ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

シェルターを探して

2012年07月27日 | テーマ投稿
大津市でのいじめ事件が明るみに出て、その悪質さゆえに注目を集めている。
ネットで次々に暴露される情報には、真偽のほどはわからないものの、人の口に戸は立てられないという言葉をつくづく感じさせられる。

いじめを苦にしての自殺、と聞くと、いつも思い出す発言がある。

もう10年くらいは前になるだろうか。
それを言ったのは、現役の政治家A氏(仮名)である。

A氏の地元で、ある中学生が学校でのいじめを苦にして自殺をした。
その話を聞いたA氏はテレビカメラの前(おそらく囲み取材。いくつもの話題の中のひとつとして、直近に起こったその事件の話が出たものと記憶している)でこう言った。

「そんなのは甘えなんだよ。
そんなに自殺したいならすればいいじゃないか。
どうせそんな弱い奴は生きてたって、この先社会に出たときに辛い目に遭っても対処できないんだから。
僕だっていじめられた経験くらいはあるよ、でも生き抜いてきたんだ。
そんなの誰にでも訪れるハードルのひとつに過ぎないんだ」
そういう内容の発言だった。

私は思わず耳を疑った。

自殺すればいい?
それが、教育分野にも携わる政治家の発言なわけ?

過激な発言で根強い人気を誇るA氏。
派手な行動や過激な言葉は衆目を集めやすい。
でもだからといって、言っていいことと悪いことがある。

A氏としては負けずに頑張れ、という気持ちを込めていたつもりかもしれないが、今本当に追い詰められている子供にとってはそんな言葉は何の役にも立たない。
むしろ、ホラやっぱり自分なんか生きていてもしょうがないんだ、生きていたっていいことなんかないんだ、と思ってしまいかねない。

そもそも中学生と社会人とを同じ次元で語ることからしておかしくないか。

確かに、社会に出てからだっていじめはある。
知恵がついた分、余計に陰湿だったり厄介だったりすることもあるだろう。

だけど、だからこそ。

そんなときにどう立ち向かえばいいのか。
どこへ逃げればいいのか。
どうやったら回避できるのか。
どんな人を頼ればいいのか。

そういうことを学んでいる、発展途上な世代が未成年でしょう。

甘えて何が悪い、泣いて帰ってきたっていいじゃない。
弱気になったり、負けてしまうときがあったっていいじゃんか!
最初っから強い人間なんてそうそういないわ!
折れたり負けたりしながら、でも支えてくれたり教えてくれたりする人がいて、少しずつ強くなって行くんでしょ。

それが「成長」というものであり、大事な過程ではないのか。
自殺すれば、などと突き放すのではなく、受け止めて一緒に考えてくれることが重要じゃあないのか?

それをすっ飛ばして、応援してるんだかバカにしてるんだかわからない口調で「自殺すればいい」とは。
信じられない。

A氏は今でも、現役の政治家をやっている。
逃げる、という言葉はネガティブなイメージが強いが、時にはとても大切なことだと私は思う。

『親には心配をかけたくない、色々聞かれてうるさく言われたくない。
頼れる存在だと思っていた先生は自分の保身ばかり考えて味方になってくれなかった。
高校に入ったらいじめっ子ともおさらばできるから、って、じゃああと1年も2年も、こんな状態で耐えろって?
生きていればいいことがあるなんて言うけど、明日のことさえも考えるだけで吐きそうになるのに、それがその先にもまたその先にも続いていると思ったら…そんなの無理だ。
いいことがあるというなら、今すぐ起こってくれ!』

そう追い詰められている時に、ひとつでも逃げ込める場所があったなら。
それは具体的なスペースではなく、心にとって安全な居場所であればいい。
張り詰めっぱなしの糸を休められる時間があれば。
そんな「逃げ場」は自己防衛のための一時停止、生きるために必要な手段だ。

そして自殺は逃げではなく、一時停止することもできないまま強制終了せざるをえなくなること、だ。

大津市の事件を始め、未だに全国各地で起こるいじめ自殺は聞くたびに心が痛む。


自分の子供がもし同じ目に遭ったら、どうしたらいいのか。
加害者(消極的加害者も含めて)にしないためにはどうしたらいいのか。
簡単には答えが出ないから、考え込んでしまう。

究極的にはエジソンのように「勉強はお母さんが見てあげるから、学校に行かなくてもいい!」となってしまうのだろうか。
そういえばエジソンは発達障害を抱えていたという説もあるようだ。

学校は、勉強だけでなく社会的生活を学ぶ場所という意味を思えば「行かなくてもいい」と安易には言えない。
けれど命より大切なものはない、と思えば、エジソン流もまた選択肢のひとつなのかも知れない。

もちろん一番の願いは、悪質ないじめに遭わないこと。もちろん加害者にもならないこと。
小さなぶつかり合いは経験として大事なことだけど、度をわきまえること。
それから親としては、小さなサインを見逃さないように努力すること。

自分の子供はもちろん、たくさんの未来のある子供たちが、いじめなんて下らないことをする奴らのせいで苦しまないために。
もっと言えば、いじめをするような子供を育てた親や生育環境なんかの犠牲にならないために。

また今朝も

2010年01月18日 | テーマ投稿
「医師に診せず乳児死亡」……。

今朝もネットでそんな見出しを見つけてしまった。
子供が犠牲になる痛ましい事件は(悲しいことに)あとを絶たないが、このニュースが特に私の目を引いたのは、死因にアトピー性皮膚炎が関わっていたことだ。

ニュースの概要はこうだ。

『生後7カ月の長男が細菌に感染して衰弱しているのに、宗教上の理由から病院に連れて行かずに死なせたとして、福岡県警捜査1課などは13日、殺人容疑で、(両親)を逮捕した。
逮捕容疑は、昨年2月に生まれた長男が、アトピー性皮膚炎などの悪化で細菌に感染し、重篤な状態だったのに、適切な治療を受けさせずに放置し、敗血症で死亡させた疑い。
長男は全身がただれ、体重も平均の約半分の4.3キロしかなかったという』
(時事ドットコムニュース記事より抜粋。元記事はコチラから

アトピー性皮膚炎は、現在ではまだ対処療法が主流の、完治の難しい病であることは自分の経験からも知っている。
重篤な場合には、入院治療が必要になる場合もあることも知っている。
でも、それがまさか「死」に結びつくことがあるなんて。

ある程度の対処療法は確立されていて、適切な治療を受けていれば多くは一般的な日常生活を送れるはずの、アトピー。
きっとこの子は、かゆくてかゆくて、かゆみに苦しんで、お風呂に入れば滲みて泣き叫ぶほどに痛くて、乾かない傷口や薄皮の張った皮膚は突っ張るし触れるだけで痛いし、本当に身体中が辛くてたまらなかっただろうと思う。

本当にかゆい時というのは、ある意味「痛み」より耐え難いものがある。
なぜなら、痛みは我慢する以外になくても、かゆみは、かけば落ち着くかも知れないという希望を持ってしまうから。
けれど残念ながらアトピー性皮膚炎で患部がかゆい時には、かけばもっとかゆくなり、意地になってかき続ければ皮膚が破れて痛みだけが残ることになる。

だけど乳児に「かゆくても我慢」が通じるわけがない。
死亡時の体重が7ヶ月でたった4.3kg、ということはきっと、かゆみと痛みに苛まれて、ミルクもまともに飲めなかったんだろうと思う。
4.3kgと言えばえいみの2ヶ月弱の頃の体重。
7ヶ月の男の子だったら8kgを越えていてもおかしくないのに。
定期健診も、そしてきっと予防接種さえも受けさせてもらえず、最後は傷口から細菌に感染して敗血症……やりきれない。

どんな宗教を信じようと、それはその人の自由だ。
本人が選択して至った結果なら、致し方ないとも思う。
でも今回のように本人ではない人の意思によって医療を否定しておきながら、助かるものも助けられないなんて、そんなもの、宗教じゃあない。

ニッポンジンには

2007年11月02日 | テーマ投稿
この記事はバスタイムのすごし方のテーマに投稿しています。

むかしから、お風呂はあんまり好きではなかった。
お風呂に入っている時間があれば、本を読みたかった(小さい頃は今の数倍も読書家だった)。
今でも自宅でお風呂に入るのは正直「面倒くさい」。
理由は簡単。
家にいるときはやりたいこと・やらなきゃいけないことがいっぱいあって、お風呂に入っている時間が惜しいのだ。
仕事から帰ってきて、お夕飯を作って、食べて、片付けて。
それだけで、寝なくちゃいけない時間は迫ってくる。
朝は朝で、穂和を送り出した後の短い時間は雑用やブログ作成などがある。

その代わり、温泉やスパに行くのは大好きだ。
撮影で遠出したときはもちろん、休みの日などに市内のお風呂にぶらりと出かける。
そんな時の私のシャワーは早い。
猛スピード(自分比)で頭と身体を洗うと、変わり湯や露天風呂に直行。
岩盤浴があればそこにももちろん入る。
初めての施設なら、とにかく高温サウナ以外の全てのものを試してみる。
湯船では肩まで湯に浸かってぷはーっとひと息。
思わずこぼれる「ニッポンジンには風呂がある」、ずいぶん古いキャッチコピー。
あれは何の広告だったろう、実に深くうなずきたくなる名コピーだと思う。

お湯に浸かりながら、岩盤の上に寝転びながら、考えることはいつも一緒だ。
「さて、あの小説はどうやって展開していこうか」。
私にとって、お湯に浸かる以外にすることのないお風呂という環境は、何よりも一番、小説作品について考えられる時間だ。
周りで人がしゃべっていても全く気にならない。
物語の展開だったり、書き出しだったり、期日だったり。
お風呂では不思議と写真のことを考えることがない。
空を見上げながら、あるいは目を閉じて、頭の中で物語が動き出すのを眺めているのは、妄想人間の私にとって至福の時。
こうして頭の中に形が出来上がると、パソコンやノートに向かった時にはとてもスムーズに手が進む。
ついついうっかり長湯をしすぎて、湯船から上がった時に目の前が真っ暗になることも良くあることだけど。
湯の中で、湯から上がってイスに腰掛けて、を繰り返しながら延々と自分の世界に浸っている。
これからの季節に露天でやったら、確実に凍れます。
でも雪見風呂ってのも、またいいもんですよ。

そんな温泉・銭湯も、今回の燃料の値上げには耐え切れないところがあるんでしょうな。
辛いところだ。

[ブロ記者]

言葉へのこだわり[テーマ投稿]

2006年04月12日 | テーマ投稿
どうでもいいはずの細かいことにこだわり、肝心なことが大雑把と言われることの多い私。
たとえばうちのオカメインコのエサを入れる順番(シードが先でペレットは上に散らす、これ絶対)や、日中の灯油ストーブの温度は18℃限定、などなど。

だけどいざ「あなたのこだわりは」と聞かれると、答えられるようなものが思い当たらない。
こだわり。
色々と思い浮かべた結果、強いて挙げるとすれば「日本語」だろうか。

カタカナ語や外来語が苦手な私ではあるが、会話の中に一般的な範囲で外来語や和製英語、略語を使うことはある。
会話の相手や内容によって、内輪受けな言葉やくだけた言葉を使うこともある。
が、「小説作品」として文章を書くときには、極力日本語にこだわる(作品内に登場する会話を除く)。
それが、日本語で書かれた作品を読んでくれる読者に、一番伝わる言葉だと思うからだ。
「何故書くのか? それは伝えたいことがあるから。ならば伝わるようにしなければ意味がない」。
理由としてはそういうことになるだろうか。

だから時々、日本語で書かれた歌詞の付いた楽曲に疑問を持つことがある。
歌詞の中に英語が多用されているとき、その曲はなにかメッセージを伝えようという意図のもとに書かれているのだろうか、と。
歌詞を音楽(メロディー)の一部として意図しているのならわかる。
音声と楽器の重なり合いを聞かせる楽曲、それなら納得がいく。
あるいは、ある一部の仲間内の共通言語、コミュニケーションツールとしての楽曲ならわかる。
それは仲間内で共有できれば、目的を果たしたことになるのだから。
けれどもランキング上位に入るような一般に向けて作られたと思われる楽曲で、「○○という気持ちを歌に込めました」とインタヴューなどで答えているのを聞くと、では何故そんなに英語の歌詞を多用しているの?と不思議に思ってしまう。

物の名前ならいい。名前そのものの意味合いよりも、雰囲気を重視するということもあるだろう。
音楽のタイトルは、作った人の意図もあるだろうから、判断はそれぞれになるだろう(自分なら日本語にするけど)。
邦画のタイトルは、日本語にして欲しいと思う。
ストーリーがある映画作品なら、伝えたいことも思いもあるだろう。
ぜひともそれを凝縮して、鑑賞意欲をそそるようなものを考えて欲しい。

外来語、カタカナ語、和製英語に略語、という言葉は、方言と同じようなものではないだろうか。
共通点を持つ者同士が、より親しい会話をするための言葉。
逆に言えば通じる範囲は限られている。
伝えたいと思う範囲が広がれば広がるほど、共有できる言葉かどうかを吟味して使う必要がある。
だから私は、自分の書く作品に使う言葉は「日本語」にこだわる。
言葉は時代によって変化をする生き物だとも思う。
日本語としての認知度が高いものならば、新しい言葉も使うことに異存はない。

伝えたいことがある。だから書く。
書くからには伝わるように書く。
そして日本語を耳にして成長したから、日本語で書く。
一人でも多くの人に伝わって欲しいと願うから、日本語に、こだわる。

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