ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

時計と本とカード

2010年03月21日 | 日常雑記
去る19日は自分の誕生日。
新しい年齢の数字を見てもとても実感が沸かないのですが(認めたくないだけ)。

そんな誕生日に、穂和が腕時計を買ってくれると言い出した。
じつは腕時計のプレゼントはいわくつき。
結婚する直前の誕生日に、初めて穂和が買ってくれた腕時計は、わずか2ヵ月後にフェリーの中に忘れてきたまま結局見つからず。
その後もう一度、と買ってくれたものは、仕事でぶつけたりホコリまみれになったり、汗をかいてペタペタになるのを嫌っているうちにいつの間にかつけなくなり、部屋に寂しく置かれたまま。

「今度失くしたら、もう二度と買わないよ」
そう言われつつ、三度目の正直を目指してお店へ向かったのが、18日の木曜日。

アナログ針は譲れない必須条件。
時間はわざとずらすのが好きなので、電波時計はあんまりいらないかな。
電池は交換不要のソーラーの方がいいかなぁ。
せっかくだからちょっとかわいめなのがいいけど、あんまり良いものにして結局また失くしちゃったら立ち直れないしなぁ。

そんなこんなを考えて見ていたらなかなか決められず、その日は買わずに帰宅。

そして20日の土曜日。
改めてお店に行ってみると、ふと目に飛び込んできたものが。
先日来た時にはなかったはずだけど、と思って近寄ってみると「本日発売」の文字。

ガラスケースの中をじっと覗き込んで見れば見るほど、かわいい。
値段も手ごろ。
5色あるけれど、色は迷うことなくコレがいい。
と、ほぼ即決。



ソーラー電池でも電波時計でもないけれど、見た目が気に入ったからそれでいい。
背景に写っているのは、お誕生日当日に友人が送ってくれたバースデーカードとミステリー小説。
家族と親以外の人からお誕生日プレゼントをもらったなんて、何年ぶりだろう。
カードや、メールでのメッセージだけでも、覚えていてくれたと思うだけで嬉しいものよね。
本当にありがとうございます!!

(だから自分も、誕生日を知っている人のところには忘れずにメールを、と思っているのに、かなりの確率で過ぎた直後に思い出す……ごめんなさい)

またですか。

2010年03月09日 | 日常雑記
東京に住む友人から久しぶりのメールが届いた。
と思ったら、共通の友人(同級生)が薬物絡みで逮捕され、出所したという話だった。

「何やってるんだかなぁ、あの人」
もう10年以上も会っていないその同級生の事件に、私の感想はそんな感じだった。
そしてその話を別の同級生に教えたところ、

「悔しい」

という返事が来た。
彼はうつ病を患い、もう何年も病と闘っている。

「麻薬みたいな薬を毎日大量に飲んでいる身としては
何で薬なんか…と悔しさを覚える。
薬漬けでいつ、痴呆になるかとどきどきしてるのよ。まぢで。」
と、彼。
そのメールを読んで、私はふと、以前に勤めていた知的障害者施設のことを思い出した。

施設に勤めるまで、「知的障害」というものについての私のイメージは、
「言葉や物事に対する理解が良くないため、日常生活や他人との意思疎通に支障を来たすもの」
だった。
けれどもそれは、知的障害の一部でしかなかった。
知的障害=脳の活動になんらかの障害がある状態。
だから例えば、こんなことも起こる。

・痛みを感じる感覚が鈍い
→骨を折っていても本人は気が付かず、周囲が仕草の異変によって気が付く。
→重大な病気が見過ごされ、症状が表面化した時には手遅れになることも。
→痛いからイヤだ、という感覚にならないため、刃物のような危険なものでも平気で触ってしまう。

・褒められるのが「嬉しい」という感覚に乏しい
→子供などは「何かをする、褒められる、成功体験として記憶し次のステップへ進む」というのが成長にとって必要な流れだが、褒められることが嬉しいと思えなければ成功体験にもならないし、次のステップにも進みにくい。

・暑い、寒い、(汚れて)気持ちが悪い、という感覚が鈍い
→ケガや病気になりやすい環境になってしまう。

……などなど。
もちろん程度や出方は人それぞれなわけだけれど、総合的に言えば、本来生物として生きるために必要な危険回避能力や学習能力が足りない状態、だ。

生まれつきであったり、事故や病気など不可抗力によって障害を負ってしまったりすることは避けられないかもしれない。
でもわざわざ知的障害を負いたい、と思う人はほとんどいないだろう。

うつ病を患う彼は、症状が辛い時には仕方なく処方薬を飲み、軽い日には副作用の恐怖とも闘っている。
そんな彼からしたら、病気でもないのに危険な薬を服用する同級生の話は「悔しい」以外の何ものでもなかったに違いない。
ましてその薬は明らかに、人間の根幹である脳を確実に破壊してしまうものなのだから。



一時の現実逃避のために、一生苦しみ続けなければならないなら、辛くても今現実に向き合った方がよっぽどマシだ。

……などと書いていたら今日、またしてもミュージシャンが覚醒剤で逮捕されたとのニュースが。
「芸術家」がクスリでオカシクなっているのがカッコイイ、なんて時代は、1世紀以上も前に終わっていると思うんだけど、なぁ。

ざらめ雪

2010年03月02日 | フォ撮りある記
午前中えいみを連れて外に出てみたら、昨夜さらっと降ったらしい雪が太陽に照らされてざらめのように光っていた。
指先に取って光に透かしてみると、きれいな結晶が見える。
そういえば結局今シーズンもまともに結晶を撮っていなかったな、と思って、えいみが昼寝に入った隙にカメラを持ち出す。



滴、ではなく滴が凍った氷玉。

よく見れば結晶はあちこちにある。
でもどれも狙っている間にみるみる融けて形が変わってしまう。



結晶を探して素早く狙って、撮る。
なかなか形の良いのには出会えなかったけど、久しぶりに快晴のお天気の下での撮影(と言っても30分くらいだけど)は気分リフレッシュにもなって楽しかったわ。

幕は下りても

2010年03月01日 | 日常雑記
某政治家氏の、オリンピックに関する「銅なんて誰でも獲れる」旨の発言(しかも生放送番組や取材など複数の場所で)があったのはもう数日前。
最初はまたこの人かと思いつつも、

「金でなければ意味がない、というような言葉は、当事者本人が自らのために言うべきもので、直接関係のない人間が言うべきものではない」
「居酒屋で、仲間内とかでくっちゃべっているのとは違う。政治家が公の場で言うべきことか?」
「結果が全てと言わんばかりの内容は、裏を返せば良い結果のためなら手段はどうでも良いのか、と聞きたくなる」

などなど色々と書こうかと思ったのだが、調べるほどにウンザリしてきてもうどうでも良くなってしまった。
ネットでかなり頑張って探しても、動画や詳しい元記事が少ししか引っかかってこないことにも、奇妙なものを感じながら。

フィギュアの採点に関しては「負け惜しみ」と言われたくないのであまり触れたくないけれど、スッキリしないものが残る。

それに加えて、2chのサーバーダウンとサイバーテロ疑惑(予告もあったとか)。

何だかもう、疲れちゃうよね。
ネガティブキャンペーンのような行動ばかりして、何が楽しいんだろう。
プラス思考・ポジティブシンキングが脳や健康に良いって言われていても、ネガティブなネタほど盛り上がる。

どの競技でも、金を獲れなかった悔しさは選手の人たちが一番感じているはず。
それでも最後は全ての思いを飲み込んで笑顔を見せてくれていた。
その笑顔に、見ているこちらも励まされる……それで終わり、でいいじゃない。
それ以上に外野が引っ掻き回すことに、何の意味があるんだろう。

オリンピックの幕は下りた。
そして今日から3月。
北国にだって遅い春の足音が聞こえてきていますよ。
どうせなら後味すっきり、明るい話題でいきましょうよ。


↑こんな姿はまだ温室でしか見られませんが。