3月24日頃何となく山梨の連れ合いの実家の兄嫁さんに会ってお話をしたいと思い爺に相談した。
急に行っては悪いので電話連絡をするが連絡不能、別の親戚に連絡すると入院中だとわかった。
兄嫁には三人の娘がいて末娘が一緒に住んでいるのだが、その姪も足の手術で二人で入院しているとのことだった。
4月に入ったらお見舞いに行く予定だったが、30日に姪から電話があり母の容態が思わしくないとの連絡である。
翌朝急遽山梨に向かう。
もうほとんど意識はなくあの元気なお姉さんの面影はなくなっていた。名前を呼ぶと少し目が動くような感じがした。
取りあえずいったん帰宅したが、私が1週間前会いたいと思ったとき出かけていれば話はできただろう。
すごく苦労をしたお姉さんで、戦後すぐ見合いをしてあの気難しい義兄と結婚したのだが、舅、姑、小姑たちの中でがんばって生きてきた姉さんだった。
戦争から帰ってきた兄さんは戦争でのストレス発散から近くに住む俳人飯田蛇笏氏の笛吹市境川にある山庵に通い、俳人 飯田蛇笏氏が主宰する「雲母」などに投稿して俳句の世界に没頭していたという。
鍬を片手に仕事はおろそかでいつもボーと空を仰いでいたと聞いている。その義兄の分の仕事を兄嫁さんは頑張らねばならなかったようだ。
嫁姑問題より嫁小姑問題の方がどんなに大変だったか想像できる。その中には大学に通う爺もいたのだ(小舅)
爺が私によく言う言葉に「母や兄嫁の寝ている姿を見たことがなかった」と言うくらい働き者であったようだ。のんびり横になることもないほど働いていなければならなかった時代だったのだろう。
義兄の亡くなられた同じ日の4月1日に94歳で浄土に行かれた。彼岸では自由自在にゆるりと過ごして欲しいと願う。
南無阿弥陀仏
この花は義兄の亡くなった後に自分の部屋の前に植えた木でちょうど満開に咲いて兄姉さんを見送った。
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