矢嶋忠左衛門は文政9年(1826)唐物抜荷改方横目に昇進します。この職は平の横目より席次が上で役料が増えるだけでなく役宅が宛がわれます。則ち杉堂村の自宅から宮園村の役宅へ転居した訳です。この役宅は木山川(秋津川)のほとりに200坪ほどの敷地に茅葺き二階建ての住居と泉水のある庭園付で中流階級の住居でした。
忠左衛門一家は天保9年(1838)までの12年間をこの役宅に暮らしますが、その間に久子、つせ子、かつ子、さだ子の4人の子女を設けます。どうも矢嶋家は女系の血筋のようで、9人の子のうち男子は源助と五次郎(5歳で夭折)の2人だけで、五次郎は夭折したので実質男子は源助1人だけでした。ですから、男子が欲しいという強い願望がありました。
ところがうまれるのは順子、久子、つせ子と女子ばかり 楫子の時には今度こそはと祈るような気持ちのところにまたしても女子でしたから、落胆のあまり忠左衛門はお七夜を過ぎても名前を着けません。10歳になる順子がこれを可哀相に思って「かつ」 という名を申し出て10日目に許されたということです。楫子がきかん気のいつも心の中に反抗心を燃やしているような複雑な女に育つのは無理からぬことでした。楫子は兄源助から「渋柿」と渾名をつけられ、姉たちからも渋柿、渋柿と呼ばれてそだちます。しかしこの渋柿は超大物に成長して渋が抜けます。
役宅跡の写真です。震災前には家が建っていたらしいですが、今は空き地になっています。
写真中央に亭々と聳えているのは樅ノ木です。この樹ノ木は久子が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた穴に忠左衛門が植樹したものです。(徳冨蘆花「竹崎順子」による)
えなの処置など現代人は気にもかけませんが、前近代の人々は昔からの習俗に従っていたのでしょうね。これには前近代の宗教的背景がありそうです。植える樹木がなぜ樅ノ木なのか、椿や桜ではいけないのか、考えればきりがあありませんが、それは民俗学の領域ですね。
矢嶋家では代々そうして来たのだと思われます。そうするとつせ子以下の胞衣もその木の周りに埋められたことになります。
久子が生まれたのは文政12年(1829)ですからこの樅ノ木は樹齢190年になります。写真右奥にクレーンが見えますが、秋津川の復旧工事をしています。役宅からは100mもないくらいです。矢嶋家のご寮人たちは熊本の暑い夏をこの川の水遊びで凌いだことでしょう。
余談になりますが、序でに申しておきますと、今秋津川と呼ばれている川は往昔木山から流れ出ているという意味で木山川でした。水源はこの辺りに湧出する阿蘇伏流水です。従って冷たく清冽な流水でした。そして今木山川と呼ばれている川は往昔赤井川でした。これに矢形川を合わせて益城三川と呼びます。
木山神宮。社殿は震災で倒壊したままです。鳥居のない神社は締まりがないですね。
藩政期のころこの神社は「若宮大明神」と呼ばれていました。その若宮さんのお祭りに矢嶋家のご寮人たちは母鶴子が作ってくれる鹿の子絞りの髪飾りを着けて参詣します。その髪飾りの美しさは人々が目を瞠る程のできで、遊び友達からうらやましがられたと後に順子が述懐しています。このお社は役宅のすぐ東側にあったのでここの境内が娘たちの遊び場で、四季折々鬼ごっこ、陣取り遊び、蝉取りなどの遊びに興じていたことでしょう。
このお地蔵ささまも役宅の近くにあります。建物が傾いていますが、震災の爪痕です。転倒した灯篭が脇の方に積み上げたままになっています。
田掻地蔵とは珍しいお地蔵さまですね。田掻きとは恐らく代掻きのことで、お百姓はお供え物をして持ち馬の無事と代掻きの安全を祈のったのでしょう。また死んだ馬を供養するお地蔵さまでもあったのでしょう。なぜ馬かと云えばお堂の中に馬の写真が飾ってあるからです。
このお地蔵さまを矢嶋家の娘たちも朝に夕に見ていたはずですから、なにやらそこに歴史の不思議を思うわけです。
娘たちのなかで最もきかん気がつよくお転婆で闊達だったのは久子でした。久子6歳の時、姉順子が役宅の菜園に育てていた大切なほおずきがそろそろ熟れはじめたころ姉に向かって、
「お姉さまわたしに一つください。」とせがみました。
「もっと熟れるまで少しお待ちなさい。」と順子の返事。
久子は不服そうな顔をしてその時はひきさがりましたが、翌日順子が手習いから帰って、ふと見ると久子の縫い上げからほおずのはみ出しているのが見えます。はっと思って菜園に行ってみると、あろうことか大切のほうずきは見るも無惨に1つ残らずひんむしられています。
順子はその場に泣き崩れてしまいました。
久子が遊び友達を大勢引き連れてきてやったことでした。この時久子は友だちと地蔵堂に上がり込んでほおずきをおもちゃにして心ゆくまで遊んだのでした。