ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

二度オイシイ

2010年02月21日 | 日常雑記
冬は野菜の値段が高くなる時期。
お野菜たっぷりのお鍋や炒め物や焼肉が大好きな我が家では、思う存分シャリシャリバリバリと野菜を食べたいのに、そうも行かないのを寂しく感じる時期でもある。

そんな時に、ちょっとしたオトク感からちょいちょい買うようになったのが、豆苗(とうみょう)。

エンドウの若芽でもともとは中華の高級食材として使われていたものらしい。
スーパーで売られているのは豆から発芽されたスプラウト。
スプラウトだけに、小さいくせに栄養価は高い。
カロテン、ビタミンK、E、Cなどが豊富らしい。

クセがないので下ゆでもいらず、根がらみで売っているそれを根元近くからチョキチョキと調理バサミで切って軽く水洗いするだけで使える。
うちでは、炒め物、焼肉の具、お鍋、お味噌汁といろいろに使いまわし。

この豆苗が「オイシイ」のは、栄養価や手軽さだけではない。
茎から上を使い切った後に残った根っこを、水を張ったプラスチックトレイに入れておくだけで再収穫ができてしまう。



現在我が家で再収穫中の豆苗ちゃん。
数日で一気にわさーっと生えてきて、またチョキチョキと収穫できる。
うまくすれば2~3回はいける。
日当たりが良くなくても大丈夫。

台所に立ちながら、次はいつ収穫できるかな~と眺めるのも楽しかったりする。
たまに、オカメーズが留まって根元近くからシャキシャキと食い散らかしてしまうこともあるけど……。
もやしと並んで、「使えるヤツ」なお野菜だ。

ちよこれいと

2010年02月15日 | 日常雑記
基本的に本命チョコ以外は(面倒で)あげない主義の私。
とは言っても外で働いている時には、勤務日なのにあげないのも微妙かと思って、職場の女の子をつかまえて共同出資という形で義理チョコ(感謝チョコ?)をあげていた。

そんな私にとっては、穂和の分だけ作っていればいい昨年と今年はとても気楽なバレンタイン。
昨年は張り切ったもののちょっぴり失敗ぎみだった生チョコレート。
今年はどうせえいみがウロウロして落ち着いて作れないだろうと思い、湯煎して型に流しこんだものにデコるだけという、簡単だけどかわいく見える方法にすることにした。

オリンピック中継を見ながらチョコを刻み、溶かしていく。
ふと思い立ってカメラを持ってしまったからさあ大変。



こんな感じから始まって、



これを撮り始めるとあっという間に時が経つ。
もうちょっと広い範囲にピントを……とやったつもりだけど、もっと絞り込めば良かったと反省しつつ。
背景も余計なものが入っちゃってるしね。

そのうち、作っているのを撮っているのか、撮るために作っているのかわからなくなっていく。
出かける約束で準備をしていた穂和も、待ちくたびれてお昼寝してしまう。



そんなこんなでできあがったのが、これ。
「頑張ったねぇ」の言葉にほっとする。

「2年ぐらいしたらえいみと一緒に作ってね」と穂和。
「作ると思うけど、4年後くらいには失敗作だけがパパのところに来ると思うよ。うまくできたのは、幼稚園の○○くんにあげる~ってね」と私。
いつまで「パパが一番!」でいてくれることやら、ね(笑)

vsナイチ人

2010年02月09日 | 北海道だべさ!
先週末、横浜から私の両親が孫の顔と雪景色を見に札幌へやって来た。
母は冬の北海道が初めて、父は道央圏へ来るのが初めて。
えいみもすぐ慣れて、じぃじとばぁばにちやほやされて大喜び。
ほっとひと安心、めでたしめでたし、とそこまでは良かったのだが。

それは初日の夕食後から始まった。

大人の夕食の時間にはえいみはとうにお布団の中。
ホッケのちゃんちゃん焼きを囲んで父母はお酒も飲み、みんなで和やか、孫話にも花が咲く。
やがてお開きになり、酔って眠気のさしてきた父は2階の寝室へ。
と、ストーブと鉄板で暖まったはずの室内に、すぅっと冷たい風が滑り込んできた。
もしや、と思って慌てて2階へ上がってみると、案の定、父が寝室の窓2つを全開にしていた。
この日の外気温、氷点下12℃。

私「なにやってるの!」
父「空気の入れ替え」
私「寒くなるからやめてよ!」
父「そんなこと言ったって、空気が悪いじゃないか」
私「窓なんか開けたらあっという間に家中が冷えるでしょ! 一回冷えたら暖まるのに時間も燃料もかかるんだよっ」
父「だってこれ(寝室に置いていたポータブルの灯油ストーブ)に書いてあるぞ、1時間に一度は換気しろって。俺はこんなところで一酸化炭素中毒で死にたくない」
私「死なないわよっ。6畳用のポータブルで2階から1階まで空気を流してるんだから。あくまで1階のFF暖房の補助なの。だいたい、それでずっとやってる私たちが死んでないでしょ!」
父「だけど新鮮な空気が吸いたい」
私「だったら一人で外に出てれば良いでしょ!」
私は強制的に窓を閉めてカギをかけた。

思い出してみれば、父の窓開け癖は今に始まったことではなかった。
実家にいた頃、冬の夜の夕食後は母と私対父のバトルだった。
特にお鍋や焼肉などをやった後にはひどくて、家中の空気を入れ替えると言い張る父が南向きのリビング、寝室から北向きの部屋と玄関のドア、そしてトイレの換気扇に至るまで全てを開け放ち回し続け、家の中に溜まった暖かい空気をきれいさっぱり追い出そうとしていた。
母と私がいくら抗議しても、父は全くやめようとしなかった。
母は足元が寒いと嘆きながら台所に篭って片付けをし、私は自室のドアを固く閉ざして温もりを確保した。

それでもまだあれは、寒くても辛うじて5℃前後はあったと思われる、横浜の冬のこと。
窓を開けただけで冷凍庫並みの白い冷気が入ってくる北国とはレベルが違う。
いくら客人であっても、ここは家人に従っていただきます。

と、固い決意をした翌朝。
とても予想通りのことだったが、目覚めた父がやはり寝室の窓を全開にした。
布団を畳む時に開けたくなる気持ちは、少しはわからないでもないけれど、全開はやりすぎ。
即、抗議。
こっそりと開けていたつもりらしい父は「どうしてわかったんだ」と苦笑い。
ここもきっちり閉めていただいた。



散歩に出たら、近所の公園の桜の枝に固いつぼみができ始めているのを発見。



無理やり拡大。
こんなに寒いのに。
開花まで3ヶ月はあるのに。



公園はまだ見事に雪景色なのに。
そうです、春の息吹を見つけたとは言え、北海道はまだまだ寒いのですよ、父上どの。

じぃじ

2010年02月02日 | 日常雑記
あさってから週末にかけて、横浜の両親がうちへ遊びに来る。
目的はもちろん雪まつり……ではなく、孫の顔を見ること。
母は出産直後に手伝いに来てくれたのでえいみと会うのは二度目だが、父は初対面。
札幌のじぃじ(お義父さん)にはちょこちょこ会っているえいみさんだが、もう一人のじぃじにはどんな反応を見せますやら。

私自身にとっての「おじいちゃん」は、父方の祖父は私が生まれた時にはすでに亡かったので、母方の祖父だけだ。
祖父は空襲で大怪我を負い、戦後は大きな病気を患った。
私の記憶の中では特に床に伏せっているということもなく、釣りとパチンコが好きなふつうのおじいちゃんだった。
祖父にとって私は一番幼く、唯一の女孫でもあった。
自分の子供たちは全員女で、男の子が欲しかったからと私の母(三姉妹の次女)を男の子扱いしていたという祖父。
お陰でケンカも勉強もそんじょそこらの男の子には負けなかったという、負けん気に育った母。
(さらにその母に育てられ、お転婆な上に父譲りの頑固をプラスして受け継いでしまった私……)。

病気の名残からか、祖父はいつも痩せていた。
一緒にお風呂に入ると、鎖骨がくっきりと浮かんで見える。
幼い私は悪気なく、「肩で金魚が飼える」と喜んでいた。
「次に会う時は金魚を何匹飼えるようになってるかな?」
お風呂のお湯を肩のくぼみに流し込みながら、無邪気にそんなことを言っていた記憶がある。
祖父は笑いながら「ほうか(そうか)、ほうか」と頷いていた。
入れ歯のせいで空気の抜ける発音になっていたのか、祖父の同意はいつも「ほうか」。
だから私は祖父を、ほうかほうかのおじいちゃん、と呼んでいた。

祖父はよく男孫である従兄たちを連れて釣りやパチンコに行っていた。
私は、パチンコには何度か連れて行ってもらったことがある(当時は子供連れでも大丈夫だった)。
そしてお正月に人が集まると、相手を替えながら囲碁や将棋の対戦をするのも好きだった。
私は祖父に将棋を習い、勝負をした。
対局の時、祖父は相手が子供であっても真剣勝負をしてくれた。
そんな祖父に一度だけ私が勝って、飛び上がって喜んだことを覚えている。

母が子供の頃は身体が悪いながらも怒ると怖く、厳しい面もあったという祖父。
でも私にとってはいつも笑顔の、優しいおじいちゃんだった。
その祖父は、私が中学3年生の時に亡くなった。

「娘」にとっては色々な思いのある、「父親」の存在。
でも孫にとってのおじいちゃんは、また全く別のもの。
えいみにとってのじぃじ、私の父は、どんな存在に映るのだろうか。
そして父はどんなじぃじに変身するだろう。
ちょっぴり、楽しみだ。



じぃじ、ではなく、ひな壇飾りの左大臣。
初めての女孫のために、ほうかほうかのおじいちゃんと祖母が奮発して贈ってくれた七段飾り。
今年からはひ孫であるえいみのために、我が家に飾られている。
きっと二人とも、空の上から笑顔で見守ってくれているよ、ね。