ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

【家の記録#02】納得が行かないのは

2011年01月26日 | 極私的記録
契約に、譲渡後2年の瑕疵修復期限があることは私たちも承知している。
これが、今回初めて起きたことであれば、築後7年という期間を考慮して自費で修理することも考えたかもしれない。

けれども「直した」と言われてから2シーズン目で、同じ症状が起きることに納得がいかない。

もしも「その場で原因がわかったので本修理をした」というのなら、たった1シーズンしか持たない修理は手抜きではないのか。
もしも「応急処置的な内容だった」というのなら、最初の約束通り、改めてきちんと修繕をしてもらわなければ話が違う。
現在は瑕疵修復期間を過ぎていたとしても、最初に問題が起きたのが瑕疵の保証期間内であり、それが放置された結果が現在の状況なら最後まで責任を持って修繕する義務があるのではないか。

こうなると、大掛かりな経費がかかるのを嫌がった業者が、最初から瑕疵の保証期間を過ぎるまで持つ程度の応急処置をして、あとは言い逃れをしようと企んでいたのではと疑いたくなる。

天井裏の状況にしても、見に来たK社の人の説明では、
「今は特に問題がないので、下手にいじらない方がいい」
という内容だった(詳細な言い方は覚えていない…)。

が、今現在はすでに天井板そのものも怪しげな状態になっている。
増して天井裏のグラスウールなど、覗いてみたらどんな状況になっているか、あまり想像したくない。
ちゃんとした処置がなされなかった結果引きずって、さらに悪化している箇所もある、というのが現在の私の感想だ。

今回のT社やN社の対応は非常に誠意のない、納得の行かないものだと感じている。
当初は「とにかくきちんと直してくれればいい」と思いT社に話をしにいったわけだが、こうなるともう信用がならない。
例えば無償でK社に直してもらったとしても、果たして本当に「きちんと」作業をしてくれるのか疑わしい。

幸いにもほのかの勤務先はリフォームを手がけていたこともあり、信頼できる建築業者さんとも行き来がある。
作業をお願いするとしても、そういった信頼のできる会社でなければお願いする気にはなれない。

それとは別に、第三者機関にも話を持ち込んで、自分たちが納得できるまで相談をして行きたいと思っている。

不動産T社の担当Sさんは、個人的な知り合いでもあり信用をしていたので、極力ことを荒立てない方向で済ませてきた。
そのため、途中経過や詳しい話の内容など、メモを残していない部分もある。
でもそれでは困ることもある、と今回痛感をしたので、この日記を書くことにした。

進展があれば、都度「記録」としてUPして行きます。


【家の記録】シリーズ冒頭記事へ

【家の記録#01】ことの起こり

2011年01月26日 | 極私的記録
これは、我が家に起きた住宅トラブルの、覚書です。
2011年1月現在、進行形。


2008年春。
建設後4年、未入居だった物件を購入。
その区画一帯を開発・建築をしていた会社が倒産し、別の会社が完成させて販売していたもの。
建築会社=K社
販売会社=N社
N社より委託を受けた不動産会社=T社
私たちは、T社から物件を購入した形。
入居前からこまごまとした不具合はあったものの、手直しをしてもらって無事入居。

2009年2月5日、夜。
屋根からの雨漏り(雪解け水)を発見。
そのときの状況をメモした過去日記の抜粋がコチラ。

『仕事から帰って来て、1階のキッチンで夕食の準備をしていた私。
ふと天井を見上げて仰天。
明らかに、水漏れのシミ。
急いで穂和に2階のトイレを見に行ってもらうが、異常なし。
おかしいとさらに調べてもらったところ、寝室のクローゼットが水浸しになっていた。
屋根からの浸水。
築後4年間、無人のままだったことと、今年の暖冬ぶりが原因のようだ(もし暖冬でなければ、雪解け時期の3月か4月に発覚していたものと思われる)。
穂和の推測と、翌日に来てくれた不動産屋のSさん(当時の担当)の見解はほぼ同じ。
とりあえず業者さんに来てもらい、応急処置として屋根の雪を下ろしてもらうことで、水漏れは止まった。
後は晴れた日に屋根そのものの応急処置をしてもらい、雪がなくなったら屋根と屋根裏の断熱材の工事をしてもらうことになった。
Hちゃんが来たら泊まってもらうつもりで空けていた部屋に、クローゼットの中身を全部広げて乾かす』

2009年GW明け頃?
雪解けもとっくに終わり、そろそろ屋根の修繕を、と思い不動産会社T社の担当Sさんに連絡。
1~2週間後、建設業者K社の少し偉い人を伴って来宅。
問題のクローゼットの天井と、1階の染みのできた天井を目視で確認。
「その後、雨漏りなどは?」と聞かれ、「特にない」と回答。
1階の天井に関しては、同じ柄のものが現在はもうないかも、ということで、それはもしそうなら諦めると返答した。

それからしばらくまた間が開き、結局どうするのかとしびれを切らして、再度Sさんを通じて業者さんに連絡を取ってもらう。
すると、
「修繕工事は終わっています」
との回答。

Sさんに、
「冬のときは応急処置で、春になったらちゃんと直すという話じゃなかったでしたっけ?」
と尋ねると、
「私もそう聞いていたのですが…」
といいつつ、K社から説明されたという以下の内容を教えてくれた。曰く、
「通常、屋根のコーキング剤は数年で不具合が生じることはない。
が、今回この家は建ててから4年間全く人が住まなかったため冬は冷やされるままになって硬くなっていた。
そこへ今年初めて人が住むようになったことで冬場も家が温まり、寒暖を繰り返すことでコーキングにヒビが入り、その隙間から浸水して雨漏りとなった。
その原因が冬に雪下ろしをした時点でわかったので、その場で修繕をした。
その後雨漏りもないことから、処置は済んだものとみなしている」
とのこと。
冬に来宅した業者さんは作業後、在宅していた私にそういった説明は一切しないまま帰っている。

不満げな声を出した私にSさんは、
「私も一度自分の目で確かめたいので」
と、ほのか(=ダンナ・HNが平仮名になりました)のいる日に来宅してくれ、ほのかと一緒に屋根に上がって状況を確認した。
実際に目視したほのかも、一応処置はされているようだ、とのことで、一旦は解決とする。

2009年11月~2010年3月の冬季シーズンには異常なし。

2011年1月21日朝。
出社するため着替えようとクローゼットを開けたところ、中の洋服が水浸しになっているのを発見。
同じ箇所からの雨漏りだ。
クローゼットの中身を出し、ブルーシートで水を誘導する形に応急処置をしてから出かける。

当日夜。
帰宅したほのかがクローゼットの中身を全て出し、養生シートを使って水をバケツに溜まるように処置をする。
その際、クローゼットの天井にドリルで穴を開けてみたところ、ぐずぐずで手応えなく穴が開くような状態になっていた。
以前の雨漏りの時にも一切直していないことから、水によってダメージを受けているものと思われる。

2011年1月22日日中。
担当のSさんは転職して連絡が取れなくなっていたため、T社に直接出向く。
窓口で状況を説明し「直してほしい」と伝え、現在の担当者から連絡させますとの回答を得る。

夜。
現在の担当者より電話。
「一応販売会社のN社には確認してみますが、(修繕は)難しいと思います」とのこと。

2011年1月24日夜。
先日の担当者よりほのかへ電話。
「やはり、(販売後2年という)瑕疵の修復契約期間を過ぎているため、修繕はできません」という旨の回答。

これが、現在までの経過。

【家の記録#02】へ続く。

エイプリルフールの感謝

2010年04月04日 | 極私的記録
ここ1~2週間ほど、何かにつけては
「去年の今頃は…」
という言葉が頭に浮かんでくる。

「去年の今頃は、いつ出てくるんだろうってことばかり考えて、すごく気持ちが不安定で何も手に付かなかったよな~」

「去年の今頃は、いよいよ今日出てくるんだ!と思ってたのに結局夜まで何も起こらなくて焦ってたなぁ~」

そしてエイプリルフール。
「去年の今頃は、イランイランの香りに包まれた部屋でウンウン唸ってたよね~」
「去年の今頃、ちょうど出てきて、アワアワアワって泣き声を聞いてたところだ~」

……1年前のその日、ムニムニっと生まれてきた我が家のえいみ。
そのさらに1年前には想像もしていなかった、妊娠と出産。
1年後の今、えいみは文句のつけようもないくらい順調に成長している。

よく食べる。
よく笑う。
よく動く。
よく歩く。
よく眠る。

健康で頑丈で好奇心いっぱい。
これだけでもう充分に理想的。

でもそれもこれも、えいみ自身の持つ力はもちろん、パパである穂和が一緒になっていろいろとやってくれるからこその結果。
生後1ヶ月の頃から、丸一日私の代わりに面倒を見てくれて私が一人でアートマなどに参加できたのは、本当にありがたい時間だった。
優しいじーじとばーばたち、取り上げてくれた病院の先生と助産士さん、いつも笑顔の保育園の先生方、みんなみんなの力が支えてくれたおかげでここまで順調に来れている、と心から思う。
関わってくれたすべての人たちに、感謝です。



そんなえいみさんをほぼ毎日撮り続けた総数、4816枚(削除した分を除く)。
すでに忘れかけている1年前の顔も、はっきり思い出させてくれる貴重な写真たち。
1年後のエイプリルフールには、どんな顔をしてるのかな、どんなことができるようになってるかな。
その日を楽しみにしつつ。

お誕生日おめでとう、えいみさん♪

※懐かしの出産顛末記録はコチラから見られます。

ドキュメント0401~その後

2009年04月15日 | 極私的記録
「その後 入院生活編」

私の出産した勤医協札幌病院は、「母と子にやさしい病院」としても認定され、母乳育児を推進している総合病院だ。
自分がミルク育ちであり、まぁ可能なら母乳で育てたいな、くらいの感覚だった私。
完全母乳で、という固い決心やこだわりがあったわけではなかった。

「出産をすれば、誰でも母乳は出ますから」。
私はその言葉を漠然と捕らえて、何とかなるだろうとのん気に構えていた。
確かに母乳は出た。
が、問題はその量だった。
その上、陥没乳頭で赤ちゃんが乳首をうまくくわえられない。

ベテラン助産師さんによる、徹底したおっぱいマッサージとスパルタ授乳教育が始まった。

暖かい授乳室で、これでもかというくらいに力を込めて、懇切丁寧におっぱいをマッサージされ、赤ちゃんとおっぱいの支え方を指導される。
赤ちゃんも私も汗だく。
そのうちちゃんと出るようになるはずなのに、どうしてこんなにスパルタをするのだろう。
そんな気分にもなってしまった。
だけどそれは大きな間違いだったことに、2日目の夜になって初めて気が付くことになる。

充分なおっぱいを与えられない赤ちゃんは、常に空腹の状態となった。
夜中でも10分と大人しく眠ってくれない。

地方とはいえ、先進国の都市部にいるのに、こんな嬰児に必要なたった数十ccの母乳さえ与えてあげることができずにひもじさに泣かせてしまうなんて。
泣き続ける赤ちゃんがかわいそうで、自分が情けなくて、涙が出そうになった。
出ないおっぱいを必死にくわえる赤ちゃん。
乳首の皮は擦れて、吸われるたびに腰が引けるような痛みを感じる。
それでも足りなくて泣くのでナースステーションに行って訴え、応急処置としてブドウ糖水(だったと思う)を出してもらう。

赤ちゃんの熱は36度5分~37度5分くらいが適正だから。
38度を超えたら、脱水している可能性があるの。

助産師さんから教えてもらったそんな言葉が頭をよぎる。
翌朝の検温では、むしろ38度を超えていてくれることを願った。
脱水症状が出ていれば、補助的役割としてミルクが出してもらえる。
果たして、熱は38度ちょうど。
回診に来てくれた小児科医の先生に訴え、昨夜ブドウ糖水を出してくれた助産師さんのフォローもあって、
「お母さんさえ構わないなら、ミルクを追加しましょうか」
と言ってもらうことができた。
完全母乳でなくても構わない。
私のおっぱいが役割を果たせないなら、文明の力を借りたい。
とにかく赤ちゃんの飢えをなくしてあげたい。
満腹で、安心して眠らせてあげたい。
「お願いします、ミルク、あげさせて下さい」。

こうしてようやく満腹することのできた我が子。
けれどもここでおっぱいを放り出してしまったら、出るものも出なくなってしまう。
搾乳機を使っておっぱいマッサージをし、少しでも出るようにと努力を続けなければ昨日までの特訓がムダになってしまう。
それに何と言っても、一滴でも多くの母乳を飲ませたい。

たっぷりのマッサージをし力いっぱい搾り出しても、左右合わせてわずか3ccしか出ない母乳。
それでもとりあえず満腹にしてあげられたことで気持ちに余裕が出て、入院している間に頑張ろう、とおっぱいに向き合おうと思えた。

スパルタ授乳教育とマッサージ、夜中でもイヤな顔ひとつせずにアドバイスをくれた助産師さんたちのお陰で、4日目には時間になると自然に母乳が垂れ落ちてくるようにまでなった。
それでも日々飲む量の増える赤ちゃんの必要量には満たなかったが、母乳とミルクと半々くらいであげられるくらいにはなった。

出産から5日後、退院の時には、飲みにくいおっぱいをフォローするためのシールドを付け、直接母乳を上げた後でも、搾乳機で30ccは搾れるようにはなった。
帰宅から数日、一度に100ccを飲むようになった赤ちゃんに、半分は母乳であげられるくらいには出るようになっている。

……それにしても、与えれば与えた分だけ飲もうとする我が子えいみ。
この大食いっぷりは、誰に似たのやら、ねぇ?

病院選びの基準は「土曜日に診察がある」「皮膚科、小児科が併設されている」ことだけだった私たち。
LDRや、入院中のお食事やその他のサービスなどは特に重視していなかった。
「生まれた後にこそお金がかかるから、出産は安心できる設備ならそれ以上の贅沢は言わない」
そんなつもりだった。

出会った勤医協札幌病院は古くからある総合病院。
それでも産科には、追加料金ナシのLDRの他にも、ステキなサービスがあった。
ひとつが、「お祝い膳」。



入院中のとある1日の昼食に、通常の病院食とは違う特別なお膳が出る。
洋食と和食が選べ、食卓にはお花を飾ってくれて、食後のデザートと紅茶(またはコーヒー)まである。
私が選んだのは洋食。
仕事の後に自炊までして留守番をしてくれているダンナ様には申し訳ないような、オイシイサービス。

もうひとつは、リフレクソロジー。
病院外部から専門のリフレクソロジストさんが来て施術してくれる。
静かな音楽のかかる空間で、アロマパウダーを使ったフットマッサージや、温かいハーブティーのサービス。
赤ちゃんが泣いて寝不足の上、おっぱい特訓でヘトヘトになっていた私には、本当にリラックスできる気持ちのいいひとときだった。
あの時リフレが無く、ひたすらおっぱい特訓と泣き声にさらされていたら、かなり追い詰められた気持ちになってしまったかもしれない。

どんなに忙しい時でも、真夜中でも、誰にどんな小さなことを尋ねてもイヤな顔をせずにわかりやすく教えてくれた助産師さんたち。
たいした研究もせずにたまたま決めた出産場所だったけれど、私たち夫婦はあそこを選んで良かったと思っている。

その1 出産へのプロローグ」へ
その2 いざ入院へ」へ
その3 LDRの長い一日の始まり」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その6 援護射撃」へ

ドキュメント0401~その6

2009年04月14日 | 極私的記録
「その6 援護射撃」

自分たちの間に赤ちゃんが生まれる時、父親となる人には、立会いとまでは言わなくても「生まれた!」の声が届く範囲には居て欲しい。

妊娠する前から、それだけは譲れない気持ちとして持っていた私。
だから、里帰り出産という選択肢は最初から存在しなかった。
そうでなくても私の実家は北海道外にある。
飛行機で帰るような場所。
里帰り出産を選んでしまったら、おいそれとは飛んで来られない距離、穂和と赤ちゃんが対面できるのはいつになるかわからない。

自分の住む札幌で出産をする。
出産する場所には、それ以上のこだわりはなかった。
産院として選んだ勤医協札幌病院も、土曜の診察があって皮膚科(私のアトピーを診察してもらうため)と小児科がある総合病院、という理由で出会っただけだった。
私が診察を受け始めた昨年の夏には、勤医協札幌病院にはLDRはなく、昔ながらの陣痛室と分娩室が別々の形だったらしい。
けれども年明けに改装が行われ、1月末からLDRとなった。

「生まれた」の声の届く範囲に、との願いは、生まれたての子供と対面することで「お父さん」を実感して欲しいという気持ちがあってのことだった。
結果的には、LDRに居てもらうことで助けられたのは私の方だった。

長い長い陣痛の時間。
寝不足のために、ソファーで窮屈そうに仮眠を取る穂和。
起きていてくれてもまともな会話のできない私としては、たとえ夢うつつでもそこに穂和が存在してくれることだけで心強かった。
明るくてきれいな病室に、自分ひとりでぽつんと置き去りにされてただ痛みとひたすら戦うだけだったとしたら、気持ちが続かなかったと思う。

「男なんざ、いざ出産となったら何もできないからさ」
そう言いつつ、陣痛に苦しむ私の腰や背中をさすり、声をかけてくれ、手を握っていてくれた。
手の甲に深い爪の跡を残しても、痛いと文句も言わずに。
いきむ時には一緒に力を込めてくれた。

もう投げ出してしまえたらいいのに、と自棄にも近い気分になりながらも最後まで頑張れたのは、そこに同じ気持ちで戦ってくれた穂和がいたからこそ、だ。
同じように手を握ってくれていたお義母さんにも、もちろん感謝。

「お父さん」をいち早く実感して欲しい、なんて偉そうなことを考えてごめんなさい。
居てくれて、ありがとう。
これからも一緒に、子育てしていこうね。


その1 出産へのプロローグ」へ
その2 いざ入院へ」へ
その3 LDRの長い一日の始まり」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その後 入院生活編」へ

ドキュメント0401~その5

2009年04月13日 | 極私的記録
「その5 ようやく出産へ」

お義母さんの予測通り、そこからは確実に進んだ。
いつ破水させられたのかわからないまま、
「次に陣痛が来たら、いきんでいいわよ~」
と声をかけられる。
そしてその時点で初めて私は気が付いた。

いきむ=お腹に力を入れなくてはならない。
お腹に力を入れる?
こんなに強い腹痛の中、痛い場所に力を入れろって?

「いきむ時は目をつぶらないで! 深呼吸して、頭を起こして、目を開けて力を入れて!」
声は耳に入っているのだけど、思うように力をコントロールできない。
「陣痛が一番強い時を見計らって力を入れて! いきみ終わったときに陣痛が残ってるようなら、タイミングが合ってない証拠だよ~!」
と先生。

波が来る。
いきむ。
自分の声じゃないような、金属質な悲鳴が口から漏れる。
きっと病院の廊下まで響いてるんだろうな、でもそんな体裁を気にしていられる状況じゃない。
とにかく出ろ! と、息が続く限りいきみ続ける。
酸欠になって力を抜く。
「深呼吸してもう1回いきんで!」
そう言われても、もう力が続かない。
寝不足と、食事をまともに摂っていないことによる体力不足。
陣痛はまだ残っているから、今ここでもう一度いきんでしまえば、その分早く終わるし苦しい時間も短くなる。
もうさっさと出してしまいたい。
そう思っても、深呼吸ができず浅い呼吸を繰り返して過呼吸になるばかりで、2回目に行けない。
「ハイ、じゃあ次の陣痛を待とうね~」と先生。

何度同じことを繰り返しただろうか。
「次に陣痛が来たら、おすそを少し切るからね。麻酔するし、陣痛に合わせるから痛くないからね」
と先生。
切られないで済むかと思っていたのに、やっぱりダメか。
でもここまで来たらどうでもいい。
そして次の波が来る。
いきむ。
注射針の感覚、切られている振動、確かに痛くない、というよりもお腹の痛みに気を取られて他の痛みは感じられない。

「吸引の準備しておいて」
先生が助産師さんに指示をする声が耳に入る。
どうやらおすそを切って、頭まで見えかかっているのに、そこからなかなか出てこないらしい。
引きずり出してくれるなら、それでもいい。
とにかく早く出してしまいたい。

「何でもいいからさっさと出してしまいたい、という気分でした」
力いっぱいいきみながら、ネットで見た誰かのブログの一文を思い出す。
まさにそんな気分。
これを最後の1回にしたい。
もういい加減におしまいにしたい。
誰か代わってくれても良いよ、って、結局自分がやるしかないのかー。
陣痛前に戻れるわけじゃなし、どうでもいいからさっさとこの山を越えるしか道はないのね。
もしも次があるなら、絶対に無痛分娩にしてやるっ。
一度経験すれば充分だわっ。

いきむたびに頭の中でそんなことを叫び続ける。

「あ、頭出てきた頭! もう少しだから、頭が出ちゃえば後は楽だから!」
そして大きな痛みの塊がずるっと体外に出る。
「頭、出たわよ!」
これで楽に……ならない。どうして?
「ハイ、もう1回いきんで~」
頭が出たらもう良いんじゃなかったっけ!?
(後から聞いたところによると、へその緒が首に巻き付いていたらしい。
それで無理に引っ張り出せなかったのと、出口に肩が引っかかっていたように見えた、と穂和)。
わけがわからないまま、仕方なくもう一度だけ、と力を振り絞る。
「はーい、出た出た! 生まれたよ!」

2009年4月1日21時15分。
先生の声が響いて、途端にお腹がすっと楽になった。
もういきまなくて良いんだ、陣痛と戦わなくて良いんだ……!
思った瞬間に、全身から力が抜けていく。

フニャァ、という弱々しい泣き声。
ホラお母さん、赤ちゃんだよ、お父さん、写真写真、という先生の声。
聞きなれたシャッター音。
先生が赤子を抱き上げてポーズを取っている。

生み終えたら、感動して泣くかも。

出産前にはそう思っていたのに、安心感と脱力感ばかりで、涙など一滴も出ない。
テレビで見る出産シーンの方がよっぽど泣ける。
そういえば自分の結婚式の時も、感動より安心感の方が大きくて泣けなかったな。
私って、自分の身に起こることには意外に感動できないのかな。
それにしても……ちゃんと居たんだ、お腹の中に、赤ちゃん。

そんなことを考えながら、びしょぬれの娘をぼんやりと眺めていた。

短い撮影会が終わったところで、赤ちゃんは清拭のために連れ出され、
「お母さんの後処置をするので、ご家族の方は一度出て下さい」
と先生から声がかかる。
先生は(穂和に言わせると、そんなに力を入れて大丈夫なのかとハラハラするほどに)強く私のお腹を押し続け、胎盤を取り出した。
穂和とお義母さんが出て行き、先生が子宮収縮のためのマッサージをしてくれる。
途中で、
「点滴、急いで。早めに落ちるようにして。収縮が悪いっ」
と少し緊迫した雰囲気もあったが、点滴が落ち始めると和やかになった。

一緒にいたお母さんは、義理のお母さんかい?
ハイ、主人のお母さんです。
道理で、冷静な応援だと思った。自分の娘だったらああは行かないよ。
先生、今日夜勤なんですか?
そうだねー。
大変ですね、日勤もこなして夜勤もこなして……。
人数が少ないからねぇ。
何人で回してるんですか?
常勤の産婦人科医と、近くの病院と大学病院からも、手伝いに来てるよ。
おすその切開って、ホントに痛くないんですね。
ちゃんと陣痛の痛みにタイミングを合わせてるからね。
ワザ、ですね。
まぁねー。経験かな。

さっきまでの七転八倒した痛みが嘘のように、のん気な会話ができている。
そんな自分の身体が不思議に思えた。
処置が終わると、清拭された赤ちゃんと穂和、お義父さんお義母さんが部屋に戻ってきた。
「初乳をあげましょうね~」
と助産師さんが言って、赤ちゃんが私の横に寝かせられた。
おっぱいを口元に持っていくが、簡単には吸い付いてくれない。
「また後で様子を見に来ますね」
言い残して、助産師さんが部屋を出て行った。

「お疲れさん、私たちはそろそろ帰るね」
そう言ったお義母さんの手の甲には、私の爪が付けた深い跡がくっきりと残っていた。
「ありがとうございました」
万感の思いを込めてお礼を言い、顔だけで見送る。

「俺も明日は仕事に行かなくちゃいけないから、そろそろ帰るわ」
そう言う穂和の手の甲にも、しっかりと爪跡が残っている。
「寝不足だもんね、本当にありがとうね。居眠り運転だけは気をつけて帰ってね」
長い長い時間を一緒に戦ってくれた穂和にも、感謝を込めて見送った。

エイプリルフールの終わる、2時間と45分前。
念願の早生まれに、滑り込みで間に合った我が家の新しい家族、小さな命。
おしるしと前駆陣痛から始まった出産騒動の、41時間とちょっとの幕が下りた。


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その4 まだ続くLDR生活」へ
その6 援護射撃」へ
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ドキュメント0401~その4

2009年04月12日 | 極私的記録
「その4 まだ続くLDR生活」

早朝の隣部屋で出産があった後、ウトウトとしていたら朝食が運ばれてきた。
朝食が出るとは思っておらず(考えてみたら出て当たり前なのだが)、喜び勇んで箸をつける。
が、胃の働きがお腹に刺激を与えるのか、一口食べては陣痛と戦い、小康状態になったのを見計らってまた一口食べては陣痛と戦い、を繰り返して、さして多くない朝食を半分食べたところで箸を置いた。
残すのは申し訳ないので、続きは穂和にお願いする。

食べ終わった後はまた、相変わらず近くも強くもならない陣痛の波に揺られ続ける。
一時間に一度くらいのペースで、助産師さんが様子を見に来てくれる。

「チョコレートみたいな、一口で血糖値が上げられるものがあると、体力維持に良いよ」
「眠ってても陣痛は進むからね」
「元気があれば少し歩いてきても良いかもよ」
「おっぱいマッサージも陣痛促進になるよ」

色々なアドバイスをくれ、都度内診をしていく。

「子宮口は5センチくらいかなぁ。産道はかなり柔らかいから、一度始まればうにょーんって伸びてスムーズに行きそうなんだけど。イマイチ、頭が降りてきてないんだよね」

そうこうしているうちに、昼食が運ばれてくる。
これも例によって半分が限度で、残りは穂和に食べてもらう。

この頃になると、陣痛は強烈な生理痛のような感じで、黙ってやり過ごすのが辛くなっていた。
前々夜からずっと寝不足気味の私は、陣痛が来ると目を覚ましてうなり、収まるとそのまま眠りに落ちるのを繰り返すようになっていた。
赤ちゃんの背中を私の腹側にした方が出やすくなるということで、四つんばいの姿勢を取ってみたが、その時にもひざを立てたまま眠りに落ちている。
15時、16時、17時と、ずっと同じことを続けていたために、時間の感覚がなくなっていく。
いつの間にかお義母さんが病室にやってきて、穂和と一緒に私の手を握ってくれたり、腰をさすったりしてくれていた。

この時点でもまだ、子宮口は5センチから変わらず、痛みはお腹の前面を覆うような感じだった。
「腰やお尻に痛みが来て、出したい感じがしたら呼んでね」
内診を終えるたびに助産師さんはそう言って立ち去るのだが、腰やお尻には全く何も起こらない。
ただひたすら痛いだけ。
たかだか生理痛ふうの痛みに「痛い」と言うのも癪だし、しゃべるのも億劫なのでうなり声だけで我慢する。

「そうだ、この部屋アロマポットあるのよ~」
一日中ずっと担当してくれた助産師さんが、部屋の隅に置かれたアロマポットのスイッチを入れる。
用意してあった精油はイランイラン、子宮収縮効果=陣痛促進の期待できる精油だ(そのため、妊娠初期・中期には禁忌精油でもある)。
イランイランのエキゾチックで濃厚な香りに包まれながら、またウーウーとうなる。

19時過ぎ。
イランイラン効果があったのか、ようやく何だか便意のような、尾てい骨が押し下げられるような痛みを感じる。
「出したい感じ」ってこの感覚だろうか。
半信半疑ながら、もうそろそろ次の段階に進みたかった私は、ナースコールで助産師さんを呼んでもらう。
さっそく内診、
「子宮口、あと1センチくらい開くと良いんだけど」
……もっと痛くならなきゃいけないの? もうそろそろご馳走様なんですけど。

20時過ぎ。
いよいよ痛みは強くなって、生理痛だか尾てい骨の圧迫だかどこの痛みなんだか、自分の中でひっちゃかめっちゃかになってよくわからない状態。
再び助産師さんがやってきて内診をし、ようやく
「じゃあ、分娩の準備をしましょうか」となる。
ここがLDRでなければ、この段階で分娩室へ移動となるようだ。
が、もうすでに足腰には力が入らないし、とても自力で歩行できる状態ではない。
(今朝方スピード出産だった妊婦さんは、この状態で病院に来たと思うと……びっくりだ)。
LDRのある病院で本当に良かった。
「あと2時間くらいで、出産できそうですね」
と助産師さん。
これからさらに2時間ですか? もういいってば。
そう思う私の横でお義母さんが、
「きっと2時間もしないで出てくると思うよ」
と声をかけてくれる。
ぜひそうあって欲しいわ、と思うが言葉にはならない。


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ドキュメント0401~その3

2009年04月11日 | 極私的記録
「その3 LDRの長い一日の始まり」

病院に到着した私は、さっそく処置室へ入り内診を受ける。
「子宮口は4センチ開いてますね。産道も柔らかくなっているし、このまま入院してください」
とのこと。
いよいよ始まる。

渡された病衣を着ると、とたんに患者の気分になる。
でも相変わらず痛くない間は、自分が何故病人のような格好をしているのかがわからないくらいの気楽さだった。
3部屋あるLDRはどれも空室で、そのうち洋室仕様で私が密かに狙っていた「さくら」の部屋に自分の名札がかかっている。
心の中で「ヤッタ」とにんまりしながら、荷物を運び入れる。

さくらのLDRには、入ってすぐに二人がけのソファー、産婦専用のトイレ、そしてベッド、脇にはカバーのかかった分娩台が置かれていた。
私はさっそくベッドに横になり、先に言われていた通りB群溶連菌の母子感染を予防するための点滴をされる。
と同時にNSTを使っての胎児の心拍モニタリングや、血圧脈拍チェックなどの処置をされる間も、陣痛は遠くも短くも強くも弱くもならず、同じ強さで同じ間隔で繰り返しやってきていた。

一通りの処置が終わって、ただベッドの上で陣痛が強くなるのを待っていた午前4時過ぎ。
静かだった病棟が、不意に騒がしくなった。
と思ったらいきなり間近で、
「ハイ、深呼吸! はぁ、はぁ、はぁ、よ! まだいきまないで!」
「深呼吸しないと、赤ちゃんに酸素がいかないわよ!」
という臨場感あふれる声が響いてきた。
それに合わせて苦しそうな妊婦さんの声。
さっきまで誰もいなかったはずの隣のLDRから聞こえてくる。
妊婦さんの叫び声を聞いていると、こちらまでお腹が痛くなってくる。
と同時に、こんなに外まで声が漏れるんだ、とちょっと不安にもなる。
後で知ったのだが、そのLDRに運ばれてきた妊婦さんは、病院に着いた時点で子宮口が全開、車椅子で病棟まで連れてこられたらしい。
そんなわけで準備も慌しく、本来なら閉まっているはずのLDRのドアが開いたままになっていて、隣の部屋の私たちのところまで声が響いてきたようだ。
廊下にあるトイレに行きたい穂和も、隣のドアの前を通り過ぎることを躊躇して部屋から出られない。

「もう少しで頭が出るからね!」
「ハイ、いきんで!」
そして突然、フギャーッという、元気な赤ちゃんの声。
音だけ聞いていた私まで、思わず涙ぐみそうになる。
午前4時45分。
運ばれてきて一時間も経たないうちに、隣部屋の出産は終わった。
赤ちゃんが運び出された後、ようやくLDRのドアは閉じられたらしく、病院内には急に静けさが戻った。

あんな風にしてことは進むんだ……。

ちょっぴり不安なような、もうどうせならさっさと来て欲しいような、複雑な気分だった。


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その2 いざ入院へ」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その6 援護射撃」へ
その後 入院生活編」へ

ドキュメント0401~その2

2009年04月10日 | 極私的記録
「その2 いざ入院へ」

明けて、3月31日早朝。

3月に入ってからというもの、トイレが近くなって、夜中に2度ほど起きることも珍しくはなかった。
その日の朝、4時に目が覚めていつもの通りにトイレに入る。
用を足してふっと気付くと、鮮血が目に入った。

もしかしなくても、これはあのウワサの「おしるし」?
ついに、ついに来たんだ、その時が!
横で寝ている穂和を起こしてはいけない、と思いながらそっとベッドに潜り込もうとしたのだが、穂和はまんまと目を覚ましてしまった。
「どうした?」寝ぼけ眼で尋ねる穂和。
おしるしが来た、と言えばきっと完全に目を覚まさせてしまう。
お腹の痛みはまだほとんど感じられないから、もう少し時間がかかるだろう。
だからあまり余計な心配はさせたくない。
とは思いつつ、つい嬉しくて本当のことを言ってしまった。

「おしるし、来た、かも」
私の言葉に、案の定穂和は飛び起きた。
「ヤバいじゃん」
「でもまだ、おしるしだけだから。ここからまだまだ本物の陣痛が来るまでには時間がかかるって言うから」
「で、今は? お腹の痛みは全くないの?」
そう聞かれてふと自分の身体に耳を澄ませてみると、わずかだがこれまでとは違う痛みを感じる。
「ちょっと痛い。生理痛の始まりみたいな、弱い痛み」
「間隔は?」
「きゅーって痛くなって、しばらくしてまたきゅーって……」
「ちょっと時間を計ってみな」

言われて、痛みの来る間隔を計ってみる。
15分、そしてまた15分後、きれいなまでにその繰り返しで、時計は朝5時を指していた。
「15分間隔だわ」
こんな軽い痛みでは、とても病院に言って良いレベルではない気がする。
とりあえず電話だけでもしてみれば、という穂和に、通常の外来診療が始まる時間まで様子を見て電話すると約束をし、シャワーに入る。

その間に穂和は会社の夜勤担当に電話を入れ、休みを取ってくれた。
これでいつ何が起こっても大丈夫、と思う反面、せっかく休みを取ってくれても本当に今日中に病院に行くことになるのか、疑問でもあった。

おしるしが来てから本陣痛が来るまで、一週間かかったという話も聞いたことがある。
休んでもらうには時期尚早だったのではないか。
もしこのまま何も起こらなくて、本当に必要なときに休んでもらえなくなったらどうしよう。
でもじゃあ、今更になって「やっぱり仕事に言ってきて」と言い出す勇気もない。

そうこうしているうちに外来診療の始まる時間になった。
さっそく病院の産科に電話をかける。
その頃には陣痛の間隔は遠のいてしまい、20分に一度程度にまでなっていた。
しかも、痛みも強くなって来てはいない。
電話に出た看護士さんの言葉は、
「前駆陣痛かもしれませんね。痛みが規則正しく5分おきになったら、またお電話ください」
予想通り。
ただひたすら待つだけの時間が始まった。

「おしるしから本陣痛まで」
「前駆陣痛から本陣痛まで」
思いつくキーワードを入力してネット検索をかけまくる。
平均でどのくらいの時間がかかるのか。
今日この先に進める可能性はあるのか。
またしても「自然に進むさ」と開き直ることができないまま、検索結果に表示された経験者のブログを片っ端から読み漁り、半数近くの人が「おしるしから本陣痛まで24時間以内だった」と書いていることを信じてやり過ごした。

陽は高くなり、傾き、そして裏山に沈んだ。
カーテンを閉め、家の電気を点ける時刻になっても、一向に事態は変化をしない。
「体力温存のために、少し寝れば?」
と言われたが、横になっても眠ることはできないまま。
気がつけばいつも穂和が会社から帰ってくる時刻になっている。

休んでもらわなくても、大丈夫だった……。
また申し訳なさが襲ってくる。
もしかしたら本当にこのまま、何日も本陣痛に至らないかもしれない。
そう思った私は穂和に、
「もしも今夜一晩様子を見て、全く変化しないようだったら、明日はちゃんと仕事に行ってくれていいよ」
と言った。

夕食のことなど何も考えていなかったので、ありものを使った鍋にすることにした。
味噌キムチ鍋。
締めのうどんを放り込んで煮上がるのを待っているとき。
これまでより強い、生理痛のような痛みがきゅーっと襲ってきた。
テレビを見ながら無言で痛みをやり過ごす。

20時15分、30分、45分。
それは規則正しくやってきた。
私の異変に気付いた穂和が、「もしかして、来てる?」と尋ねてくる。
無言のまま頷く私。
痛みの合間にとりあえず台所を片付け、ソファーに腰をかけて気分を紛らすためにテレビを見る。
そして痛みが来るたびに時計を確認し、秒数を計る。
規則正しく15分置きに40秒間くらい。
23時を過ぎた頃からは間隔が10分、長さは60秒くらいにまでなった。
痛みの強さは生理2日目の、重い日くらい。
痛くて薬を飲みたくなる、というレベル。
生理痛と違うのは、痛みが60秒で治まってしまえば後は全く何事もなかったかのように楽になること。

休めるうちに休んでおこう、とベッドに入ったのが0時半前後。
でも眠れるわけもなく、結局は痛みが来るたびに時刻と長さをメモし、消えると短編を読むの繰り返し。
(そしてなぜかそのメモを利き手とは反対の、左手で書き続けていた。無意識の行動で、自分でも理由がよくわからない)。
やがて10分の間隔が5分になり、痛みはさほど強くならないままだったが病院に電話を入れる。
「とりあえず、来てもらえますか?」
入院の準備をして、とは言われなかったけれど、もちろん入院グッズを持っていざ出陣。

車で30分弱の道のりを走り、病院に着いたのは3時前。
まだ除雪された雪の山が歩道に残る、風の寒い夜だった。


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ドキュメント0401~その1

2009年04月09日 | 極私的記録
「その1 出産へのプロローグ」

私の妊娠がわかったのが、昨年の8月。
その後、つわりも早産などのトラブルも一切なく、体調もすこぶる良好のまま臨月を迎えていた。

予定日は、3月26日。

自分が3月生まれのうお座なので、せっかくなら子供も同じうお座になってくれればなぁと、臨月に入ってからは毎日、今日か今日かとその予兆を待ちわびていた。
3月に入ってからは明らかにお腹の位置が下がってきて、検診でも
「赤ちゃんもずいぶん下がってきてますね、子宮口も柔らかいし、これは早いかも」
と言われていた。
お腹が下がって、赤ちゃんの頭は骨盤に入っていて、胃もスッキリしたし、(膀胱が圧迫されるから)トイレも近い。
にもかかわらず、腰痛もお腹の張りも感じられないまま、気がつけばうお座(~3月20日)も終わり、予定日が過ぎた。

一体いつになったら出てくるの?
本当に私のお腹の中に赤ちゃんはいるの?
……生まれてこなかったらどうしよう。

エコーを使って中の姿も見ているし、ちゃんと検診を受けて順調に進んできたのだから、「赤ちゃんがいない」などということは有り得ない。
頭ではそうわかっていても、あまりにも何の変調もない自分の身体に、日を追うごとに不安と焦りが募った。

「もう生まれた?」
予定日を知っている親戚や友人から来るメール。
楽しみにしてくれる気持ちは嬉しいが、プレッシャーとしてのしかかっても来る。

病院の方針で、予定日から10日間経過するまでは様子を見て、それでも兆候が無ければ11日目に入院、陣痛を促進するための処置を施すということになっていた。
それに基いて、私の強制入院日は4月6日と決まった。
強制入院となっても、いきなり陣痛促進剤を使うようなことはしない。
そう聞いていても、できれば自然に陣痛が来て産む流れに乗りたい。

お腹、早く痛くなれ、早く痛くなれ。
腹痛を心待ちにしたのは、多分生まれて初めての経験(笑)

その時が来たら、ちゃんと出てくるから。
そう開き直ることもできないまま、何も手につかない時間だけが経過していった。
そして迎えた3月最後の日。

事態はようやくゆっくりゆっくりと動き始めた。


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