近頃はあまり外に出る生活ができていないためか、天気やら何やら雑多な話題になることが多い。
ネタがないといえばそれまでで、やはり何かに携わっていればいいことも悪いこともあってネタも自然と見つかるわけだが、現状はまた間が空いてしまっているので書くことに困る。
困るくらいならホッタラカシでもいいのかもしれないが、長く放置して極小値まで落ち込むアクセス数を確認するのは何とも忍びない。
どんな形であれ、とりあえずは生きているので、思うことがあれば記録しておこうと考えている次第である。
さて「2月7日」は、私が3年前に本欄をスタートさせた日である。
それ以前は自作のウェブサイトがあって、その日記コーナーにいろいろと書いていたが、他のページが全然更新されないという体たらくに陥り、どうせなら日記だけ独立させようと思ってブログに入会した。
あらためて3年前の記事を眺めていたが、今と違うことはあまりない。
当時も今とまったく変わらぬシニカルな雰囲気が充満している。
あえて相違点を探せば、英数字が「全角」であることくらいだ。
画像やら何やらいろいろ入れてもいいが、今まではほとんどやっていない。
もともと旅行のときくらいしか写真を撮らない人間であるし、そういったものは本欄ではなくウェブサイトのほうに入れてしまうからである。
自分で言うのも何だが、本欄には決して明るい雰囲気はない。
意識的に軽い感じにしようかと考えたこともあったが、くすぐったいのでやめた。
全体には、私の「素直でない」本質が前面に出て、ともすると重い感じになっていることが多いと思う。
皮肉屋とはよく言われるし、そのために人生の中であらぬ誤解を招いたことも数多い。
私の誕生日である11月2日の「誕生日占い」にもそう書いてあったくらいだから、これは運命というほかない。
しかし、物事の本質を冷徹に観察し追い求める性格なくしては、私が私でなくなってしまう。
不必要な感性ゆえに不必要な軋轢を起こすことも多いわけだが、根本的に完治することはないのだろう。
こんな性格だから、今後もこの憂き世での「生きにくさ」を感じながら過ごしていくことになるのだろう。
しかし生きにくいからといって、あきらめては終わりだ。
どんな形であっても、神様が生かしてくれている限りは生きよう。
日々、どんな小さなことでも何か1つは喜びを感じよう。
毎日少しずつでも積み重ねることができたなら、いつ終わりがやってきても悔いはないと思えるはずだ。
今日から本欄は4年目に入った。
コレといって努力もしていないからアクセスも多くない。
コメントも1年に1回付くか付かないかだが、続けていられるのは人生の記録のため、それと同時に日常の「心のゴミ」を吐き出すためである。
書き言葉で表現することが自身にフィットしてもいるから、ほとんどは「自分のため」にやっているということだ。
今後も、体育会系的な熱さとは正反対の今のような雰囲気で、ツラツラと書き散らしていければいいと思っている。
ネタがないといえばそれまでで、やはり何かに携わっていればいいことも悪いこともあってネタも自然と見つかるわけだが、現状はまた間が空いてしまっているので書くことに困る。
困るくらいならホッタラカシでもいいのかもしれないが、長く放置して極小値まで落ち込むアクセス数を確認するのは何とも忍びない。
どんな形であれ、とりあえずは生きているので、思うことがあれば記録しておこうと考えている次第である。
さて「2月7日」は、私が3年前に本欄をスタートさせた日である。
それ以前は自作のウェブサイトがあって、その日記コーナーにいろいろと書いていたが、他のページが全然更新されないという体たらくに陥り、どうせなら日記だけ独立させようと思ってブログに入会した。
あらためて3年前の記事を眺めていたが、今と違うことはあまりない。
当時も今とまったく変わらぬシニカルな雰囲気が充満している。
あえて相違点を探せば、英数字が「全角」であることくらいだ。
画像やら何やらいろいろ入れてもいいが、今まではほとんどやっていない。
もともと旅行のときくらいしか写真を撮らない人間であるし、そういったものは本欄ではなくウェブサイトのほうに入れてしまうからである。
自分で言うのも何だが、本欄には決して明るい雰囲気はない。
意識的に軽い感じにしようかと考えたこともあったが、くすぐったいのでやめた。
全体には、私の「素直でない」本質が前面に出て、ともすると重い感じになっていることが多いと思う。
皮肉屋とはよく言われるし、そのために人生の中であらぬ誤解を招いたことも数多い。
私の誕生日である11月2日の「誕生日占い」にもそう書いてあったくらいだから、これは運命というほかない。
しかし、物事の本質を冷徹に観察し追い求める性格なくしては、私が私でなくなってしまう。
不必要な感性ゆえに不必要な軋轢を起こすことも多いわけだが、根本的に完治することはないのだろう。
こんな性格だから、今後もこの憂き世での「生きにくさ」を感じながら過ごしていくことになるのだろう。
しかし生きにくいからといって、あきらめては終わりだ。
どんな形であっても、神様が生かしてくれている限りは生きよう。
日々、どんな小さなことでも何か1つは喜びを感じよう。
毎日少しずつでも積み重ねることができたなら、いつ終わりがやってきても悔いはないと思えるはずだ。
今日から本欄は4年目に入った。
コレといって努力もしていないからアクセスも多くない。
コメントも1年に1回付くか付かないかだが、続けていられるのは人生の記録のため、それと同時に日常の「心のゴミ」を吐き出すためである。
書き言葉で表現することが自身にフィットしてもいるから、ほとんどは「自分のため」にやっているということだ。
今後も、体育会系的な熱さとは正反対の今のような雰囲気で、ツラツラと書き散らしていければいいと思っている。