徳富蘆花は大正12年(1923)に伯母竹崎順子の伝記を書いています。書名はその物ずばり「竹崎順子」なのですが、竹崎順子は矢嶋四賢婦人の一人として熊本では有名な女性です。
その竹崎順子が生まれた上益城郡津森村杉堂の木山川にこの橋はありました。架橋地点は荒瀨と字名が付いているとおりの急流で木橋を架けても直ぐに流されてしまうので洪水に強い橋がほしいというのが村人たちの永年の念願でした。庄屋の矢嶋彌平次が私費を投じてここに眼鏡橋を築造したのは文政2年(1819)で、順子が生まれる6年前のことでした。
県道28号線は熊本市~高森町を結ぶ幹線道路。
この地点に文政2年~明治33年の81年間眼鏡橋が架かっていました。
下流を見る。すぐ下に布田川との合流点がある。この橋が橋体を丹で塗りたてられた眼鏡橋だったのです。
下流から上流を見る。急勾配であることが写真でも分かりますが、この奥はさらにきつい勾配で急流というよりは緩やかな瀧と言った方がぴったりします。
矢島氏建橋于急流郷人皆悦之余来此地観之栽詩贈焉
(矢嶋氏急流に橋ヲ建テル郷人皆之ヲ悦ぶ。余此地ニ来タリテ之ヲ観ル詩ヲ栽シテ贈ル)
林巒対鬱葱 渓路転西東 (林巒対して鬱葱 渓路西東に転ず)
直訝瞿塘口 兼疑巫峡中 (直ちに訝る瞿塘口兼た疑う巫峡中)
橋成裊碧水 岸断掛丹紅 (橋為って碧水裊たり岸断(たえ)て丹紅を掛く)
屡掲扶漁客 泳游助牧童 (屡掲ぐる漁客を扶け泳游牧童を助く)
鄭郷余豈用 元凱力還同 (鄭郷余あにもちいんや 元凱力また同じ)
本為斯民建 興仁在徳風 (もとこの民の為ニ建つ仁を興す徳風在り)
上は当時上陣に住んでいた儒者、朝来先生こと嵯峨直方が眼鏡橋を観て感動のあまり作った詩ですが、この詩の中に眼鏡橋が彷彿とします。
瞿塘口(くとうこう)、巫峡中(ふきょうちゅう)・・・西陵峡(せいりょうきょう)を合わせて中国長江三峡という。李白に白帝城という詩がありますが、この景勝の三峡を軽舟で下った時に作った詩です。こういう詩を当時の知識人は読んでいたのですね。
丹紅を掛く・・・眼鏡橋は丹で塗られていました。この橋は建設中から近隣の評判を呼び見学者が絶えなかったと言われています。それは藩侯の耳にも入り、彌平次は架橋の功績で一領一匹に取り立てられ正式に熊本藩の武士となります。
この彌平次の嗣子が忠左衛門直明でその子供たちに順子などの四賢婦人がいます。