主宰5句 村中のぶを
炭山(やま)の日の記憶ふくらめ月見草
盆灯篭写真の父母と熊本城
捌(は)け道のいまはままこのしりぬぐひ
葛の花釈超空の道として
六角堂人気なく秋の潮荒(あ)る
松の実集
小鹿田焼 白石とも子
この村の窯元十戸柿実る
唐臼の陶土打つ音秋高し
秋澄むや足蹴りろくろ動き出す
薄紅葉村に新たな昇り窯
大皿に野ぶだうを盛り商へり
曼珠沙華 村中珠恵
表紙絵に糸瓜を描き子規忌かな
参道は鎮もり秋の深さかな
秋蝉や親鸞ゆかりの寺なりし
花すすきおん影ひそと女人佛
曼珠沙華筑紫路のこと母のこと
国学者伊藤常足旧居
福岡県鞍手郡鞍手町
竹林に野分の名残り旧居訪ふ
町あげて旧居復元秋高し
竃辺に旧居の家訓身にぞ入む
奥津城へまたぐ小流れ石蕗の花
宮土俵使はぬままに落葉舞ふ
白糸の瀧 西村泰三
白糸の瀧
瀧頭照りゐ小暗き木々の奥
深呼吸大きく滝見お立ち岩
吾を襲ふかに滝口を出て伸び来
瀧へ槍刺すかに木漏れ日一条
虹生るる瀧面へ日の差し初めて
雑詠選後に 村中のぶを
山鹿燈籠千の灯の輪の揺るる海 伊織 信介
「山鹿燈籠」とは、熊本、山鹿市の例年八月十五、十六日の、山鹿燈籠祭の事です。私も先年、祭に出合ひましたが、それは圧巻でした。その由来ですが、唯一、市から貰った散らしと、宗像夕野火編『火の国歳時記』 から引きますと次の通りです。
第十二代景行天皇熊襲征伐の折、菊池川一体の濃霧に難渋されてゐるのを、里人は松明をかかげ天皇をお迎へしたといふ故事に始まり、十六日夜から翌朝にかけて行はれ、夜明し祭ともいはれる。午後七時半頃より山鹿大橋より天皇行在所だった大宮神社まで御神火行列があり、六〇〇年程前から紙細工で金燈籠を模したものを奉納するやうになり、祭りは燈籠を燈籠台に飾り付け、担いで奉納する(上り燈籠)行事と、市内の婦女子が頭に燈籠をいただき踊る(燈籠千人をどり)が町の広場で始まる。 以上ですが、それこそ街中、火の海、人の波になります。燈籠には人形燈籠、金銀燈籠、宮造など種類がありますが、いづれも全部紙製で、その精密さは郷土芸術としても重用されてゐます。
掲句は次の「櫓巻く」の句と共に祭の全容を善くぞ詠みとつてゐると感じ入ります。特に揺るる海、揺るる闇、櫓巻く、の措辞に注目すべきでせう。
わが家にその折の金燈籠人形を飾ってゐますが、その楚楚とした姿に (山鹿燈籠は骨なし燈籠ヨーヘーホー、ヨーヘーホーと哀愁に満ちた歌声が耳に残ってゐます。
常ならぬ酷暑鬼城の句さながら 向江八重子
「常ならぬ酷暑」とは、昨今の歴史的な暑さを叙して、「鬼城の句さながら」とは、村上鬼城の
念力のゆるめば死める大暑かな
の句に因んでの措辞と思ってよいでせう。
いきなり一句の内容から述べたのですが、この鬼城俳句の特色について、生と死の二面性があることは世に膾炙した評釈ですが、作者のさながらといふ措辞もまたその生死の事を暗に指してゐます。
人生のある時、掲句のやうな思ひに至る日があるのですが、それにつけても格調の高い諷詠です。
燕帰る他郷を知らぬわれを置き 小鮒 美江
上州の風土に根付いて暮す作者独白の一句です。京極杷陽に(浅間嶺に眼凝らせば秋燕) などの例句が見えますが、「他郷を知らぬわれを置き」とは、何も遠くに眼を凝らさずとも、今、此処に在る自分を詠じて、自然への率直な思ひを吐露してゐます。それに口誦性を伴った句としても実に印象的です。
裏妙義山(めうぎ)白竜めける霧疾風 細野佐和子
幻想的な旬です。それも「裏妙義山」といふ地勢が生きてゐます。奇岩怪石の山塊に妙義湖と呼ぶ人造湖が「霧疾風」を生む水面となり、「自竜めける」幻想が実感として想像出来ます。描写がまた活き活きとしてー。
葛の風天地返しの小昼どき 竹下 和子
掲旬、語句の引用、関連が面白いと思ひます。つまり「葛の風」とは葛の大葉が風に翻ってゐる様、「天地返し」は畑を掘り返して土の上下層を入れ替へる事、それは恰も自然も人も同じことをしてゐると、小昼をとり乍ら作者は眼前を興味深く眺めてゐる、その折の一句でせう。作者は奥球磨の人、真に風土に親しんでゐる人の詠句です。
無言舘出でて目深に夏帽子 山岸 博子
無言館
作者は札幌在住、「無言館」は信州上田の地、遥々と訪れた作者にとって貴重な一句です。私も六年前同じ季節に訪ねました。
無言館は知る人ぞ知る、コンクリート打ち放しの、十字架形をした小さな私設美術館で、館主は彼の水上勉さんのご子息、窪島誠一郎氏です。それも先の日中、太平洋戦争で没した画学生たち三十余名の遺作、遺品約三百点を展示した美術館です。
館内は終始無言で音もありません。一句の拝観し終って外に出て「目深に」とは、その敬虔さをこの上なく表出してゐます。「夏帽子」は黒でせうか。私も外に出てアカシアの花のしとしとと散ってゐるのを見て尚更言葉を失ってゐました。
老い一人島の畑の唐辛子 中村千恵子
遠くない日に博多湾の能古島を訪れた折、全く同じ光景に出合ひました。何するのでもなく老いた人が段畑の畦にひとり立って私達のバスを眺めてゐました。それが遠くなるまででした。掲旬では私の出合った同じ点景に「唐辛子」の赤い実が淋しく詠出されてゐますが、それはなにか今時の世相の一端を垣間見るやうな思ひに誘はれますが、これは私一人の飛躍した思ひでせうが!。
法師蝉鳴きつぎ森をふくらます 高村美智子
「森をふくらます」、率直な表現に一瞬違和感がありましたが面白いと思ひます。同時に飯田蛇第の (ひぐらしのこゑのつまづく午後三時)といふ句を思ひ出しましたが、共に即興的に成った句で、特に掲句について私には童話めいたイメージが有ります。