーという名前が私の頭にはっきりと残った

この存在は、私がアストラル界の学校に行ったときに

隣にいて、ご飯を食べろと沢山の白飯を出してくれたおじちゃんと似ている

おじちゃんはまったくの人懐こさで、私にご飯を食べさせると、お祈りの時間だと
言って去っていった


マイトレイヤーとは弥勒菩薩だと後ほど知った
泰三さんの地球での人格のエネルギーは一年経った今、浄化され

魂のレベルでは、どうもマイトレイヤーにお世話になっているらしい

お盆の今日、マイトレイヤーと共に泰三さんが現れたんだ


そういえば、泰三さんのお腹も、布袋さんのようだったし・・・




泰三さんが亡くなった後のことを、ここ数日考えていた

どんな気持ちでこの世を去ったのか・・・

最期のあの二人っきりの時間

救急車の中が夕陽でオレンジ色だったこと


そして一周忌の6月15日に私と生きた日々が漫画になったこと



私が生きれる時間は長くても30年


一日一日が、私を人生の最期へと繋げている

どんな瞬間も、私はこの世界の美しさの中にいる


世界のワンピースとして、完全なる調和の音の中に溶けていくのを感じていた

お盆は地獄の釜の蓋が開くともいう

この次元とあの世の次元が交流できる時間なのだ