ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

山の春

2009年04月26日 | 北海道だべさ!
夜半から、予報通りに雪が降り始めた。
と思ったら午前中に少し雨に変わっただけで、午後からはまた雪に戻った。
そして降り続く、続く。

夕方前に買い物から帰ってきた時には、土や屋根だけに積もっていた雪は、気が付けば舗装道路にも降り積もり、すでに5cm以上になっている。

わかってるんです、山を下れば道路にまでは積もっていないことくらい。
買い物に行った時、町はただの雨模様でした。
今夜雪に変わったとして、ここまで積もることはないでしょう。

でも山を下るまでは雪景色であることには変わりがないので、明日の朝は穂和には冬タイヤ・冬ワイパーのままにしてあったてーびぃー号で出社していただきます。
しぇんた号はすでに夏装備…まさか4月下旬にこんなに積もるとは思わなかったんだもん。

恐るべし、山の春。

肩の巣

2009年04月25日 | オカメインコ
我が家のオカメインコたちにとって「小さな怪獣」「得体の知れない生物」=娘、がやってきて3週間。
オカメたちには本当に申し訳ないと思いながらも、前のようには自由に放鳥してあげられないし、かまってあげる時間も減ってしまった。
最初の数日は、ケージから見える位置で泣き叫ぶ小さな怪獣にビビり、私の姿が目の前にあるのに出してもらえない理不尽に騒ぎ続けていたオカメーズ。
やがて騒ぐのにも飽きたのか、暇つぶし(?)に春の発情が始まって、2羽揃ってウキョウキョと鳴き声を上げ始めた。

そしてえいみが寝室に上がった隙を見計らって出してやると、チョコはまっすぐに本棚の「スピーカーの巣」へと直行した。
考えてみたら3月初旬にもこもっていたばかりなのに。
1ヶ月強しか間が開いていないのは、あまりにも身体への負担が大きい気がする。
とは思っても、産んでしまってからではどうしようもない。

もう一方のアトラ。
こちらは出してやればとにかく近寄ってきて、撫でて、と頭を下げる。
ウチへ来てからはずっと「かまってチャン」の女王様だったのにね、ごめんね、と謝りつつ撫でてあげる。
そして昨日の夜、仕事から帰り夕食も終わってリビングのソファーの上でウトウトとしていた穂和のところへも、撫でてと頭を下げに行ったアトラ。
私がえいみの世話をしてリビングに戻ると、穂和が重いまぶたを無理やり持ち上げて、肩に止まったアトラの相手をしていた。
「今までなら俺にはちょこっと撫でさせて、すぐどこかへ行っちゃってたのにな。
今日はずいぶん長いこと大人しく撫でられてるし、何だか聞きなれないプシュプシュって音を立ててるんだ。
でも俺からはどんな格好をしてるのかが全く見えないんだよね」
私が近付くと、アトラは今にも墜落しそうな弱々しい飛び方で穂和のヒザに飛び移った。
と、穂和の肩の上にごく薄いピンク色の丸い物体が。

……卵。

今まで片手で余るくらいしか産んだことのないアトラが、よりによって穂和の肩の上で卵を産んでしまった。
穂和も私も一瞬あっけに取られた。
卵を持ち上げようとすると、まだ殻が柔らかくて壊れてしまいそう。
アトラの両肩(翼)と尾羽は力なく落ち、体もげっそりと細くなっている。
まさに出産直後、だったのだろう。
ケージに戻してやろうにも、しばらくは穂和の側にいたそうだったので、無理には引きはがさずに様子をみていた。

30分もしないうちに、アトラはすっかりいつもの姿に戻って夢中でエサをついばんでいた。
肩からテーブルに移した生み立ての卵には目もくれずに。
つい3週間前に出産を経験したばかりの私としては、その復活力のすごさに驚くしかない。
力の弱い、鳥という生物にとっては、いかに早く通常の状態に戻れるかが生死の鍵を握りかねないということなのだろう。
それにしても巣作りもせず、産んだ卵に見向きもしないアトラ。
いつも丹念な巣作りから始めて、産めば取り上げるまで卵を温め続けるチョコとは対照的で面白い。
さて、今回のチョコの卵は、いつまで抱かせておくことにしようかな?
(チョコの卵はいつ見ても鶏卵と同じように白い。
アトラの卵がほんのりピンク色に見えたのは、生み立てだからかと思っていたのだけど、2日経った現在でもまだ色付いて見えるのは、殻が薄いからなのか?)

すでに8年も前

2009年04月24日 | 日常雑記
1日に何度もやってくる娘の「おっぱいタイム」。
ムダにテレビをつけているのもどうかと思って、テレビの代わりにCDを流すことにしてみた。
メインは私の好きなサラ・ブライトマンのアルバムだが、1回の授乳で1枚聞き終わってしまうくらいの時間がかかるので、他のアーティストでも良いアルバムはないかなと自分のCDコレクションを漁っていたら、『ZERO LANDMINE』を見つけた。

2001年4月に坂本龍一氏の呼びかけで結成された「N.M.L.」(No More Landmine)がリリースしたアルバム。
TBSの地雷根絶キャンペーンの一環として、ニュース番組の中で放映された。
この当時、そんな企画があるとも知らず、偶然にチャンネルを合わせた私。
番組ではまさに演奏が始まろうとしているところだった。

坂本氏のピアノに始まり、生中継で結ばれた世界中のアーティストと繋がって20分近い壮大な曲が奏でられる。
アーティストの映像の合間には、地雷の被害にいまだ苦しめられている地域の映像やメッセージが映し出された。
前半は様々な国の民俗音楽や言語が取り入れられ、後半は国内外の有名アーティストたちが歌う、シンプルだけれど強いメッセージが込められた英語の合唱が響く。
(どんなアーティストが出演しているかは、こちらのwikiの記事をご覧下さい)。

そのスケールの大きさに圧倒され、さらにアルバムを買えばその収益金が全額地雷撤去に使われる、という趣旨に賛同して、さっそくCD屋さんへ足を運んだのだった。

その後このアルバムは、何か集中して作業をしたい時などにBGMとしてエンドレスに流すことが多かったが、最近ではあまり聞いていなかった。
久しぶりに聞いたら、あのニュースの時の映像がどうしても見たくなった。
で、ダメ元でYouTubeで検索をかけたらあっさりと見つかった。
しかもクリックひとつでGooブログに引っ張れるではないですか。

ZERO LANDMINE{ryuichisakamoto}


画像はかなり荒いけれど、文句は言えまい。
(あぁ、でも今だったらタイムシフト機能でさかのぼって、デジタル高画質録画だってできただろうに、惜しいなぁ)。
また繰り返し見たいから、どうか削除されませんように。

それにしてもこのアルバムが発売されてからすでに丸8年。
地雷は、世界は、良い方向に変わったのだろうか。
「子供たちの未来」という言葉が娘と重なってより身近になった今、改めて考えてしまう。


蜜月の終わり

2009年04月20日 | 日常雑記
生まれて初めての(楽しみにしていた)5日間の入院生活は、寝不足とおっぱいに追われてあっけなく終わった。
それでも無事に退院をしてから早2週間。

この2週間は、えいみとのハネムーンだったと言っていい。
実家の母が手伝いに来てくれたので、食事や洗濯掃除などの家事一切を任せっきりにして、私はえいみの世話だけをしていれば良かった。
最初の頃こそ入院時の寝不足の名残と夜中の授乳で、昼間でもウトウトとしているような生活だったが、ここ数日は夜中の授乳間隔が4~5時間になってくれたお陰で、授乳している時間を差し引いても3~4時間×2回で合計6~7時間の睡眠は取れるようになったのでだいぶラクになった。
(でももし「今一番したいことは?」と聞かれたら、間違いなく「何にも邪魔されずにまとめて8時間以上ぐっすり眠ってみたい」と答えるかな)。

そして昨日、ついに母が帰宅した。
えいみだけを見ていれば良いハネムーンが、終わりを告げた。
出産のために仕事をしなくなってからのロングバケーションが、本当に終わったという感じ。

それでも、家の外に働きに出なければいけないわけではない分だけ、私は恵まれている。
とりあえずは家事と育児だけをしていれば良いのだから。
家事は、どうしてもダメなら後回しにもできるのだから。
確かに家事育児の他にも仕事としてやらなくてはならないことはあるけれど、今はまだスローペースでも多少は許される。
それに甘えていたらいずれ困るのは自分なんだけどね。

ま、でも、とりあえず今は、今しか味わえない貴重な時間をもらったと思って、のんびりポレポレ行くとしましょうか。

(「ポレポレ」はスワヒリ語で「ゆっくりゆっくり」の意味とのこと。
むかし実家にあった「アフリカポレポレ」という本のタイトルとして知り、語感の良さからずっと覚えていたのだが、その著者が私たち夫婦の尊敬する動物写真家、岩合光昭氏の奥様だったということはつい最近まで知らなかった)。

ドキュメント0401~その後

2009年04月15日 | 極私的記録
「その後 入院生活編」

私の出産した勤医協札幌病院は、「母と子にやさしい病院」としても認定され、母乳育児を推進している総合病院だ。
自分がミルク育ちであり、まぁ可能なら母乳で育てたいな、くらいの感覚だった私。
完全母乳で、という固い決心やこだわりがあったわけではなかった。

「出産をすれば、誰でも母乳は出ますから」。
私はその言葉を漠然と捕らえて、何とかなるだろうとのん気に構えていた。
確かに母乳は出た。
が、問題はその量だった。
その上、陥没乳頭で赤ちゃんが乳首をうまくくわえられない。

ベテラン助産師さんによる、徹底したおっぱいマッサージとスパルタ授乳教育が始まった。

暖かい授乳室で、これでもかというくらいに力を込めて、懇切丁寧におっぱいをマッサージされ、赤ちゃんとおっぱいの支え方を指導される。
赤ちゃんも私も汗だく。
そのうちちゃんと出るようになるはずなのに、どうしてこんなにスパルタをするのだろう。
そんな気分にもなってしまった。
だけどそれは大きな間違いだったことに、2日目の夜になって初めて気が付くことになる。

充分なおっぱいを与えられない赤ちゃんは、常に空腹の状態となった。
夜中でも10分と大人しく眠ってくれない。

地方とはいえ、先進国の都市部にいるのに、こんな嬰児に必要なたった数十ccの母乳さえ与えてあげることができずにひもじさに泣かせてしまうなんて。
泣き続ける赤ちゃんがかわいそうで、自分が情けなくて、涙が出そうになった。
出ないおっぱいを必死にくわえる赤ちゃん。
乳首の皮は擦れて、吸われるたびに腰が引けるような痛みを感じる。
それでも足りなくて泣くのでナースステーションに行って訴え、応急処置としてブドウ糖水(だったと思う)を出してもらう。

赤ちゃんの熱は36度5分~37度5分くらいが適正だから。
38度を超えたら、脱水している可能性があるの。

助産師さんから教えてもらったそんな言葉が頭をよぎる。
翌朝の検温では、むしろ38度を超えていてくれることを願った。
脱水症状が出ていれば、補助的役割としてミルクが出してもらえる。
果たして、熱は38度ちょうど。
回診に来てくれた小児科医の先生に訴え、昨夜ブドウ糖水を出してくれた助産師さんのフォローもあって、
「お母さんさえ構わないなら、ミルクを追加しましょうか」
と言ってもらうことができた。
完全母乳でなくても構わない。
私のおっぱいが役割を果たせないなら、文明の力を借りたい。
とにかく赤ちゃんの飢えをなくしてあげたい。
満腹で、安心して眠らせてあげたい。
「お願いします、ミルク、あげさせて下さい」。

こうしてようやく満腹することのできた我が子。
けれどもここでおっぱいを放り出してしまったら、出るものも出なくなってしまう。
搾乳機を使っておっぱいマッサージをし、少しでも出るようにと努力を続けなければ昨日までの特訓がムダになってしまう。
それに何と言っても、一滴でも多くの母乳を飲ませたい。

たっぷりのマッサージをし力いっぱい搾り出しても、左右合わせてわずか3ccしか出ない母乳。
それでもとりあえず満腹にしてあげられたことで気持ちに余裕が出て、入院している間に頑張ろう、とおっぱいに向き合おうと思えた。

スパルタ授乳教育とマッサージ、夜中でもイヤな顔ひとつせずにアドバイスをくれた助産師さんたちのお陰で、4日目には時間になると自然に母乳が垂れ落ちてくるようにまでなった。
それでも日々飲む量の増える赤ちゃんの必要量には満たなかったが、母乳とミルクと半々くらいであげられるくらいにはなった。

出産から5日後、退院の時には、飲みにくいおっぱいをフォローするためのシールドを付け、直接母乳を上げた後でも、搾乳機で30ccは搾れるようにはなった。
帰宅から数日、一度に100ccを飲むようになった赤ちゃんに、半分は母乳であげられるくらいには出るようになっている。

……それにしても、与えれば与えた分だけ飲もうとする我が子えいみ。
この大食いっぷりは、誰に似たのやら、ねぇ?

病院選びの基準は「土曜日に診察がある」「皮膚科、小児科が併設されている」ことだけだった私たち。
LDRや、入院中のお食事やその他のサービスなどは特に重視していなかった。
「生まれた後にこそお金がかかるから、出産は安心できる設備ならそれ以上の贅沢は言わない」
そんなつもりだった。

出会った勤医協札幌病院は古くからある総合病院。
それでも産科には、追加料金ナシのLDRの他にも、ステキなサービスがあった。
ひとつが、「お祝い膳」。



入院中のとある1日の昼食に、通常の病院食とは違う特別なお膳が出る。
洋食と和食が選べ、食卓にはお花を飾ってくれて、食後のデザートと紅茶(またはコーヒー)まである。
私が選んだのは洋食。
仕事の後に自炊までして留守番をしてくれているダンナ様には申し訳ないような、オイシイサービス。

もうひとつは、リフレクソロジー。
病院外部から専門のリフレクソロジストさんが来て施術してくれる。
静かな音楽のかかる空間で、アロマパウダーを使ったフットマッサージや、温かいハーブティーのサービス。
赤ちゃんが泣いて寝不足の上、おっぱい特訓でヘトヘトになっていた私には、本当にリラックスできる気持ちのいいひとときだった。
あの時リフレが無く、ひたすらおっぱい特訓と泣き声にさらされていたら、かなり追い詰められた気持ちになってしまったかもしれない。

どんなに忙しい時でも、真夜中でも、誰にどんな小さなことを尋ねてもイヤな顔をせずにわかりやすく教えてくれた助産師さんたち。
たいした研究もせずにたまたま決めた出産場所だったけれど、私たち夫婦はあそこを選んで良かったと思っている。

その1 出産へのプロローグ」へ
その2 いざ入院へ」へ
その3 LDRの長い一日の始まり」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その6 援護射撃」へ

ドキュメント0401~その6

2009年04月14日 | 極私的記録
「その6 援護射撃」

自分たちの間に赤ちゃんが生まれる時、父親となる人には、立会いとまでは言わなくても「生まれた!」の声が届く範囲には居て欲しい。

妊娠する前から、それだけは譲れない気持ちとして持っていた私。
だから、里帰り出産という選択肢は最初から存在しなかった。
そうでなくても私の実家は北海道外にある。
飛行機で帰るような場所。
里帰り出産を選んでしまったら、おいそれとは飛んで来られない距離、穂和と赤ちゃんが対面できるのはいつになるかわからない。

自分の住む札幌で出産をする。
出産する場所には、それ以上のこだわりはなかった。
産院として選んだ勤医協札幌病院も、土曜の診察があって皮膚科(私のアトピーを診察してもらうため)と小児科がある総合病院、という理由で出会っただけだった。
私が診察を受け始めた昨年の夏には、勤医協札幌病院にはLDRはなく、昔ながらの陣痛室と分娩室が別々の形だったらしい。
けれども年明けに改装が行われ、1月末からLDRとなった。

「生まれた」の声の届く範囲に、との願いは、生まれたての子供と対面することで「お父さん」を実感して欲しいという気持ちがあってのことだった。
結果的には、LDRに居てもらうことで助けられたのは私の方だった。

長い長い陣痛の時間。
寝不足のために、ソファーで窮屈そうに仮眠を取る穂和。
起きていてくれてもまともな会話のできない私としては、たとえ夢うつつでもそこに穂和が存在してくれることだけで心強かった。
明るくてきれいな病室に、自分ひとりでぽつんと置き去りにされてただ痛みとひたすら戦うだけだったとしたら、気持ちが続かなかったと思う。

「男なんざ、いざ出産となったら何もできないからさ」
そう言いつつ、陣痛に苦しむ私の腰や背中をさすり、声をかけてくれ、手を握っていてくれた。
手の甲に深い爪の跡を残しても、痛いと文句も言わずに。
いきむ時には一緒に力を込めてくれた。

もう投げ出してしまえたらいいのに、と自棄にも近い気分になりながらも最後まで頑張れたのは、そこに同じ気持ちで戦ってくれた穂和がいたからこそ、だ。
同じように手を握ってくれていたお義母さんにも、もちろん感謝。

「お父さん」をいち早く実感して欲しい、なんて偉そうなことを考えてごめんなさい。
居てくれて、ありがとう。
これからも一緒に、子育てしていこうね。


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その2 いざ入院へ」へ
その3 LDRの長い一日の始まり」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その後 入院生活編」へ

ドキュメント0401~その5

2009年04月13日 | 極私的記録
「その5 ようやく出産へ」

お義母さんの予測通り、そこからは確実に進んだ。
いつ破水させられたのかわからないまま、
「次に陣痛が来たら、いきんでいいわよ~」
と声をかけられる。
そしてその時点で初めて私は気が付いた。

いきむ=お腹に力を入れなくてはならない。
お腹に力を入れる?
こんなに強い腹痛の中、痛い場所に力を入れろって?

「いきむ時は目をつぶらないで! 深呼吸して、頭を起こして、目を開けて力を入れて!」
声は耳に入っているのだけど、思うように力をコントロールできない。
「陣痛が一番強い時を見計らって力を入れて! いきみ終わったときに陣痛が残ってるようなら、タイミングが合ってない証拠だよ~!」
と先生。

波が来る。
いきむ。
自分の声じゃないような、金属質な悲鳴が口から漏れる。
きっと病院の廊下まで響いてるんだろうな、でもそんな体裁を気にしていられる状況じゃない。
とにかく出ろ! と、息が続く限りいきみ続ける。
酸欠になって力を抜く。
「深呼吸してもう1回いきんで!」
そう言われても、もう力が続かない。
寝不足と、食事をまともに摂っていないことによる体力不足。
陣痛はまだ残っているから、今ここでもう一度いきんでしまえば、その分早く終わるし苦しい時間も短くなる。
もうさっさと出してしまいたい。
そう思っても、深呼吸ができず浅い呼吸を繰り返して過呼吸になるばかりで、2回目に行けない。
「ハイ、じゃあ次の陣痛を待とうね~」と先生。

何度同じことを繰り返しただろうか。
「次に陣痛が来たら、おすそを少し切るからね。麻酔するし、陣痛に合わせるから痛くないからね」
と先生。
切られないで済むかと思っていたのに、やっぱりダメか。
でもここまで来たらどうでもいい。
そして次の波が来る。
いきむ。
注射針の感覚、切られている振動、確かに痛くない、というよりもお腹の痛みに気を取られて他の痛みは感じられない。

「吸引の準備しておいて」
先生が助産師さんに指示をする声が耳に入る。
どうやらおすそを切って、頭まで見えかかっているのに、そこからなかなか出てこないらしい。
引きずり出してくれるなら、それでもいい。
とにかく早く出してしまいたい。

「何でもいいからさっさと出してしまいたい、という気分でした」
力いっぱいいきみながら、ネットで見た誰かのブログの一文を思い出す。
まさにそんな気分。
これを最後の1回にしたい。
もういい加減におしまいにしたい。
誰か代わってくれても良いよ、って、結局自分がやるしかないのかー。
陣痛前に戻れるわけじゃなし、どうでもいいからさっさとこの山を越えるしか道はないのね。
もしも次があるなら、絶対に無痛分娩にしてやるっ。
一度経験すれば充分だわっ。

いきむたびに頭の中でそんなことを叫び続ける。

「あ、頭出てきた頭! もう少しだから、頭が出ちゃえば後は楽だから!」
そして大きな痛みの塊がずるっと体外に出る。
「頭、出たわよ!」
これで楽に……ならない。どうして?
「ハイ、もう1回いきんで~」
頭が出たらもう良いんじゃなかったっけ!?
(後から聞いたところによると、へその緒が首に巻き付いていたらしい。
それで無理に引っ張り出せなかったのと、出口に肩が引っかかっていたように見えた、と穂和)。
わけがわからないまま、仕方なくもう一度だけ、と力を振り絞る。
「はーい、出た出た! 生まれたよ!」

2009年4月1日21時15分。
先生の声が響いて、途端にお腹がすっと楽になった。
もういきまなくて良いんだ、陣痛と戦わなくて良いんだ……!
思った瞬間に、全身から力が抜けていく。

フニャァ、という弱々しい泣き声。
ホラお母さん、赤ちゃんだよ、お父さん、写真写真、という先生の声。
聞きなれたシャッター音。
先生が赤子を抱き上げてポーズを取っている。

生み終えたら、感動して泣くかも。

出産前にはそう思っていたのに、安心感と脱力感ばかりで、涙など一滴も出ない。
テレビで見る出産シーンの方がよっぽど泣ける。
そういえば自分の結婚式の時も、感動より安心感の方が大きくて泣けなかったな。
私って、自分の身に起こることには意外に感動できないのかな。
それにしても……ちゃんと居たんだ、お腹の中に、赤ちゃん。

そんなことを考えながら、びしょぬれの娘をぼんやりと眺めていた。

短い撮影会が終わったところで、赤ちゃんは清拭のために連れ出され、
「お母さんの後処置をするので、ご家族の方は一度出て下さい」
と先生から声がかかる。
先生は(穂和に言わせると、そんなに力を入れて大丈夫なのかとハラハラするほどに)強く私のお腹を押し続け、胎盤を取り出した。
穂和とお義母さんが出て行き、先生が子宮収縮のためのマッサージをしてくれる。
途中で、
「点滴、急いで。早めに落ちるようにして。収縮が悪いっ」
と少し緊迫した雰囲気もあったが、点滴が落ち始めると和やかになった。

一緒にいたお母さんは、義理のお母さんかい?
ハイ、主人のお母さんです。
道理で、冷静な応援だと思った。自分の娘だったらああは行かないよ。
先生、今日夜勤なんですか?
そうだねー。
大変ですね、日勤もこなして夜勤もこなして……。
人数が少ないからねぇ。
何人で回してるんですか?
常勤の産婦人科医と、近くの病院と大学病院からも、手伝いに来てるよ。
おすその切開って、ホントに痛くないんですね。
ちゃんと陣痛の痛みにタイミングを合わせてるからね。
ワザ、ですね。
まぁねー。経験かな。

さっきまでの七転八倒した痛みが嘘のように、のん気な会話ができている。
そんな自分の身体が不思議に思えた。
処置が終わると、清拭された赤ちゃんと穂和、お義父さんお義母さんが部屋に戻ってきた。
「初乳をあげましょうね~」
と助産師さんが言って、赤ちゃんが私の横に寝かせられた。
おっぱいを口元に持っていくが、簡単には吸い付いてくれない。
「また後で様子を見に来ますね」
言い残して、助産師さんが部屋を出て行った。

「お疲れさん、私たちはそろそろ帰るね」
そう言ったお義母さんの手の甲には、私の爪が付けた深い跡がくっきりと残っていた。
「ありがとうございました」
万感の思いを込めてお礼を言い、顔だけで見送る。

「俺も明日は仕事に行かなくちゃいけないから、そろそろ帰るわ」
そう言う穂和の手の甲にも、しっかりと爪跡が残っている。
「寝不足だもんね、本当にありがとうね。居眠り運転だけは気をつけて帰ってね」
長い長い時間を一緒に戦ってくれた穂和にも、感謝を込めて見送った。

エイプリルフールの終わる、2時間と45分前。
念願の早生まれに、滑り込みで間に合った我が家の新しい家族、小さな命。
おしるしと前駆陣痛から始まった出産騒動の、41時間とちょっとの幕が下りた。


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その6 援護射撃」へ
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ドキュメント0401~その4

2009年04月12日 | 極私的記録
「その4 まだ続くLDR生活」

早朝の隣部屋で出産があった後、ウトウトとしていたら朝食が運ばれてきた。
朝食が出るとは思っておらず(考えてみたら出て当たり前なのだが)、喜び勇んで箸をつける。
が、胃の働きがお腹に刺激を与えるのか、一口食べては陣痛と戦い、小康状態になったのを見計らってまた一口食べては陣痛と戦い、を繰り返して、さして多くない朝食を半分食べたところで箸を置いた。
残すのは申し訳ないので、続きは穂和にお願いする。

食べ終わった後はまた、相変わらず近くも強くもならない陣痛の波に揺られ続ける。
一時間に一度くらいのペースで、助産師さんが様子を見に来てくれる。

「チョコレートみたいな、一口で血糖値が上げられるものがあると、体力維持に良いよ」
「眠ってても陣痛は進むからね」
「元気があれば少し歩いてきても良いかもよ」
「おっぱいマッサージも陣痛促進になるよ」

色々なアドバイスをくれ、都度内診をしていく。

「子宮口は5センチくらいかなぁ。産道はかなり柔らかいから、一度始まればうにょーんって伸びてスムーズに行きそうなんだけど。イマイチ、頭が降りてきてないんだよね」

そうこうしているうちに、昼食が運ばれてくる。
これも例によって半分が限度で、残りは穂和に食べてもらう。

この頃になると、陣痛は強烈な生理痛のような感じで、黙ってやり過ごすのが辛くなっていた。
前々夜からずっと寝不足気味の私は、陣痛が来ると目を覚ましてうなり、収まるとそのまま眠りに落ちるのを繰り返すようになっていた。
赤ちゃんの背中を私の腹側にした方が出やすくなるということで、四つんばいの姿勢を取ってみたが、その時にもひざを立てたまま眠りに落ちている。
15時、16時、17時と、ずっと同じことを続けていたために、時間の感覚がなくなっていく。
いつの間にかお義母さんが病室にやってきて、穂和と一緒に私の手を握ってくれたり、腰をさすったりしてくれていた。

この時点でもまだ、子宮口は5センチから変わらず、痛みはお腹の前面を覆うような感じだった。
「腰やお尻に痛みが来て、出したい感じがしたら呼んでね」
内診を終えるたびに助産師さんはそう言って立ち去るのだが、腰やお尻には全く何も起こらない。
ただひたすら痛いだけ。
たかだか生理痛ふうの痛みに「痛い」と言うのも癪だし、しゃべるのも億劫なのでうなり声だけで我慢する。

「そうだ、この部屋アロマポットあるのよ~」
一日中ずっと担当してくれた助産師さんが、部屋の隅に置かれたアロマポットのスイッチを入れる。
用意してあった精油はイランイラン、子宮収縮効果=陣痛促進の期待できる精油だ(そのため、妊娠初期・中期には禁忌精油でもある)。
イランイランのエキゾチックで濃厚な香りに包まれながら、またウーウーとうなる。

19時過ぎ。
イランイラン効果があったのか、ようやく何だか便意のような、尾てい骨が押し下げられるような痛みを感じる。
「出したい感じ」ってこの感覚だろうか。
半信半疑ながら、もうそろそろ次の段階に進みたかった私は、ナースコールで助産師さんを呼んでもらう。
さっそく内診、
「子宮口、あと1センチくらい開くと良いんだけど」
……もっと痛くならなきゃいけないの? もうそろそろご馳走様なんですけど。

20時過ぎ。
いよいよ痛みは強くなって、生理痛だか尾てい骨の圧迫だかどこの痛みなんだか、自分の中でひっちゃかめっちゃかになってよくわからない状態。
再び助産師さんがやってきて内診をし、ようやく
「じゃあ、分娩の準備をしましょうか」となる。
ここがLDRでなければ、この段階で分娩室へ移動となるようだ。
が、もうすでに足腰には力が入らないし、とても自力で歩行できる状態ではない。
(今朝方スピード出産だった妊婦さんは、この状態で病院に来たと思うと……びっくりだ)。
LDRのある病院で本当に良かった。
「あと2時間くらいで、出産できそうですね」
と助産師さん。
これからさらに2時間ですか? もういいってば。
そう思う私の横でお義母さんが、
「きっと2時間もしないで出てくると思うよ」
と声をかけてくれる。
ぜひそうあって欲しいわ、と思うが言葉にはならない。


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ドキュメント0401~その3

2009年04月11日 | 極私的記録
「その3 LDRの長い一日の始まり」

病院に到着した私は、さっそく処置室へ入り内診を受ける。
「子宮口は4センチ開いてますね。産道も柔らかくなっているし、このまま入院してください」
とのこと。
いよいよ始まる。

渡された病衣を着ると、とたんに患者の気分になる。
でも相変わらず痛くない間は、自分が何故病人のような格好をしているのかがわからないくらいの気楽さだった。
3部屋あるLDRはどれも空室で、そのうち洋室仕様で私が密かに狙っていた「さくら」の部屋に自分の名札がかかっている。
心の中で「ヤッタ」とにんまりしながら、荷物を運び入れる。

さくらのLDRには、入ってすぐに二人がけのソファー、産婦専用のトイレ、そしてベッド、脇にはカバーのかかった分娩台が置かれていた。
私はさっそくベッドに横になり、先に言われていた通りB群溶連菌の母子感染を予防するための点滴をされる。
と同時にNSTを使っての胎児の心拍モニタリングや、血圧脈拍チェックなどの処置をされる間も、陣痛は遠くも短くも強くも弱くもならず、同じ強さで同じ間隔で繰り返しやってきていた。

一通りの処置が終わって、ただベッドの上で陣痛が強くなるのを待っていた午前4時過ぎ。
静かだった病棟が、不意に騒がしくなった。
と思ったらいきなり間近で、
「ハイ、深呼吸! はぁ、はぁ、はぁ、よ! まだいきまないで!」
「深呼吸しないと、赤ちゃんに酸素がいかないわよ!」
という臨場感あふれる声が響いてきた。
それに合わせて苦しそうな妊婦さんの声。
さっきまで誰もいなかったはずの隣のLDRから聞こえてくる。
妊婦さんの叫び声を聞いていると、こちらまでお腹が痛くなってくる。
と同時に、こんなに外まで声が漏れるんだ、とちょっと不安にもなる。
後で知ったのだが、そのLDRに運ばれてきた妊婦さんは、病院に着いた時点で子宮口が全開、車椅子で病棟まで連れてこられたらしい。
そんなわけで準備も慌しく、本来なら閉まっているはずのLDRのドアが開いたままになっていて、隣の部屋の私たちのところまで声が響いてきたようだ。
廊下にあるトイレに行きたい穂和も、隣のドアの前を通り過ぎることを躊躇して部屋から出られない。

「もう少しで頭が出るからね!」
「ハイ、いきんで!」
そして突然、フギャーッという、元気な赤ちゃんの声。
音だけ聞いていた私まで、思わず涙ぐみそうになる。
午前4時45分。
運ばれてきて一時間も経たないうちに、隣部屋の出産は終わった。
赤ちゃんが運び出された後、ようやくLDRのドアは閉じられたらしく、病院内には急に静けさが戻った。

あんな風にしてことは進むんだ……。

ちょっぴり不安なような、もうどうせならさっさと来て欲しいような、複雑な気分だった。


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その2 いざ入院へ」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その6 援護射撃」へ
その後 入院生活編」へ

ドキュメント0401~その2

2009年04月10日 | 極私的記録
「その2 いざ入院へ」

明けて、3月31日早朝。

3月に入ってからというもの、トイレが近くなって、夜中に2度ほど起きることも珍しくはなかった。
その日の朝、4時に目が覚めていつもの通りにトイレに入る。
用を足してふっと気付くと、鮮血が目に入った。

もしかしなくても、これはあのウワサの「おしるし」?
ついに、ついに来たんだ、その時が!
横で寝ている穂和を起こしてはいけない、と思いながらそっとベッドに潜り込もうとしたのだが、穂和はまんまと目を覚ましてしまった。
「どうした?」寝ぼけ眼で尋ねる穂和。
おしるしが来た、と言えばきっと完全に目を覚まさせてしまう。
お腹の痛みはまだほとんど感じられないから、もう少し時間がかかるだろう。
だからあまり余計な心配はさせたくない。
とは思いつつ、つい嬉しくて本当のことを言ってしまった。

「おしるし、来た、かも」
私の言葉に、案の定穂和は飛び起きた。
「ヤバいじゃん」
「でもまだ、おしるしだけだから。ここからまだまだ本物の陣痛が来るまでには時間がかかるって言うから」
「で、今は? お腹の痛みは全くないの?」
そう聞かれてふと自分の身体に耳を澄ませてみると、わずかだがこれまでとは違う痛みを感じる。
「ちょっと痛い。生理痛の始まりみたいな、弱い痛み」
「間隔は?」
「きゅーって痛くなって、しばらくしてまたきゅーって……」
「ちょっと時間を計ってみな」

言われて、痛みの来る間隔を計ってみる。
15分、そしてまた15分後、きれいなまでにその繰り返しで、時計は朝5時を指していた。
「15分間隔だわ」
こんな軽い痛みでは、とても病院に言って良いレベルではない気がする。
とりあえず電話だけでもしてみれば、という穂和に、通常の外来診療が始まる時間まで様子を見て電話すると約束をし、シャワーに入る。

その間に穂和は会社の夜勤担当に電話を入れ、休みを取ってくれた。
これでいつ何が起こっても大丈夫、と思う反面、せっかく休みを取ってくれても本当に今日中に病院に行くことになるのか、疑問でもあった。

おしるしが来てから本陣痛が来るまで、一週間かかったという話も聞いたことがある。
休んでもらうには時期尚早だったのではないか。
もしこのまま何も起こらなくて、本当に必要なときに休んでもらえなくなったらどうしよう。
でもじゃあ、今更になって「やっぱり仕事に言ってきて」と言い出す勇気もない。

そうこうしているうちに外来診療の始まる時間になった。
さっそく病院の産科に電話をかける。
その頃には陣痛の間隔は遠のいてしまい、20分に一度程度にまでなっていた。
しかも、痛みも強くなって来てはいない。
電話に出た看護士さんの言葉は、
「前駆陣痛かもしれませんね。痛みが規則正しく5分おきになったら、またお電話ください」
予想通り。
ただひたすら待つだけの時間が始まった。

「おしるしから本陣痛まで」
「前駆陣痛から本陣痛まで」
思いつくキーワードを入力してネット検索をかけまくる。
平均でどのくらいの時間がかかるのか。
今日この先に進める可能性はあるのか。
またしても「自然に進むさ」と開き直ることができないまま、検索結果に表示された経験者のブログを片っ端から読み漁り、半数近くの人が「おしるしから本陣痛まで24時間以内だった」と書いていることを信じてやり過ごした。

陽は高くなり、傾き、そして裏山に沈んだ。
カーテンを閉め、家の電気を点ける時刻になっても、一向に事態は変化をしない。
「体力温存のために、少し寝れば?」
と言われたが、横になっても眠ることはできないまま。
気がつけばいつも穂和が会社から帰ってくる時刻になっている。

休んでもらわなくても、大丈夫だった……。
また申し訳なさが襲ってくる。
もしかしたら本当にこのまま、何日も本陣痛に至らないかもしれない。
そう思った私は穂和に、
「もしも今夜一晩様子を見て、全く変化しないようだったら、明日はちゃんと仕事に行ってくれていいよ」
と言った。

夕食のことなど何も考えていなかったので、ありものを使った鍋にすることにした。
味噌キムチ鍋。
締めのうどんを放り込んで煮上がるのを待っているとき。
これまでより強い、生理痛のような痛みがきゅーっと襲ってきた。
テレビを見ながら無言で痛みをやり過ごす。

20時15分、30分、45分。
それは規則正しくやってきた。
私の異変に気付いた穂和が、「もしかして、来てる?」と尋ねてくる。
無言のまま頷く私。
痛みの合間にとりあえず台所を片付け、ソファーに腰をかけて気分を紛らすためにテレビを見る。
そして痛みが来るたびに時計を確認し、秒数を計る。
規則正しく15分置きに40秒間くらい。
23時を過ぎた頃からは間隔が10分、長さは60秒くらいにまでなった。
痛みの強さは生理2日目の、重い日くらい。
痛くて薬を飲みたくなる、というレベル。
生理痛と違うのは、痛みが60秒で治まってしまえば後は全く何事もなかったかのように楽になること。

休めるうちに休んでおこう、とベッドに入ったのが0時半前後。
でも眠れるわけもなく、結局は痛みが来るたびに時刻と長さをメモし、消えると短編を読むの繰り返し。
(そしてなぜかそのメモを利き手とは反対の、左手で書き続けていた。無意識の行動で、自分でも理由がよくわからない)。
やがて10分の間隔が5分になり、痛みはさほど強くならないままだったが病院に電話を入れる。
「とりあえず、来てもらえますか?」
入院の準備をして、とは言われなかったけれど、もちろん入院グッズを持っていざ出陣。

車で30分弱の道のりを走り、病院に着いたのは3時前。
まだ除雪された雪の山が歩道に残る、風の寒い夜だった。


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